「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」。延宝8年、芭蕉37歳
侘輔 「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」。延宝8年、芭蕉37歳。この句は芭蕉の秀句の一つのようだ。この句を芭蕉は「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」とも推敲している。「とまりたるや」と「とまりけり」ではどのような違いがあるのかなぁー。
呑助 「たり」と「けり」の違いですか。烏が枯れ枝に「留まっている」と「留まっていた」の違いですよね。
侘助 画讃が残っている。「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句が書かれている絵には烏が27匹描かれている。それに対して「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」の句が書かれている絵には一匹の烏しか描かれていない。
呑助 「たる」と「けり」では烏の数が違ってくるんですか。
侘助 芭蕉は「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句には何匹もの烏が枯れ枝にいるのがふさわしく、「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」の句には、烏は一匹がふさわしいと考えていたのじゃないのかな。
呑助 芭蕉の主観の違いですか。
侘助 なぜ芭蕉は、「烏のとまりたるや」の場合は、烏が複数になり、「烏のとまりけり」になると烏が一匹になると考えたのかということが問題なんだと思う。
呑助 何匹もの烏がとまっているのを見かけることもあるし、烏が一匹電信柱にとまっているのを見かけることがありますね。
侘助 遠い昔、高い木の枝にとまっていた烏の記憶は一匹のような気がしたんじゃないのかな。実景としては何匹もの烏がいても、記憶に残る烏の数は一匹のような気がするでしよう。
呑助 そうなのかな。秋の暮れに見た高い木の枝にとまっている烏は一匹だったような記憶が残っているのかもしれません。
侘助 高い木の枝に見た烏は一匹だった。秋の暮れの頃だったなぁーと、ね。
呑助 実際には何匹もの烏を見ていても記憶には一匹の烏しか記憶には残らないということですか。
侘助 一匹の烏だと秋の暮れの感じが表現されたように思うでしょ。
呑助 何匹もの烏がかぁー、かぁー鳴いていたんじゃ、秋の暮れの感じがしないかもしれませんね。
侘助 芭蕉は秋の暮に一人家路についていた時、烏の鳴き声を聞き、記憶にある枯れ枝に留まっていた一匹の烏を思い出し、詠んだ句が「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」だったんじゃないのかな。
呑助 じぁー、実際に枯れ枝に烏が一匹とまっているのを見たということですか。
侘助 それじゃー、違うな。間違いだ。芭蕉が実際に見たのは何匹もの烏が枯れ枝に留まっている姿だったんだよね。
呑助 そうですよ。実景を詠んだ句が「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」だったんじゃないですか。
侘助 この句を推敲していく中で芭蕉の心に残っている秋の暮に枯れ枝に留まっている烏は一匹になっていったということか。一匹の方がより深く秋の暮が表現できると芭蕉は気がついたんだ。
呑助 枯れ枝に烏がとまっている心象風景は一匹だったんですよ。
侘助 そうなんだ。だから「枯朶に烏のとまりけり」とは、芭蕉の心象風景なんだ。その心象風景の烏は一匹なんだ。