醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  483号  白井一道

2017-08-12 13:08:06 | 日記

 夏の月御油より出でて赤坂や 延宝4年、芭蕉33歳 

 
侘輔 「夏の月御油より出でて赤坂や」。延宝4年、芭蕉33歳の時に詠んだ句のようだ。晩年を迎えた芭蕉は、この句を口ずさむでは昔を懐かしんでいたようだ。
呑助 なぜ芭蕉がこの句をくちずさむだ理由が分かりませんがね。
侘助 そうでしょう。芥川龍之介は『芭蕉雑記』の中でこの句を評して「これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套の譏りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる」と述べている。17文字の調べが美しいと言っている。
呑助 芭蕉はこの句の調べが良いので晩年になっても口ずさむでいたということですか。
侘助 現代に生きる我々にとって「御油」という地名に馴染みがないし、どこにあるのかさえ分からない。「赤坂」と言えば東京の赤坂がまず地名として思い浮かぶよね。だから何を詠んでいるのか全然わからない。
呑助 まったくそうですね。
侘助 確かにそうだよね。しかし突然分かってきたんだ。なるほどとね。
呑助 そうなんですか。
侘助 御油宿は東海道、日本橋から数えて35番目の宿場、赤坂宿は36番目の宿場。東海道の中で御油宿から赤坂宿まで一キロもなかった。東海道の中で宿場と宿場の距離が一番短かった。御油宿を描いた広重の浮世絵を見ると「留め女」と言われる旅籠の女が無理やり旅人を引っ張り込もうと腕をつかみ、旅人の荷物をつかみ旅籠に引き入れようとしている場面を描ている。
呑助 ちょうど、今の新宿歌舞伎町を思わせる場面なんですね。
侘助 そうなんだ。だから赤坂宿も御油宿に負けじと色のサービスを充実させ、旅人を引き寄せようとしていたようだよ。
呑助 遊郭の充実ですか。
侘助 東海道を旅する者にとって御油宿や赤坂宿は楽しみしていた宿場だったのかもしれないなぁー。
呑助 だんだん分かってきたような気がしますよ。東海道の歓楽街、御油・赤坂。夏の月。ひと夏の夜の男の淡い思い出。夏の月に清められた一夜の思い出というものでしようか。「夏の月御油より出でて赤坂や」。忘れられない出来事があったんでしようね。だから懐かしい思い出とともに芭蕉の愛称句になったんでしよう。
侘助 そうなんだ。東海道の旅はきっと厳しいものだったに違いない。その厳しい厳しい旅の中で御油から赤坂へ至る道ほど胸が弾んだ街道はなかったんじゃないのかな。
呑助 なるほど、なるほどね。分かります。
侘助 「命なりわづかの笠の下涼み」。この厳しい炎天の街道のオアシスが御油・赤坂の宿場町だった。「夏の月御油より出でて赤坂や」。この「や」に芭蕉の思いがこもっているんじゃないのかな。
呑助 きっと芭蕉は赤坂宿の遊郭に宿をとったんでしような。
侘助 月の光が宿の開け放った窓から射し、風が吹き込んでくる。あぁー、ここは極楽だ。旅の疲れを慰めてくれる女がいる。「夏の月御油より出でて赤坂や」一句が湧いた。