醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  490号  白井一道

2017-08-20 14:41:39 | 日記

 富士の風や扇にのせて江戸土産  芭蕉33歳

侘輔 「富士の風や扇にのせて江戸土産」。延宝4年、芭蕉33歳の時に故郷伊賀上野に帰ったときの俳諧の発句だったらしい。
呑助 故郷への土産なしに帰った。このようなことが実際あったんでしよう。
侘助 土産を持ち帰らなかった芭蕉は仲間たちにこれが江戸土産だと扇で風を起こし、これが富士山の麓に吹いていた風だよと笑ったんだろう。
呑助 芭蕉は自分を笑ったんでしようね。江戸に出てもこれと言った働きもできず、故郷に土産も持ち帰ることができない不甲斐ない者ですと笑ったんでしようね。
侘助 元禄時代を迎える頃には江戸に出れば仕事があると出稼ぎをする農民が出て来ていたじゃないかと思う。
呑助 江戸幕府ができたということが土木工事や建築工事の仕事があったということですか。
侘助 武蔵の国と言われた頃の江戸は全くの田舎、雑木林が広がる平野だったんじゃないのかな。
呑助 武蔵の国ですね。下総の国との境が隅田川だったんですかね。
侘助 江戸の「江」は川という意味のようだし、「戸」とは出口というような意味だから、「江戸」とは大きな川の河口というような所を意味したんじゃないかな。
呑助 江戸の町を整備するとか、道路を作るとか、建物を建設するいろいろな職種の人の需要が江戸にはあったんでしようね。
侘助 芭蕉が生きた時代は十七世紀の後半だからね。まだまだ江戸の土木・建築作業の需要はあったんじゃないのかな。
呑助 江戸に集まった出稼ぎ人の居住したところが長屋だったんですね。
侘助 貧民街、太陽のない街、一年中、日の射さない街、共同便所に一つの井戸、雨が降ると床下浸水するような低地に人々は密集して住んでいたのではなすかなぁー。
呑助 芭蕉も伊賀上野を出て、東海道を歩いて江戸に赴き、土木工事のような仕事を見つけていたんでしょうかね。
侘助 上水道のメンテナンスのような仕事を得て生活していたみたいだ。
呑助 十七世紀の後半に江戸ではもう上水道ができていたんですか。
侘助 「氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり」と詠んだ句の前詞に「茅舎買水」と書いている。日本橋に住んでいた芭蕉は三十七歳の時に深川芭蕉庵に転居する。当時の深川では井戸を掘っても飲み水になるような水は出なかった。海の水ようなしょっぱい水しか出なかった。だから水は買うものであった。
呑助 当時の上水道とは、どのようなものだったんですかね。
侘助 板で作った四角な筒みたいなものだった。多摩川を水源とする玉川上水と井之頭池を水源とする神田上水が主な水源とする上水道だったようだ。井戸水だけでは江戸の人口を賄えなかったみたい。芭蕉はその上水道に溜まる砂のようなものを取り除く仕事を請け負った仕事人だったみたい。
呑助 芭蕉という人はなかなか世当たりの上手な人だったんですね。
侘助 孤高の俳人というイメージが芭蕉にはあるが実際はそうではなく、なかなかの商売人という側面を持つ人だったんじゃ