昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。
第V篇総括
以上が昭和61年度,島崎城第1次・第2次調査の成果である。昭和62年度以降の継続調査への課題を含め、今次調査の主だった成果をまとめ,総括としたい。
まず測量成果からみた現状の島崎城は、
○御札神社境内となっているため、きわめて保存状況が良いこと。今後,県指定史跡なり,国指定史跡として,保存策定と整備計画を行うべきである。
〇城郭は内城(I・II・馬出・わめて保存状況が良いこと。今後,県指定史跡なり,国指定史跡として,保存策定と整備計画を行うべきである。水の手各曲輪),中城(Ⅲ・越前曲輪),外城(外曲輪・古宿台地上)と大別でき、連郭式縄張であること。
○築城技法は,角馬出や姉形虎口を用いて虎口を堅め、大手口より1曲輪への入城ルートは複雑に屈曲し、容易に近づけない工夫がある。空堀は堀底を通路とし、左右の攻撃を安易とし、 実効堀語は,14m内外の長柄籠を意識した堀語と,20m以上もある中城と外城を別ける大区 画(空堀と腰曲輪)からなる。
〇城址を中心に古屋・根古屋・山下・越前屋敷・隼人屋敷・表門・東門・金井湖・大構・古宿・宿・芝宿の地名が残り,廃城前の城下集落,城をめぐる当時の様子を知ることができる。
○隣地(わずか300m)に島崎城にかわり佐竹氏が築いた堀之内大台城があり、比べると島崎城 は①各曲輪の面積が小さく,②空堀の利用が多く,③全体構成が複雑である。これは堀之内大台城が、計画をもって同一プランで築城されたのに対し,島崎城は、長い時間のうちで,必要に応じて適宜改修・拡張していったことを物語る。
○戦国時代の国人領主の居城として,島崎城は壮大な規模を有し、典型的な戦国期丘城といえる。
○今次発掘調査で,1曲輪内より建築物にともなう柱穴が検出され、生活面での土壌や火床もみつかった。しかしこれらの遺構性格を決定するには,昭和62年度以降の調査区拡張の必要がある。
○土塁は版築状土塁で層序ごとに突き固めた崩れにくい工法で成立している。土塁敷下からは多量の古石塔群が重層で石敷状に出土した。これら石塔群の集積する性格および石塔の年記銘等の解明は,昭和62年度以降の調査にゆだねたい。
○出土遺物は,3号トレンチ400m2の面積内で集中してみられ,密度の濃い出土分布を呈した。これは島崎城の存城期間の長さを反映しているといえる。
以上の9項目に要約できる。島崎城の解明は,今後の1曲輪内の調査区拡張はもとより、外曲輪・大構(古宿台地)の遺構の確認をあわせて行う必要を痛感する。昭和62.63年度調査は,これらの項目を念頭に置いて調査を進行する予定である。
⇒次回、「島崎城Ⅱ」第3次・第4次発掘調査報告書についてブログ掲載予定。