昨日、守山市立図書館の新聞コーナー6月20日(火)地元紙を斜め読みしていたら、こんな記事に目がとまりました。へ?・・あの健さんが亡くなってたの?・・養女であった小田貴月さんの闘病生活の看病で、2014/11/10/83歳・・小田さんは、健さんの最後の言葉、聞き取れたのは「慌てるな」!
彼、健さんを支えた小田貴月さんが本刊行
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養女から見た“素顔の高倉健” 小田貴月社長が絆を深めた秘蔵エピソード紹介 26日文化放送
2021年3月24日 19時47分
2014年に亡くなった俳優高倉健さんの養女で高倉さんの著作権などを管理する高倉プロモーションの小田貴月社長が26日放送の文化放送「くにまるジャパン 極」(月曜~金曜午前9時)にゲスト出演、24日発売された高倉さんのニューアルバム「風に訊け―映画俳優・高倉 健 歌の世界―」(ビクターエンタテインメント)の話題から、出会って17年にわたる暮らしで見せた“素顔の高倉健”について語る。
事前収録で出演した小田社長は同番組の「極シアター」の中で、2人が出会ってから1年ほどたったころ、小田社長が仕事でイランに滞在中、高倉さんが心配のあまり、小田社長に電話で「帰ってきなさい!」と感情をあらわにした一幕を紹介。だが、すぐに帰国はできないと伝えると、滞在先の部屋のドアからファクスが差し込まれ「僕の方が年上なのに激しく怒ってしまったことを反省しています。いつでもいいからコレクトコールを」と謝罪がされたという。2人はこのエピソードをきっかけに距離が近づいたとも。
ニューアルバムについて小田社長は「1曲目からじっくり聴いていただけると、高倉の人生を全部振り返ることができるように思えます」と語った。
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・2人で外食したことがない
・料理はいつも小田貴月さんが作っていた
・モーニングコールを5秒遅れたら怒られた
・小田貴月さんの門限は午後5時
・必ず玄関で出迎えなければいけない
・スラックスの裾上げを翌朝までに6本頼まれた
・6本は無理とお願いして2本に減らしてもらった
・リクエストにはいつも「はい!」「やります」
小田貴月「高倉健の遺志と名誉を守るのが、養女としての使命です」ただひとり、彼を看取って
小田貴月 高倉プロモーション代表取締役
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人生 男と女 高倉健 小田貴月
そうして始まった高倉との生活で、私が大事にしていたのは食事です。当初、「僕は1日1食」と高倉が胸を張って言うのには驚きました。しかもすべて外食だと。「それは自信をもって言うことではありません」と返し、食事を1日2食、プラス軽めの1食と設定。高倉の好みを把握したうえで、献立を工夫しました。
そんなふうに、私は1日の多くをキッチンで過ごし、また高倉も出かける時、「今日の夕食は何?」と確認するのが毎日の習慣でした。
「今、映画の新作は何があるの?」「これをどう思う?」と聞かれるのはしょっちゅう。何しろ「早いのが嬉しい」人ですから、「知らない」「調べるから、待ってください」はナシ。いつ何を問われても対応できるよう、私はあらゆることに備え、答えを用意しておかなくてはいけません。
ともかく、高倉の「ああしてほしい」「これはどうだ?」は愉快なほど次々ありました。高倉のリクエストに私はいつも「はい!」「やります」。基本、「ノー」はありません。軍隊ですね。(笑)
ある時、新しいスラックスの裾上げを「明日、はきたいから」と頼まれたことがありました。この時、高倉は全色を買い揃えてきたので、私の前には色違いの6本が。でもはけるのは1本ですよね。翌朝、いくつも揃っているなかから、その時の気分で選びたい。最大の自由は選べること。それが高倉です。
他にもしなければいけないことがあったので、この時だけは「私は魔法使いではないので」と切にお願いし、2色だけ選んでもらいました。
──そんな暮らしのなかで、小田さんは自身の仕事をしたい、あるいはほかの男性と一緒になりたい、などと思うことはなかったのだろうか。
その時の私の仕事が高倉の伴奏者です。私と高倉との関係は決して形式に囚われたものではありません。楽しい瞬間は家での日々の生活のなかにちりばめられていました。
高倉が笑顔で日々を過ごしてくれるのが私の幸せ。何より、映画俳優という職業にここまで人生をかけている人の言葉、振る舞いに触れ、高倉の周波数と呼応しながら共に生きることに、「素晴らしい時間を分けていただいている」という実感がありました。
高倉健の遺志を守るため“聖域”を処分することに
長いロケに出る時、高倉は自分のサインを入れた婚姻届を、「何かあったらこれを出しなさい」と、毎回、置いていきました。何かあって亡くなったら、婚姻届は無効で出せませんけど(笑)、それが何枚も溜まった。書類や籍にはこだわらない人でしたが、「これが僕の気持ち……」。それで充分でした。
そんな高倉と養子縁組をしたのは、12年に私の母が倒れたことがきっかけです。患者本人の親族でない者は医師の説明を聞くこともできないと知った高倉は、母より年上だったこともあり、自分の今後を意識するようになったのでしょう。
「養女」としたのは、婚姻届を出し「高倉健が結婚」となると、大騒ぎになってしまう、それを恐れてのことでした。私自身は、「ああ、責任重大」と身が震えました。
──高倉健さんが亡くなり、すでに密葬も済んだと事務所が公表したのは、2014年11月18日のこと。その年末、小田さんの存在が世間に明らかになる。その後、親族も知らないうちに散骨や、邸宅を解体しての建て替え、高倉さんの車やクルーザーの処分をしたことなど、小田さんの行動が一部週刊誌でセンセーショナルに報じられた。
入退院を繰り返すなか、「弱った姿を見られたくない」「触れられたくない」という高倉でしたので、24時間態勢で看病し、医療行為以外のほとんどのお世話を私がしました。「どなたかお会いしたいですか?」と尋ねても、「貴がいればいいから」と……。高倉が息を引き取った時は、私も死んだような状態になりました。
けれど現実は待ったなし。やらなければいけないことが押し寄せてきます。高倉が生前最も嫌っていたのが、仕事に支障をきたすこと。ですから私は翌日から仕事関係の対応に追われ、さらに法的な手続きも山積。
でも私は高倉が闘病中の10ヵ月間、寝る時間も削ってずっとそばについていたので、体力が残っていません。体調を崩して入院し、病院から弁護士事務所に通いましたが、真っすぐに歩けない、手が震えて文字が書けない。情けないことに、栄養失調でした。
親族の方々への知らせが遅れたのには事情があります。亡くなった後、私の存在を知る数少ない人物である事務所の方が病室にいらして、「僕から伝えます」と。高倉は親族にも私のことを知らせていませんでした。その私から連絡を受けても戸惑われるでしょう。それでお任せしたのですが、正確ではない内容が伝えられたようです。他人任せにした私の未熟さでもありますが、時間は取り戻せません。
大きな課題を終えても名誉を守る使命は続く
亡くなる2年くらい前のこと。高倉が「自分のほうが早く亡くなるだろう。そうしたら、僕のこと書き残してね」と言うのです。「僕のこと、いちばん知っているのは貴だから」と。ああ、これは私への宿題なのだと思いました。
高倉が逝ったあと、法的手続きに追われ、58年間の俳優人生で残した倉庫いっぱいの資料の整理にも、膨大な時間がかかりました。
それをこなしながら、高倉が言い残した宿題にも全力で取り組む。書くのは夜。空気が澄んで落ち着いてくると、高倉の声を拾いやすくなるのです。いつも会話をしているようで、寂しさは和らぎました。そうして『高倉健、その愛。』を書き上げたのです。
ひとつ、大きな課題を終えました。時代の風雪に耐え、“高倉健”を貫いた美しい姿、その名誉を守り続けるという使命は一生続きます。今後、私の人生がどうなるのか、自分でもわかりません。けれど、高倉が17年間、チャレンジ精神を鍛えてくれたので、いただいたご縁を紡ぎながら、自分が最良と思った行動に、最善を尽くします。
「負けるなよ」という高倉の声とともに、その光が灯された道を歩んでいきます。
ひとりの幸せな人間の(一人の男としてなぞらえて)顛末を学び・知る事で、こころの安心を得ようとする私が居ます。毎日世界中で何人も何人もの人がこの世から魂は残しつつ、肉体は消え去るのです。高倉健さんを目標にしたいですね。憧れますねー! 共に合掌しましょう。
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【歩きメモ】2708歩・1.9km・7g・1407kcal 現時点
日記風575
「恥ずかしい 健さん映画 観たこと無」「この世には いろんな人が おられても」
「知る由も 高倉健氏 この記事で」「なぞらえる こころ広くし 世界知る」
ー1年前のブログ参照ー
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