人間の能力獲得には臨界期の存在するものが知られています。
たとえば絶対音感はおおよそ7歳位までに獲得できなければ、その後の訓練で身に付けることはできないとも言われています。
視覚も、生まれてまもなく視覚を失った人にその後視力回復の手術をしても、視覚情報処理を司る脳の機能が育っていないために通常言われる視力を回復することは困難だとされています。
人間が何かの能力を獲得するには概ねこの年齢までといったリミットがあるとすれば、幸せを感じる能力や自分の可能性を信じられる能力といった個々の問題まで臨界期があるのでしょうか。
歳を取ればとるほど考え方が変わらなくなっていくのはよく知られていますが、しかし高齢の方であっても柔軟に物事を受け入れる方もいます。
ただ小さい子供が何でも信じてしまうような、そんな柔軟さは子供独自のものだと思います。
その短い時間に、いかに子供に幸せな考え方を、自信を、自分の力で掴んでいく未来を信じさせられるのか。
「自分はダメな人間だ」
そう感じる子供の数が日本は突出して多い、という調査もあります。
小学校低学年くらいの、まだ魔法がかけられる時間に、もっと自分に自信が持てるような魔法の言葉をたくさんかけていたら。
そんな反省を少しだけしてしまいました。
たとえば絶対音感はおおよそ7歳位までに獲得できなければ、その後の訓練で身に付けることはできないとも言われています。
視覚も、生まれてまもなく視覚を失った人にその後視力回復の手術をしても、視覚情報処理を司る脳の機能が育っていないために通常言われる視力を回復することは困難だとされています。
人間が何かの能力を獲得するには概ねこの年齢までといったリミットがあるとすれば、幸せを感じる能力や自分の可能性を信じられる能力といった個々の問題まで臨界期があるのでしょうか。
歳を取ればとるほど考え方が変わらなくなっていくのはよく知られていますが、しかし高齢の方であっても柔軟に物事を受け入れる方もいます。
ただ小さい子供が何でも信じてしまうような、そんな柔軟さは子供独自のものだと思います。
その短い時間に、いかに子供に幸せな考え方を、自信を、自分の力で掴んでいく未来を信じさせられるのか。
「自分はダメな人間だ」
そう感じる子供の数が日本は突出して多い、という調査もあります。
小学校低学年くらいの、まだ魔法がかけられる時間に、もっと自分に自信が持てるような魔法の言葉をたくさんかけていたら。
そんな反省を少しだけしてしまいました。
運動能力や知覚、感覚は期待値をどの辺りに置くかで評価は大きく異なるでしょう。
で、心理的充足ってのは個人の感受性に左右されますから、デジットに測定でき無い故、評価できない、してはいけないのじゃないかと。
もう一つは、日本の場合、高所からか、はたまた操作された意識の中からか、画一化された価値観を押し付けるきらいもあるのでしょう。それが相対的な幸不幸を演出している部分も大きいのではないかと思う部分もあります。
考えれば考えるほど、難しくもあり単純でもある。面倒な問題です。
主体的な個人が生まれないのは家庭での価値観の刷り込みにあるのではないかと考えています。
親になるのに資格も規準もないので、自分が育てられたように子供を育てるなら、このような感受性に配慮した子育てというものはなかなか広まらないのでしょう。
人の意識は10年20年でやっと変わるほど動きの遅いものですが、子育ての知識は啓蒙によって変わっても幸せに生きるなどという観点を持ち込むことはなかなかできないかもしれませんね。