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山の神

2012-05-24 | 巨樹・巨木と伝承 三頭木
三つ又の木の言い伝えに興味を持ち、関連本を探しては読み耽っていたなかで、読めば読むほど増えてくる疑問を簡潔に解説してくれたのがこの本でした。
ネリー・ナウマン 『山の神』
この本では山の神を、山の木や動物の所有者であり土地の所有者としています。
山の神の祭りは全国的に存在して、祭のしきたりなど記録も多く残っていますが、千年以上の長いオーダーの中で、他の宗教との融合を繰り返し、地域独自の変遷もあり多様な様相を呈しています。
共通する条件はやはり土地の神だ、というシンプルな分析は、複雑に絡まった糸をほどいて見せるような爽快感すら感じました。

『常陸国風土記』で引用の多い、行方郡の条の夜刀神(やつのかみ)に関する記述では、土地の神と人との関係が読み取れます。
口訳 常陸国風土記
昔,箭括(やはず)氏のまたちといふ人があって、郡家より西の谷の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に標(しるし)の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司(かむづかさ)となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ) (中略) 壬生連麿がこの谷を治めることになり、池の堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登り群れて、なかなか去らなかった。

仮の姿になって現れる土地の神と土地を利用する人間との棲み分けを媒介するのが、神への祭りや物理的な境界としての石や樹木であったりする中で、境界を示す石や樹木もまた神格と認識されるようになったとも考えられる例でしょうか。
中略以降に「夜刀の神が椎の木に登り群れ」との表現があり、「神が宿る木」の具体的なイメージが湧きます。少し今までの想像とは違いますが。
所有者である神はすべての動物になれる可能性があるとも、すべての動物と同体とも理解できそうですが、人々が神性を感じた動物が神格を持つ事になるのでしょう。そんな動物の来る木が神の宿る木かもしれない。

アルビノや、並はずれて大きくなった動物などに山の神の神格を認める例は多くあります。
植物にも神格を認めるものの一つが三頭木(三つ又に分かれている木)であり、窓木(別れた枝が先で癒着し穴になった状態の木・連理)ですが、人々がその木に神を感じる条件である三つ又・窓の木の言い伝えの多くは、この木自体が神なのではなく、この木に神が宿る・来るというものです。
山の神のいる場所として木を祭ることで、神格も後から認識されてきたとも考えられます。神の座である磐座のように。
山の神は動物の姿になって現れる山の所有者、と今の時点で考えています。


アイヌ語の中にも動物や植物の神の名前があるほか、9世紀頃の東北で「連理」が見つかったとの都への報告があるなど、樹木と神の関係は古くから日本各地にあったと推察できます。
アイヌ語の場合は木自体が神であったらしく、神の来る場所とは少し違うようにも思うのです。

バチェラーWEB蝦和英辞典より
Shirampa-kamui シランパカムイ
The name given to any tree regarded as one's guardian deity and so worshipped. such a tree may be taken as the hunter's caretaker. the places where such tree's glow are held very sacred.
訳> 崇拝され名前の付けられた木は人の守り神として祭られた。そのような木は狩人の守り神でもある。この威光の木があるのは非常に神聖な場所。

Shiko-koro-kamui シココロカムイ
樹木 (土地の神聖な所有主) n. A tree. ( lit: "Divine possessor of the ground" )






参考図書  青森県史 資料編 古代1