34.吉備の中山を歩こう170m 2015.11.14
吉備の中山は、遠い昔まだこの地方が吉備の国と呼ばれていた頃、その中心にあったことがその名の由来とも伝えられています。
この山に備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社が寄り添うように鎮座していることからもこのことがうなづけるはずです。
温暖な気候と肥沃な土地、この山裾に海が広がっていた時代には海運業の要所としても恵まれ、ここに住む人々は大きな力を持っていたと考えられます。
吉備の中山には、最古の前方後円墳である矢藤治山古墳や、100㍍を超える大型前方後円墳の尾上車山古墳、中山茶臼山古墳があります。
また後期古墳は、立派な石棺の残る石舟古墳など山のあちこちにあります。古代、この地方が栄えていたことを物語っています。
大和の国にも対抗しうる大きな力を持った吉備の国は、後に備前、備中、備後さらには美作に分国されることになります。
このとき備前と備中は、祭祀をする上で大切な吉備の中山を仲良く二つに分ける形で、この山の真ん中に国境を定めました。
国境は南にある境目川から山にあがり、尾上車山古墳、中山茶臼山古墳を半分に分け、頂上の近くから北の峰に下る細谷川へと続きます。
吉備の中山は、古くから中央にも有名な山でした。古今集には「まがねふく吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」、
新古今集には「ときはなる吉備の中山おしなべてちとせを松の深き色かな」、その他いろいろな歌集に詠まれています。
清少納言は、随筆『枕草子』の中で、「山は、小倉山。三笠山。‥‥。吉備の中山。嵐山。更級山。……。」と、都から遠い吉備の中山をあげています。
索引 ① Climb会 2015・2016