「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

南方三十三館の仕置」鹿行の文化財3月号掲載記事の紹介9回目

2021-07-12 17:17:33 | 歴史

「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。

南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)

9.仕置事件の前後

 行方郡の館主達は佐竹義宣からどのように見られていたのだろうか、「茨城県史料 中世編Ⅳ 佐竹義宣書状寫」の中に、庚寅天正十八年十一月十日付けで、義宣から家臣の真崎兵庫助に宛てた書状がある。この日に義宣は、同年八月に所領を安堵された秀吉への答礼のために常陸太田をあとにして上洛している。出発に先立って留守中に為すべき領内の仕置を家臣に命じている。

 今度上洛付而、供之儀雖諾言候、江戶之為仕置指置候、於何事モ 和田安房守(昭為)同前ニ可走廻事尤候、若兎角之仁候者、其調可申候、行方郡之仕置任置候、佞人之儀候而申上子細候者、速可及糾明候   霜月十日  義宣(花押影)  真崎兵庫助殿(重宗後宣宗)

(読み下し)

 今度ノ上洛ニ付テハ、供ノ儀詫ビ言ニ候下雖モ、江戸ノ仕置ノ 為ニ指シ置キ候、何事ニ於モ和田安房守(昭為)同前ニ走り廻 ル可キ事尤ニ候、若シ兎角ノ人候バ、其ヲ調べ申ス可ク候、行 方郡ノ仕置任セ置キ候、佞人ノ儀ニ候テハ子細申シ上ゲ候バ、 速ニ糾明ニ及ブ可ク候   霜月十日    義宣(花押影)   真崎兵庫助殿(重宗後宣宗)

 私なりに意訳をしてみると「この度の上洛については、お供の事、何と心苦しく辛いのにれども、江戸の仕置きの為に指図をしておく。何事に於いても前と同様に和田安房守 (昭為)と走り廻るべき事尤もな事である。若し兎や角言うご仁がいたならば、其れを調べて話すこと、行方郡の仕置きは任せて置く、佞人の事については、事の詳しい事情を申し上げたならば、速やかに問いただすようにすること。」ということになるかと思う。

 この文書で私が特に気になる個所は、「行方郡之仕置任置候、候人之儀候而申上子細候者、速可及糾明候」の部分である。この時、行方郡の各館主達は義宣から「倭人」と思われていた。広辞林によると倭人とは「うわべだけ優しくて、心のねじけた人」「うわべだ けは従順で、素直でないひねくれた人」「口先は巧みで、内心のよこしまな人」等の意味がある。要するに「表面的には愛想が良くて人当たりは良いのだが、心の中では何を考えているのかさっぱり分からず一筋縄ではいかない人」ということになると思う。

 義宣が行方郡の館主達をそのように思うのには、よほどの理由がある筈である。おそらくそれまでに何回か佐竹家の使者として家臣を遣わし、各館主に義宣の意向を伝えさせていたのではないのだろうか。しかし何度行ってものらりくらりと交わされてしまい、相当腹に据えかねていた。義宣の意向とは一体何だったのだろうか。「悪いようにはしないから、いい加減わしの言う事を聞いて佐竹家の家臣になれ」ということだったのではないか。

 佐竹氏にとっては、行方郡の領主達が手にしている商取引の利益や棟別銭や営業税収を、そっくりそのまま自分のものにしたかったし、軍事的にも重要な鹿島・行方地方の水運を掌握したかったに違いなかった。義宣の腹の内が見え見えだけに、佐竹氏の誘いに対して彼らが、口先でうまくごまかし、のらりくらりと言い訳をして何とかごまかしてしまう様子が思い浮かぶのである。

 行方郡の館主達にとってみれば、人一倍独立心の強い彼らが、誰からの支配も受けず理想的な領国経営をしていくためには、再三の佐竹氏の誘いから何としても逃げ切る必要があった。自分達が努力して営々と積み上げてきた権利・財産を横取りされてはたまったものではない。家臣になるという事は、正にそれを総て失うことに繋がることだった。各館主は結束し、束になって反対を唱えたに違いないのである。

 しかし、それは絶対に許される事ではなかった。水運から手に入る莫大な金が各館主の懐を潤していたとするならば、打続く合戦で多大な戦費を必要としていた佐竹氏が格好の金蔓を見逃すはずはないのである。仕置き事件の何年も前から手を変え、品を変え佐竹氏の家来になることを勧めてきたが全く埒が明かず、義宣は苛立っていた。彼等は軍事催促には一応は協力するが、傘下に入ることだけは頑なに拒み続けたのである。義宣としては、できれば余計な犠牲を払う事なく穏便に家臣にしたかった。もしそれができなかった時はどうするか? 江戸氏と府中大掾氏は、何とか力で一掃することはできるとしても、鹿島・行方氏族だけは警戒しなければならなかった。佐竹氏に比べて軍事面では弱小とはいっても、侮りがたい勢力を誇っていたからである。力攻めは得策ではないと考えた義宣がとった手段は、天正十八年十一月十日付けの真崎兵庫助宛ての書状のように、軍勢で威圧しておいてから穏やかに投降を促す方法で、まず行方氏族に関係のある周りの支城から落としていくこと、そして各館主にはこちらの言い分を丁寧に話して、最後の勧誘(通告)をすることだったのではないのだろうか。

 それは、同年十二月十九日に水戸城、同二十二日に府中城を攻めて陥落させてから、翌天正十九年一月二十五日、義宣が太田に帰城するまでの間に行われている。真崎兵庫助と和田昭為は鹿行と南部に軍勢を遣わし、行方氏族に関係する諸支城を攻略した。鹿島郡の札、行方郡の島並、下河辺、芹沢国幹(通幹の父)、山田、小幡氏等、南部では宍倉(霞が浦市)の菅谷隠岐守、小川の園部介太郎、 戸崎の戸崎氏、竹原の竹原氏等が攻め亡ぼされた。しかし、実際は 佐竹氏の軍勢に抵抗する術もなく、どの領主もおとなしく降伏して 城を明け渡したのではないかと思われる。我が山田地区にも、山田城主(山田太郎左衛門)が城を明け渡して去った後、戦いで土地が荒らされることがなかったので、領民からは「名君だった」と大変感謝されたという言い伝えが残っている。

 外堀を総て攻略し、各領主と家臣達に不安と動揺を誘っておいてから、いよいよ本丸攻めにかかったことになる。それが天正十九年二月九日の太田城への三十三館主父子・兄弟の召集であり、謀殺だったのである。

 仕置の計画は、佐竹義宣によって描かれたシナリオに沿って巧妙に、そして周到に進められていった。厳密に言えば、江戸氏、府中大掾氏、行方・鹿島氏族を攻め亡はす為に軍勢を動かすことは、秀吉の 「関東奥両国惣無事令」に違反する行為だったにも拘わらず、義宣は秀吉への答礼にこと寄せて、石田三成を介して秀吉には上手く取りなしてもらい、逆に三十三館主を自分の属臣と言い張り、命令に従わない逆臣を成敗する方法として「謀殺」の許可を堂々と取り付けたのであった。義宣の迷いはこの時点で完全になくなり、太田に帰城した後間もなくそのまま実行に移されたのであった。

  天正十九年(1591)潮来地方を支配していた島崎氏を滅ぼした後、佐竹義宣は、家臣の小貫頼久に命じて、夜越川を外堀とする新城の堀之内大台城(潮来市)を築かせるとともに、行方郡・鹿島郡一帯に譜代重臣を配置し、蔵入地を設定している。

佐竹領内の支城と城将

小川城    茂木治良   下吉影城  舟尾道堅 

島崎城     小貫賴久         鉾田城     酒句豐前守

小高城      大山義勝(景)      武田城     舟尾昭直

行方大賀城  武茂堅綱         鹿島城     東 義久

行方(八甲)城 荒張尾張守

「蔵入地」とは、戦国大名織田氏・豊臣氏、江戸幕府、近世大名の所領のうち、領主権力が直接支配し、年貢などを収納する直轄領のこと。領主の蔵に直接年貢が収納されるためこの呼称が付いた。これに対し、家臣などに与え、その支配を任せた土地を知行地という。豊臣政権では個別の大名領を含め、全国の要地に蔵入地 (太閤入地)を設定。全国統一や朝鮮出兵ための兵粮米などに当てるとともに、全国支配の拠点とした。

 仕置事件の前年、1590年に徳川家康が岩ヶ崎城(香取市佐原) に譜代重臣の鳥居元忠を配置して大台城に対峙させ、代官吉田佐太郎に新島領の掌握を命じたのも霞が浦、下利根川の戦略的価値を認めていたためといわれる。戦国末期から近世初期の霞が浦、下利根川は流海の水上交通と東廻り航路の拠点として、軍事的政治的に重要位置をしめるようになっていたのである。

 豊臣秀吉は小田原北条氏を滅亡させたあと、徳川家康を関東に封じ込め、常陸の佐竹氏、会津の上杉氏によってそれ以上の勢力伸長を阻止し、徳川家と婚姻関係にある奥州伊達氏との提携を遮断しようとした。さらに、家康の旧領であった駿河、三河など五カ国を織田信長の第二子信雄に与え東海の守りを安定させようとした。しかし、秀吉の意に反して、信雄の「自分は尾張、伊勢の二カ国百万石で十分である。東海五カ国は遠慮したい。」との一言が、天下の独裁者秀吉の逆鱗に触れ、「余の命に従わない者は断固処分する。織田信雄の領地居城総てを没収する。身柄は常陸国佐竹義宣に預ける。」との鶴の一声で実に冷酷な処分が下された。そのことは、それまで秀吉を単なる織田信長の一家臣ぐらいに蔑視していた関東・ 東北の諸将が心底秀吉の怖さを思い知らされた出来事でもあった。 さらに、小田原征伐不参陣の武将を見ると、彼らは奥州内陸部と太平洋側に位置する領主であった。当時、日本海には北前船が運行していて、関西方面と奥州との物資の交流が行われていた。そこで日本海側の領主達は、この船員達から畿内や西国の情報を入手することができた。これによって、豊臣秀吉の権力や支配状況なども察知できたのである。小田原参陣命令の重みも当然判断できたため彼等のほとんどは小田原に参陣した。

 これに対して、最新情報の入手ができなかった前記の領主達は、秀吉を信長の家臣と軽視してそのほとんどは参陣しなかったため命取りとなった。領地を没収された主な領主は大崎義隆、葛西晴信、石川昭光、白河義親等であった。理由は秀吉に対する不服従、即ち天子の命に叛く者に対する処罰であった。彼らの家臣、領民は大混乱となり、その打撃の大きさは計り知れないものがあった。これに対して佐竹義宣は、石田三成よりの綿密な情報の入手、親切な指導助言により抜群の功績をあげた。これだけでも三成に対する恩義は忘れ得ないものがあったのである。《新編問答式佐竹謊本高橋茂著〉参照

 平成二十四年六月七日付け毎日新聞の地方版に「秀吉、奥州警戒」 という見出しの記事が載っていた。豊臣秀吉が天下統一を果たした直後に出した朱印状(命令書)一通が、岡山県津山市の旧家で見つかったのである。秀吉が近畿から平定直後の奥州(東北地方)までの約600kmに軍隊の食糧補給基地を整備していたことが初めて判明した。

 東京大学史料編纂所によると「豊臣政権初期の緊迫感や用心深さが分かる貴重な史料」だという。朱印状の日付は、秀吉が北条氏を滅ぼして約一カ月後の天正十八年八月十六日。宛先は豊臣家の重臣、 浅野長政と見られ、近江(滋賀県)から下野(栃木県)までの七カ国に新たに整備した食糧補給基地を使い、奥州に向かうよう指示している。しかも朱印状には「よき所に蔵を作らせられ、諸人数に御兵根下され候は、人夫召し連れず早速に差し出され御成敗あるべしにて候」などと記されていることから、荷物運搬の人足など連れずに、食事は補給基地で済ませ、戦闘要員だけを急いで奥州に差し向ける必要があったことが分かる。当時、関東以西は一応平定されたが、奥州にはまだまだ秀吉の命令に従わない不穏な動きがあったのである。

事実奥州では、朱印状が出された二ヵ月後に、秀吉の命令に従わなかったために滅ぼされた大名の残党が反乱を起こしているのである。このように、天正十八年から十九年にかけては、日本全国、特に関東、東北地方は騒然とした状況の中に置かれていた。佐竹氏の行方・鹿島の仕置もそうしたどさくさに紛れて一気に手が下されたものと思われる。 ⇒つづく