「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)
4.仕置の実際
佐竹義宣は、小田原役後の天正十八年八月朔日、豊臣秀吉に朱印状で常陸・下総にかけての所領二十一万六千七百五十八貫文を保証されると、その答礼に十一月十日に太田を発し上洛した。十二月二十三日秀吉の推挙で従四位下侍従となり、天正十九年一月二日 に参内して黄金三十枚を献上し、羽柴常陸侍従と称した。秀吉との謁見の際、義宣は石田三成を介して南方三十三館の支配状況を説明したうえで、この館主達を謀殺する計画を言上する。秀吉は義宣を呼び寄せて申し渡しを行った。
「佐竹を②常陸大都督とした。これは天下の為である。国中の土豪達は佐竹の家臣である。今国内において佐竹の命にしたがわない者あらば、これすなわち関白秀吉の命を蔑ろにする者である。我は已に義宣に常陸一国を与えている。若しも国内に不服従の者あらば 秀吉の名において義宣の意のままにこれを誅伐せよ。」
更に石田三成からも「太閤殿下からも伝達があった通り常陸国鎌田 (烟田)、玉造、下河辺、鹿島、行方、手賀、島崎の面々を成敗されるも可なるべし。」の書状が届き、義宣は、秀吉の意見と三成の書面により、南方三十三館主の謀殺を実行する決意を固めた。そして閏一月二十五日、百二日目に帰城した。
上洛に先だって、領内の仕置を真崎兵庫助重宗・和田昭為に命じていた。それが天正十八年十二月十九日からの水戸城総攻撃であり、 江戸氏一族の根城十三、館八ヶ所の焼き討ちであった。江戸重通は 妻の実家である結城氏を頼って逃れて行った。更に同月二十二日には大掾清幹の府中城 (現石岡市)を攻め、清幹は自害、遂に陥落させた。
帰国後は、自ら二月九日、鹿島・行方の仕置、同二十二日に額田城を処分して、三月二十日に本拠を水戸に移している。このような近世大名としての領内支配権樹立を図る過程の一つに三十三館主誘殺事件があった。
三十三館の滅亡は、それぞれ不自然なものがあった。「生害」とは殺すこと、自害・自殺の二つの意味があり、「横死」は思いがけない災害などで死ぬこと、非業の死の意味がある。いずれにしても自然の死ではなく、本人にとって不本意な死に方をしたことの表現である。
史 料
①この貫文は指出し検地高で、これが文禄三年の太閤検地により、同四年に五十四万五千八百石と公認されたとなれば、指出し検地のとき、すでに大掾・江戸両氏所領や鹿島・行方郡は含まれていたことになる。
②国内の秩序を正す最高位の官職
誘殺の事由についてはいろいろな伝承がある。小宮山楓軒や①「佐竹大系纂」は、石田三成の奔走により秀吉から南郡成敗の下知状が与えられとある。
三十三館主が②「佐竹二属シ、其駆使に従フト雖モ、意二之ヲ甘ンゼズ、各自立ノ志ヲ抱ケリ」という大名領内では絶対に認められない存在であったことも事実であろう。「各自立ノ志」に関する史料はなく、このことを直接証明はできない。ただ、天正十三年 (1585)の佐竹・北條の対立である沼尻・藤岡合戦のあと、小田原の北条氏直から島崎左衛門尉に使者があり③「佐竹幕下たる当郡の諸士を此方の味方に差加え被下においては早足(速)貴殿へ恩賞を宛行」などを④伝えたという。これに、秀吉の小田原参陣令に、府中の大掾氏や戦国大名化の過程で鹿島郡の諸勢力との⑤関係を深くしていた水戸城の江戸氏が積極的に⑥⑦参陣しなかったことを考え合わせれば、「南方三十三館」は秀吉方ではなかったと思われる。そのことは、八月一日の秀吉の朱印状による佐竹領公認以前、義宣が七月二十九日付で東義久の所領替えをし、まだ支配権が確立していない鹿島郡を与えていることに、間接的に現れている。これを受けて義久は⑨天正十九年閏一月十三日付で、未知行の所領なのに「鹿島郡配当の句」には五貫文地を与えるなどの約束を家臣にしている。
史 料
①常陸太田市天神林町の佐竹寺本系図
②新編常陸国誌
③常陸の国行方郡相賀山城主手賀氏伝来聞書之事「麻生の文化創 刊号」麻生郷土文化研究会
④伊達家日記」天正十八年三月六日会津黒川城伊達
⑤天正年間に江戸重通の妹が鹿島義清に嫁いだ。そのとき同郡梱田氏、行方郡島崎氏が祝言を贈り、江戸氏と好を通じた。 天正九年、烟田氏と鹿島氏は対立したが、島崎氏とは協力関係が続いた。
⑥常陸史料
⑦小田原で秀吉に参礼した佐竹氏磨下に、太刀一・馬一を献上した島崎氏がいる。
⑧秋田藩家蔵文書十八「東家文書」
⑨秋田藩家蔵文書二十七
天正十九年二月九日①「事二託シテ、鹿島・行方舊族ヲ招キ、之ヲ太田二致シ、諸臣に命ジテ尽ク之ヲ殺サシム」まさしく太田城で殺害されたのである。弱小といっても自立傾向の強かった戦国武将が、簡単に参集に応ずる「事」とはいったいいかなるものであったのだろうか。それも推測ではあるが、「和議親睦と知行配分」の件と伝承されている。佐竹氏の家臣ではない者たちが、知行替えの誘いにのって、太田城まで来るのも不自然である。そのうえ城主父子同伴の条件付きが益々疑わしい訳で、招待を受けた館主達の中には 疑義を抱き躊躇した者もあったが、後々の関係を勘案して不本意ながらも参上した者が少なくなかった。この点については、館主の父子の太田行きに反対する家臣も多かったようである。
しかし、小田原北條の滅亡、近くは大掾・江戸氏の潰滅などを知り、秀吉に公認されなかったことの不安が佐竹氏を②盟主と積極的に仰ぐ雰囲気を作りだし、これに応ずることになったと思われる。 また、「佐竹大系纂」によると、義宣「言ラ饗礼二託シテ諸部プ召テ、 薯預(やまのいも) ヲ以テ鹿ノ角ヲ作テ色ヲ付義宣是ラ食ク、真ノ角ヲ以テ諸部二与フ、人恐テ鬼ナリト云テ伏テ従フ」とあり、計略にかかって大部分が平和的に帰服したとある。しかし、三十三館主の虐殺はあった。それは太田城中で、一般に云われているように集団で行われたのではなかった。
館主の中でも実力者は、それぞれの縁故によって分けられ、預けられて処分された。島崎安定と子息の③徳一丸は、「④小川大和守へ由緒ありし人なり」、「⑤義宣ノ族臣小川大和守ハ安定の岳父(舅)ナリ」から小川大和守に預けられた。その後、上小川(久慈郡大子町) の居城に護送され、その家臣清水信濃守に鉄抱で射殺された。鹿島清秀は、⑥山方能登守に預けられ、その居城山方村御城(那珂郡山方町)で殺害された。別の伝承では、諸沢村 (山方町)の会沢刑部に匿まわれたが、刑部を信頼せず反抗して殺害された。玉造重幹は、「⑦宇垣伊賀守ハ玉造ヲ討テ生捕」えられ、大窪兵蔵久光に預けられた。そしてその居城地の大久保村の正伝寺において「⑧生害セラ ル」「⑨切腹」させられた。
太田城近くまで来て、これら同族の殺害を知った館主たちは、それぞれが久慈の山中を目指して逃亡した。烟田通幹は、常福寺村(常陸太田市)⑩の修験宅に匿まわれたが、探索がきびしく、脱出も不可能であったため主従三人で自殺した。中居秀幹とその家人沼里助 左衛門は、里野宮村(常陸太田市)まで走ったが、同地の佐竹氏の家臣⑪増子助左衛門に討ち取られた。そのほか札幹繁は⑫小里村(久慈郡里美村)に、武田大膳勝信(青柳村堀之内館)は各地を転々とし、慶長七年(1602)の佐竹氏の国替え後まで逃亡生活を送ったという。
以上のほか相賀詮秀・小高治部少輔・手賀高幹・武田信房等は太田城内で殺害されたのか、場所に関する伝承はない。そして「未夕従ハサル者ヲハ発兵討之」ため、町田備前守が鹿島城に、人見越前守が烟田城に、宇垣伊賀守が玉造城に、それぞれ攻撃を加えた。その城館の城主は已に虐殺されており、鹿島では四老臣の一人といわれた額賀龍武が、玉造では大場内蔵允正信が、島崎では坂藤左衛門が内応したことなどもあって、激戦もなく短期間で開城した。この状況を知った札・島並・八甲・山田などは、自発的に城館を放棄し、帰農した。また、芹沢館では、佐竹氏と対立せず、忠実な家臣的存在であったが、同族の国「殺害ニアイ、独リ存センコト面目ナシト」退去しなければならない雰囲気だった。
史 料
①⑤⑧⑫⑮新編常陸国誌
②佐竹氏は豊臣秀吉より「常陸国の旗頭」に任じられた。
③六地蔵寺過去帳には「一徳丸」と記録されている。
④⑨⑩⑪水府誌料
⑥山方町史 (上巻)
⑦⑬佐竹大系纂
⑭新編常陸国誌に、天正十九年「鹿島氏滅亡ノ後、佐竹氏に仕へテ」とある
烟田通幹が討ち取られた常福寺村の場所には三本の杉が、沼里助左衛門の最後の地には松が、それぞれ墓印として植えられた。中居秀幹は逃走で喉が渇き、道ばたの小沼の水を飲んでいる時、討ち取られ、その首級以外は①沼に投げ捨てられてしまった。首級をあげた増子氏は、その功により所領を拝領したが、子孫は中居秀幹の霊の祟りに悩まされ、屋敷内に小社を建て、②供養したという。島崎安定の霊も祟りをなしたため、討ち取った清水信濃守の屋敷に小祠を建て、「③島崎殿祠」として供養した。もっとも島崎安定は、武将としては大変に残虐な扱いを受けた。そのため鎮魂が充分でなかったと土地の人は考えたのか、必ず祟りがあるものとおそれ、一眼の蛇が現れたとき、安定が独眼であったことと併せて、それを!④島崎殿、として殺さなかったという。鹿島清秀の場合も、討ち取った会沢氏が祟りを恐れて小祠を建てたとか、山方能登守が山方村に高さ六尺もの⑤五輪塔を建てたとかいわれる。玉造重幹は、寺院において武将らしく正式に切腹させられた「⑥時二和歌ヲ詠ジテ家臣大場内蔵允正信二贈ル」。城主大窪家の菩提寺の「正伝寺二葬ル」 など正式な鎮魂の⑦扱いをしたため、祟らないと思われたのか特別な伝承はない。
史 料
①沼は、むくろから出た血が水面に漂い、そのようすから血沼と呼ばれた。それも、天明六年の洪水で里川の流れが変わり消滅してしまった。
②増子氏による供養は、現代でも続いている。
③六地蔵寺過去帳では「桂林呆白禅定門」「春光禅定門」の戒名を伝えている。
④新編常陸国誌、水府誌料
⑤山方町字御城の入口字五輪坂にあったが、現在は道路拡張で常安寺に移されている。
⑥新編常陸国誌
⑦正伝寺の墓は重幹の血衣で、実際は玉造の天寧寺に埋葬されたともいわれている。
佐竹義宣は、三十三館討伐後、その領国化を促進するため、行方郡では小高城に北義憲、堀之内城に小貫大蔵、行方(八甲)城に荒張尾張守、鹿島郡では鹿島城に東義久、鉾田城に酒匂豊前守などを配置し、地域民の支配拠点を確保した。それも慶長七年(1602) の国替えによって、約十一年で終止したが、土地の人の敵懷心を緩和することはできなかった。〈鹿島行方三十三館の仕置 常陸太田市余録 江原忠昭〉参照
《他 説》
行方郡八代の島崎城主(島崎安定)に使者を送り、安定の嫡子徳一丸に義宣の娘を嫁がせると偽り、これを承諾させた上で、太田城にて結婚式を挙行するので、南方三十三館主父子は総て出席するようにと言って招待した。(島崎盛衰記には、第三巻に「佐竹家と縁組承諾の件と小貫大蔵活躍小貫大蔵佐竹義宣對面之事」として、そのことが書かれている。
太田城内での接待の酒宴の席では上海の珍味が処狭しとばかり配膳され、佐竹の家臣達が接待に勤めた。暫くし宴わの頃、佐竹の家臣達が一斉に退席した。すると間髪を入れず鉄砲、槍、刀を手にした刺客が乱入し、酪酊した招待客を襲撃した。客は座したまま鮮血にまみれ、華やかな宴席は阿鼻叫喚の巷と化した。
南方三十三館の館主相続人は一人残らず討ち果たされた。しかし 実際には何人かの客は宴席から逃げ出した。けれども警護の武士に捕らえられ皆殺害された。鹿島城主(鹿島治時)の嫡子清秀は、一旦は宴席から逃げ出したが、山方城主山方篤定に捕らえられ、山方 城に連行され城内において殺害された。篤定は、殺害した清秀を不憫に思い、その場に五輪の塔を建てて菩提を弔った。現在は常安寺の入口に移されたが、今でも香華が手向けられている。また、この宴会の後、家臣達の家に案内して宿泊させ、深夜に乗じて殺害させ たともいう。佐竹氏は、これと機にして南方三十三館を急襲して完全に制圧した。
天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生害の衆(伝燈山和光院過去帳)十五人
〇鹿島殿父子・カミ
鹿島城主(鹿嶋市城山) 鹿島清秀・子
○島崎殿父子
島崎城主(潮来市島須)島崎安定島崎氏十七代城主太郎左衛門尉義幹・徳一丸(子)
○玉造殿父子
玉造城主(行方市内宿)玉造重幹・子
○手賀殿兄弟
手賀城主(行方市手賀) 手賀高幹・弟
○中居殿
中居城主 (鉾田市中居)中居秀幹
○釜田殿兄弟
烟田城主 (鉾田市畑田) 烟田通幹・五郎(弟)
○アウカ殿
相賀城主(行方市根小屋) 相賀詮秀(彦四郎)
○小高殿父子
小高城主 (行方市小高) 高刑部少輔・子
○武田殿
武田城主(行方市両宿) 武田信房
・中根正人氏の講演録によると鹿島殿父子・カミのカミは夫人の尊称で、鹿島殿父子とその妻の意味。城主亡き鹿島城に楯籠もり、大将として佐竹勢に徹底抗戦して討死にした。
※そ の 他
札氏札城主 (鉾田市札) 札幹繁
太田に赴く途中、諸氏が謀殺に遭ったことを聞き、小里村 (久慈郡里美村)に逃れ、蟄居すること十五年にして、徳川の治世となり、出でて郷里札村に帰り、そこで病死した。
今秋、奥久慈方面に行く機会があったので、途中、鹿島城主、鹿島清秀父子の終焉の地、常陸大宮市山方と島崎城主、島崎安定と子徳一丸の終焉の地と言われている大子町頃藤を訪ねてみることにした。地理不案内の為、「常陸太田史余録第五号常陸太田市史編さん委員会」に載っていた略地図を参考にさせて頂いた。
国道118号を北上、バイパス分岐を左折、旧国道に入る。山方市街の最後の信号の手前3m位の所、左側の細い坂道を上に進むと山方公民館の正面に出る。駐車場の前に常陸大宮市山方支所がある。
公民館の窓口で五輪塔について尋ねると、話には聞いてはいるが、詳しいことは地域の人でもおそらく誰も知らないのではないかとのことであった。場所は知っているということで、二人の職員の方が親切に案内して下さった。
写真①がその五輪塔である。以前は嘆願橋付近に建てられていたが道路拡張工事の為、此の場所に移されたこと、佐竹義宣による鹿島・行方の各城主の謀殺事件、鹿島城主、鹿島清秀父子は義宣の命 令で山方能登守に預けられ、山方城(御城)で殺害されたこと、不憫に思った能登守が慰霊の為に建てたのがこの五輪塔であること等の歴史的な経緯を話すと二人とも大変驚いておられた。
五輪塔に関する案内板は無い。台座を含めると優に2mを越すと思われる、いかにも戦国時代の武士の無骨さを彷彿とさせる素朴で飾り気のない重厚な石塔である。五輪塔のすぐ左、水郡線の高架橋を渡ると常安寺がある。石塔の左側に三本の卒塔婆が立て掛けられているが、鹿島清秀、當山等の文字が見られることから、年忌等の節目には同寺によって回向法要が営まれているのではないかと思われる。
公民館から旧国道に戻り左折、坂を下り切って、バイパスとの合流交差点を左折、水郡線のガードを潜ると、すぐ右側に御城公園の駐車場があり、そのすぐ隣にコンクリートの橋が架かっている。写真②がその橋で、手前に立っている案内板には「嘆願橋」と書かれている。鹿島清秀父子が、山方城に引き立てられていく時、橋の手前で命乞い(せめて子供の命だけでも?)を嘆願したが聞き入れられず、城内で殺害されたと言われている。
写真後方の森が山方(御城)城址、討ち取った会沢氏が祟りを恐れて小祠を建てたとか、能登守も高さ六尺もの五輪塔を建てたとか言われる。その塔は写真のガードレールの手前端付近に建てられていたが、道路の拡張工事の為、現在の位置(常安寺前)に移された。道路は緩い上り坂になっており、五輪坂と呼ばれていた。
因みに、橋の入り口の案内板には、「嘆願橋」江戸時代、農民が御城の領主様にお願い事をする時に、橋を渡って中には入ることは許されないので橋の入り口で嘆願したことから名付けられたと書かれてあった。時代の変化に応じて名称の由来が変わったとしても、それなりにその時々で重要な意味が込められているので特に問題はないと思われる。
国道118号を更に北上、大子町頃藤に入る。御城橋を渡り、緩い上り坂を登り切った辺りに左に入るやや狭い道路がある。目印も標識も何もないので見過ごし易い。水郡線の高架橋を渡って少し行くと、道路の右側に地元の人が「頃藤城」と呼んでいる城跡がある。 右斜めに上っていくと、左側には空堀があり、その先は断崖になっていて下を久慈川が流れている。見晴らしも良く天然の要塞といったところである。中央部は平らで桜の木が植えられており公園として整備されている。中央広場の奥の一隅に、写真③の石碑があった。小川城主、館城主、山田左近大夫通定居城跡、常陸太田市谷河原町、建主山田一族となっていたが詳しいことは分からない。
但し、城の名前に二通りの呼び方があったとすれば、少なくとも天正十九年二月九日の時点では、小川城主は小川大和守だったのではないかと思われる。
道路は緩い坂道でまっすぐ上に続いていて、その先には館地区と思われる集落の民家が点在している。近くの家で島崎公父子の終焉の地について尋ねたところ、その家の奥さんが祠が建っている所まで丁寧に案内して下さった。話によると、時々大勢の人が集まってここで慰霊祭を行っているとのこと、島崎公の子(徳一丸の弟) をお守りしてきた方々の子孫らしいということとであった。その場所は城跡から約100m位の所、右側の民家の敷地内にある建物の斜め後、やや奥まった所に、写真④の小祠が祀られていて、石碑には「天正十九年二月九日嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」と書かれてあった。
徳一丸の弟とは、島崎吉晴(島崎安定の二男)のことで、島崎城落城の後、家臣佐藤豊後守と共に甲州に逃れ、その後常陸国多賀郡に住み、多賀郡島崎氏の祖となったと言われている。宝永四年、その子孫達が、長国寺に島崎城主の墓を建てた。更に女子 (徳一丸の妹)が一人いたが、本多佐渡守の臣、岡田氏に嫁いだ。
島崎安定は上小川城主、小川大和守義定の娘(お里)を妻にしていた。然るに、義定は佐竹氏の命を受けて、我が婿であり孫である島崎父子を、家臣の清水信濃守に殺害させている。信濃守は、屋敷内に祠を建て、島崎殿として供養したという。
島崎父子の墓は外にもあり、久慈郡大子町頃藤、関戸神社の北50m程の畑の一隅にある小さな石の肩には
奉鎮齐嶋崎 安定命 徳一丸命 之神位 天正十九年二月九日幽奧津城也の札がある。
奥さんの話によると、関戸神社はこの館地区の集落内にあるとのこと、更に、島崎父子終焉の地の小祠の前と横の家は清水姓のお宅だという。佐竹氏による謀殺事件があってから429年間、島崎父子の霊は、小川大和守の家臣によって代々供養され、守られてきたことになるのである。以前は小祠の石は崩れ落ち、荒れた状態だったが、何かの節目の時に、多賀郡島崎氏の子孫に当たる方々が、祠の廻りを石柱で囲い、石碑を建てて綺麗に整備し、慰霊祭を行ったとのことである。
今回私はそれぞれの縁故によって奥久慈方面に連行されて殺害された鹿島城主父子、島崎城主父子の終焉の地を実際に訪れ、それぞれの場所をこの目で確かめることが出来た。これまで私が知り得た 仕置きについての言い伝えから受ける感じとしては、「ひどい扱い を受けて殺された」、「むごい殺され方をした」、「祟りを恐れて祠建てて供養した」等かなり悲愴感漂う暗く陰惨なイメージが強かったのである。鹿島・行方の各城主達は皆、人としてもあるいは権威ある城主としても決して納得のいく最期を遂げたのではなかった。何よりも殺される明確な理由が無いのである。
佐竹氏に対して反逆を企てたとかの誰にも分かる罪を犯し、罪状もはっきりしているのなら、殺害の全令を受けた城主達も刑の執行者位の気持ちにはなれたとは思うが、唯単に佐竹氏の命令とは言い乍ら、殺害する理由もなく、ましてやその相手は、鹿島郡、行方郡の国人とはいえ一国一城の主なのである。身分からいっても自分達とそう変わりはないではないか。しかし、ここで命令に背けば今度は自分の身が危うくなる。仕置きを割り当てられた城主達は、苦渋の決断を迫られ、散々に思い悩んだ揚げ句、結局は自分の家臣に命じて手を下させることにしたのではないか。
山方能登守が鹿島清秀の慰霊の為に立派な五輪塔を建てたのも、同じ城主という立場から最大級の敬意を表したかったのではないのだろうか。又、小川大和守は家臣の清水信濃守に島崎父子の殺害を命じたが、信濃守は祟りを恐れて屋敷に祠を建てて供養し続けた。大和守としては、同じ城主という立場から、あるいは男と婿と孫の縁からも、心からの供養がまだまだ十分ではないと考えてか、正式に六地蔵寺で法要を営み、永代供養を託したのではないのだろうか。非業の死を遂げた二人の霊を何としても慰めてやりたいという義父としての切なる思いが伝わってくるのである。六地蔵寺になぜか島崎安定と徳一丸だけの戒名が伝えられている謎がやっと解けたような気がするのである。
私が行方の地で南方三十三館の仕置き事件についていろいろ調べ、その内容がだんだん分かってくるにつれて感じる、陰湿でおぞましい感覚と山方と頃藤に行って実際に現地で感じた感覚とでは全く違っていたのである。暖かく、穏やかで安らかな空気が感じられるのは一体何故なのだろうか。
権力者による一方的で理不尽な殺害の命令に対して各城主もさることながら、城主の命令で直接手を下さなければならなくなった家臣にとっても、相手が何の咎もない一国一城の主だけに疑問に思い、憤りを感じてもどうにもならず、支配者に対して背くわけにもいかないので、悩み苦しみながらもやがてそうした感情は、極自然に相手への同情、あるいは思いやりの気持ちへと変わっていったのではないのだろうか。
そして、真実が明らかになるにつれて山方、頃藤地域の武士も民百姓も心から犠牲になった四人の城主父子に対して鎮魂の真を捧げるようになっていったと思われる。山方能登守は五輪塔を建て、会沢氏は祠を建てて供養し続けた。小川大和守は六地蔵寺で永代供養をし、清水信濃守も祠を建てて供養し続け、島崎氏の子孫に引き継いだ。そして慰霊の気持ちは四百年以上も変わることなく、地域の人々によって守られてきているのである。
鹿島・行方の館主の中には、常陸太田周辺で討ち取られた者もいた。手を下した者は、祟りを恐れ、祠を建てて霊を鎮め、代々供養することを忘れなかった。佐竹氏にとって謀殺事件は些細な出来事だったかもしれないが、鹿行、常陸太田、奥久慈の人々に与えた精神的苦痛は並大抵ではなかったのではないか。その分犠牲者に対する人々の鎮魂の気持ちはより強くなったと思われる。
⇒つづく