元情報将校が生きた戦争
陸軍中野学校の教え 2022.8.15
陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、大日本帝国陸軍の情報機関の一つで、諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした軍学校である。
かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。 偽装用の通称号は東部第33部隊。
中野学校は、1938(昭和13)年に九段に開設された「後方勤務要員養成所」から始まり、その後、1939年には中野の旧電信隊跡(現・JR中野駅北側)に移転、
参謀本部直轄校になり、1940年に正式に「陸軍中野学校」と呼称されるようになった。
中野学校の東隣り(中野駅寄り)には憲兵学校があったが、憲兵学校に通う軍人にも、それに隣接する施設が何であるのかは分からなかったと言われている。
日中戦争の泥沼化、日米戦争の開始といった激動の情勢の中で、中野学校は高度に訓練された〈秘密戦〉要員を育成し続けた。
戦況の悪化にともない、1944年には静岡県磐田郡(現・浜松市天竜区)に、「遊撃戦」(ゲリラ戦)要員の養成機関として二俣(ふたまた)分校が設置され
(1974年にフィリピン・ルバング島から帰国した小野田寛郎さんはその1期生)、また、1945年4月には本土決戦にそなえ中野学校は本部を群馬県富岡町(富岡中学校)に移転した。
開設から敗戦までに2,131名が卒業し、それらの人々のうち戦死289名・刑死8名・不明376名とされている。
中野学校出身者が、戦時中、どのようなことをしていたのか、それは断片的にしか分かっていない。
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