昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。
- 島崎城の構造
馬出曲輪
島崎城の縄張のうちで特長のひとつにあげられる遺構が,この馬出曲輪(仮称)である。この曲輪は,標高29.85m,土塁を含めた面積は約687㎡で25m×23mの平場と三方に土塁がめぐ る構造である。1曲輪側に土塁がなく,南東外斜面側にも土塁はなく,東南コーナーに若干の土塁が認められる。
この曲輪は、堀切 <1>を隔てⅠ曲輪虎口があり,堀切 <2>の東南で土橋が接続して、東Ⅱ曲輪からのルートを形成する。すなわち東Ⅱ曲輪から土橋をもって曲輪内に一旦入って、90 度まがって,堀切〈1〉をわたり曲Ⅰ輪に至るのである。Ⅰ曲輪の虎口は一カ所のみであるから、その虎口前方に位置し、東Ⅱ曲輪との中間に位置するこの空間の防備は重要である。堀切 <2>にある土橋はひとりか一列縦隊で通る幅(上幅80cm)であり,堀切 <2>のコーナー (北東)上には櫓台状土塁があり,北西コーナー土塁上にも物見台(曲輪内より3mの高さ)があって、警戒を固めている。
五角形で四辺形に近いプランで構成されて,外壁斜面の方向(東側の土塁のない面)の塁壁面は,コンタが内側に入り込み、ここが急スロープ状の竪堀であったことがわかる。すなわち, 堀切 <1>である Ⅰ曲輪虎口以外の方向は,いずれも強固な構えで,防備上の要であったことがわかる。このように重要な曲輪や大手口の虎口前方に外部との緩衝空間をつくり,入城ルー トを複雑とし、その緩衝地帯を土塁(または石垣)と堀で囲った設置を馬出という。馬出は, その型から丸馬出と角馬出,辻馬出などに分類され、左右の横矢や位置の凹凸から真馬出・草馬出に大別されている。島崎城の当空間は五角形であれが,角馬出に分類される遺構といえる。
この馬出をもった城郭構築は、戦国後期から近世初頭に完成する。これは現状残存遺構成立期を推定する有力な資材といえる。(図25を参照)馬出曲輪をめぐってコの字形に空堀<2>が穿たれる。実効堀幅14m (上幅11m),埋没が著しいが現状直高6m,法高10mを測る。この堀幅は戦国期でも中期以降(末期近く)の長柄鑓普及以後の構築であることを示している。
東Ⅱ曲輪
馬出曲輪につづいて,近世でいう二の丸に相当する東1曲輪が台地稜線上の平場に広がる。東西20~35m (平場17m~30m)・南北75m(平均70m),約2328㎡の面積を有する。平場の標高30.18~30.20前後で、城内の曲輪のうちで最も高レヴェルに位置し、北側土塁褶の八幡台は標高34mで、城内で最高所にあたる。平面プランは瓢箪形で中央部が縊れるが,これは自然地形による湾曲と,外周に穿っ堀切〈4〉への横矢掛りによる防備上の必要性による。今日曲輪内には空堀<3>の堀底(現状埋立) 道より南西より坂があって入るコースと,前述の馬出曲輪の土橋を経由するものとがある。図1,図2をみても明らかな通り,南西からのコースは,空堀<2>を埋めたて,近世もしくは近代に内輪内に耕作地を設け、その住来のための坂道である。従って,この坂道は廃城前にはなく,土塁が空堀<2>に接していたことになる。となる と、外からの進入は、空堀〈4〉の上に架橋したと考えるしかない。すなわち,①虎口(イ) から帯曲輪に入り,②虎口(ハ)を通過し,③空堀<4>の堀底道をぐるりめぐって,④東Ⅱ曲輪東側中腹の堀の終る地点より,外周土塁上にのぼり,⑤比較的ゆるやかな坂道を物見台上にまでのぼり,⑥架橋されてきた橋をわたり,⑦八幡台に入ったものとみられる。八幡台が幅3~3.5mもあり,土塁福としては必要以上に幅広で,物見台中腹に腰曲輪があるが,腰曲輪は橋脚のため、八幡台と物見台が幅広の削平地であるのは橋梁の設置のためともみられる。しかし,このルートはあくまでも推定の域を出ない。
東Ⅱ曲輪東南部は、若干の土塁状痕跡がみられるか、土塁が崩れた跡であるのか,耕地化した折の根切りにともなう区画であるのか、判断できない。縁淵部は南側で土橋接続部分の幅1. 5mの通路となって20mを空堀<2>に並行して延び,90度折れて土橋となる。
西Ⅱ曲輪
Ⅰ曲輪の西北,空堀〈2〉を隔てて,西Ⅱ曲輪がある。両曲輪を分ける空堀〈2〉は実効輻 14~16m (上幅13~15m), 現状の深さで7~7.5mを測る。曲輪内平場は、東西35m・南北50m余り,面積は約1639㎡である。
注目される遺構は,南側にある桝形虎口で,方形に12m×10m, 深さ2.5m掘り込まれ、かつては7.5m四方の平場がこの方形掘り込み内にあったと認められる。
この桝形虎口へのルート は空堀〈2〉の堀底道からカーブを描く坂があって、桝形内で一旦入城者をプールする機能があった。おそらく凹状に掘り込まれる梯形と坂道であることから、戦時においては、埋め立てて虎口そのものをなくしてしまう「 形式」とみられ,之内大台城大手口と同じ手法によった。
地元では,この西1曲輪を本丸跡と呼ぶ方もあるが,1曲輪の西Ⅱ曲輪に面した塁壁上に出隅横矢の土塁がみられ,桝形虎口と西Ⅱ曲輪内への攻撃を意識しているので,やはり本丸に当るところはⅠ曲輪とみるべきである。
現状では北西の突出部が1mほど高い。これは,表門といわれる大手口と大手谷間を意識した物見台の崩れたものとみられる。また東側塁壁上に約18mの長さで土塁が残るが,現状での高さは50cmほどで,かなり大井戸側に崩れ去っていると認められ、東側塁壁斜面全体に亘り 崩壊した斜面と崩れた土砂が認められる。⇒次回は、水の手曲輪・帯曲輪・腰曲輪 等を予定しています。