「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)
3.仕置事件と時代背景
仕置事件が起きた天正十九年(1591)は、時代背景としてはどのような時期だったのだろうか。それはまさに、豊臣秀吉が九州、 四国、中国、近畿、北陸を手中に収め、天下統一の最後の総仕上げを行うべく、関東・甲信越の平定に乗り出した丁度その時だったのである。
前年の天正十八年四月三日、豊臣秀吉は小田原城包囲作戦を開始。此日、書を上総、下総、常陸の諸将に伝えて、秀吉の旨によって総て豊臣家の家人たるべきを諭させ、特に佐竹義宣に三国諸将の内属に関する督励を命じた。義宣は二十七日に秀吉の旨を三国諸将に伝え、五月に入って全部をまとめて小田原攻囲の本営に報告し、二十五日に小田原に赴き、石田三成、増田長盛に就いて謁を通じた。義宣謁見の後、其の幕下として引率した族義種、義久、義憲、 長倉義興、宍戸義利、太田三楽は子景資、茂木治良、千本十郎、額 田照通、真壁房幹、島崎安定等相次いで謁見した。この時、秀吉へ参礼した諸将と贈答品の記録が残っている。
佐竹義宣 太刀一振、馬三頭、金八〇枚、帷五〇枚、
(内石田三成へ馬一、金二〇、増田長盛へ金一〇)
東義久太刀一振、馬三頭、金七枚
(内石田三成へ馬 - 金二、増田へ馬一)
北 義憲一 太刀一振、馬一頭、金二枚
南義種一 太刀一振、馬一頭、金二枚
真壁房幹 太刀一振、馬一頭、金二枚
宍戸義利 太刀一振、馬一頭、金一枚
茂木治良 太刀一振、馬一頭、金一枚
島崎安定 太刀一振、馬一頭一
長倉義興 太刀一振、馬一頭、
太田景資 金一枚
額田照通 金一枚
千本十郎 金一枚
このことからも、当時の武将の経済力、力関係がある程度推測できるのである。
因みに、金とは純金大判(黄金)のことで、戦国時代金一枚は米四十石から五十石に相当していた。米一石は150㎏なので俵にすると二俵半。金一枚は米百俵から百二十俵に相当することになる。主に合戦の論功行賞での恩賞や贈答品に用いられていたようである。
そこで、各武将の贈答品の価値について現代の金に換算すると、おおよそどの位になるか推算をしてみたいと思うが、実際のところは専門家にお任せして、あくまでも素人の当て推量と受け止めて頂きたいと思う。
まず、当時の米一俵の値段の割り出しであるが、鎌倉時代は米1石が一貫文(千文)、室町時代から戦国次第にかけては八百文から一千百文位の間で、一千三百文と高騰することもあったらしい。一貫文は現代の金で一万円、米一石を一万円とすると、一俵-は三千二百円~五千二百円となる。現在米一俵は、平均一万九千円~二万二千円位はするので約三・五~四倍と考えればよい。敢えて高騰した時の値段を参考にすると、当時の金一枚は、現在の金で五十二万円~六十二万四千円となる。仮に金一枚を上限に近い値の六十二万円とすると、佐竹義宣は金八十枚で四千九百六十万円、東義久は金七枚で四百三十四万円となる。単純に現代の金に換算すると約四倍として、義宣は一億九千八百四十万円、義久は 一千七百三十六万円ということになる。
次に、太刀と馬であるが、インターネットの情報を参考にして相応の価値に近づけてみたいと思う。太刀は贈答品ともなれば、黄金造陣太刀とか皮包太刀になると思うが、現在、銘が正宗だと二千万円、国広だと一千八百万円位する。当時の金にするとその約四分一として四百五十万円~五百万円となる。馬については、サラブレット一頭、競り市場での平均価格は二千百万円、その約四分の一で五百二十五万円になる。国産の馬は小柄で貧弱だったが、戦国時代末期頃には、水運がより発達しており、外国産の大型の馬も容易に手に入ったことは十分考えられるのである。立派な馬に、オプションで何らかの豪華な装飾品を付けたとすると、両方を合わせて約一千二百万円から一千三百万円位になる。現在の高級国産車一台分位の値段になるのではないのだろうか。島崎安定の太刀一、馬一 は現在の金で優に一千万円以上、贈る相手が秀吉だけに、少しでも印象をよくするためにもう少し上乗せしたかもしれない。いずれにしても、島崎安定の太刀一、馬一は金一枚の者に比べると豪華にみえる。果たしてそれだけの経済的な裏付けがあったのかどうか大いに気になるところでもある。
この時、佐竹義宣は押さえていた領地を保証され、同八月朔日付けで、
「常陸国并下野国之内所々当知行分、弐拾壱万六千七百五十八貫 文之事、相添目録別紙、令扶助之彭、然上者義重・義信(宣)任 覚、全可令領地者也」
という秀吉朱印状が与えられた。
義重・義宣が安堵されていた常陸・下野にまたがる二十一万六千七百五十八貫文の領地はどの範囲に及んでいたのだろうか。下野の佐竹領分が松野・武茂氏(那須郡東部)、茂木氏(芳賀郡東部)らの国人領と塩谷郡宝積寺であったことは確実である。常陸については、多賀谷氏の下妻領と結城領になった土浦領、土岐氏の旧領江戸崎領を別にすると江戸・大掾氏の水戸・府中領、鹿島・行方郡がどのように扱われていたかが問題になる。これについては二つの文書が重要な事実を示している。
①「此度 殿下(豊臣秀吉)御催促付家中上洛、於義宣(佐竹)
令祝著候就之鹿島一郡之候、井其方本知行檜沢・武部、不可有相違候、南郷・保内儀者返進、令得其意候」(奈良文書)
義宣は義久に鹿島郡を与え、本知行の檜沢・武部(久慈西郡)を安堵するかわりに、南郷・保内(依上保)を返還することを求めている。この当時、鹿島郡には鹿島氏ら多くの国人が存在したが、義宣はそれを承知で義久に鹿島郡を与えようとしており、すでに鹿島郡を佐竹領の一部とみなしていることが分かる。これに加えて、戦国期の江戸氏が鹿島・行方郡の国人衆に対する軍事指揮権を有し、戦国末期には佐竹氏も行方郡の国人に対して軍事催促を行っていたことを想起すると、八月朔日の秀吉朱印状が江戸領や行方郡をも佐竹領の一部として扱っていた蓋然性(ある程度確実であること)は極めて高いと言える。
②「其元増田 (長盛)殿与申合可引詰候、石田 (三成)殿御直談二此義被仰候、一、府中ニハ東(義久) ヲさしおき申へきよし、石田殿直談二被仰候間、是へさしおき申二いたつてハ、 かしま(鹿島)の儀を返進申へく候、只今之身体とふ中をさし添候てハ、可為如何候哉」
これは、義宣が重臣の和田昭為に送った書状の一節である。義宣は石田三成から義久の府中配置の指示を受け、義久が鹿島郡と府中を押さえることに大きな危惧を抱いていたことが分かるが、この時点で大掾清幹が府中城に拠っていたことを想起すると、義宣と三成は、清幹の存在をまったく無視し、義久の府中配置について議論していたことになる。
それゆえ、義宣と三成が、すでに府中領を佐竹領の一部として扱っていたことは間違いなく、八月朔日の秀吉の朱印状でも府中領を含めて、佐竹氏の知行高が示されていたと考えられる。
佐竹氏の領地の確定と安堵はされたが、未解決の問題がまだ残されている。それは江戸・大掾氏と鹿島・行方郡の国人たちがなにゆえに領地を否定され、族滅に追い込まれたかである。従来この問題は、江戸・大掾氏らの小田原不参が原因とされてきたが、行方郡の有力国人島崎氏や、那珂郡額田城の額田氏が義宣とともに小田原へ参陣しながら、翌年滅ぼされている事実をみれば、小田原不参が基本的理由となり得ないことは明らかである。
そこで改めて注目されるのが前掲①②の文書で、早くも天正十八年七月二十九日には鹿島郡が、八月九日には府中領が、それぞれ旧来の領主の意思を無視したまま、新たな人員配置が決定または議論されていたのであった。この事実は、この時点で鹿島氏以下の鹿島郡の国人や、大掾氏の領主権の否定が既定方針となっていたことを示しており、しかも三成が府中へ義久を配置することを強く主張している以上、この問題に彼が深く関与していたことは間違いない。おそらく小田原参陣後、三成と義宣との間で大掾氏と鹿島・行方郡の国人衆ばかりか、江戸氏をも含めた討伐の合意が成立していたものと思われる。それが実現すれば、義宣は領主連合的体質を持つ佐竹氏の権力を一挙に克服することができたし、三成もまたこれに支援を送ることによって佐竹氏に対する強い影響力を獲得し、豊臣政権内の自らの派閥に引き込むことができたからである。佐竹氏による江戸・大掾氏らの討伐は、こうした政治状況の中で実行されたのであった。
〈戦国・織豊期の権力と社会 本多隆成編〉参照 ⇒つづく