源平合戦
藤戸古戦場 2017.01.29
源平藤戸合戦略記
寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑ーあずまかがみ) 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、
海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが源氏には水軍が無かったので
渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、
夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。
翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、
目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。
盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。
海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ永く後世に名をはせる。
佐々木 盛綱(ささき もりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地 盛綱とも呼ばれ加地氏の祖である。
近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。初名は父の1字を取って秀綱(ひでつな)といった。
源頼朝に伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いでは、島に篭もる平行盛を破った。
能の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領した。
寿永3年(1184)旧暦12月 (東鑑ーあずまかがみ)
源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、
海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙し
たが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対
してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一
人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入っ
て瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流
した。
翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵
の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海
峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して
突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を
領地として賜った。
海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世
を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
伯耆の佐々木高綱は兄弟
源平合戦藤戸古戦場 2017.01.29 「295」
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