一日中、山が白くかすんでた。珍しい日でした。
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菜の花園の手入れ、ご苦労様です。
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昼過ぎ畑へ菊菜カットして、配る所に予告して、待っておられる。
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何度も、台湾にまつわるブログ記事をこれまでもアップして来ているので読者も理解されているかと思われますが・・
私の母親の旧姓、奥野美江子(16歳~21歳まで台湾・高雄、第二の都市と屏東)で、吉井百貨店で親戚関係でお手伝い
として他の従業員と一緒に働いていたのです。吉井百貨店のオーナー吉井長平氏(滋賀・長浜に現在でも吉井姓の町内から台湾に出稼ぎに)次第に商売も増大して、ついに新しく百貨店を建築し台湾三大百貨店の一つになったのであります。その大百貨店の建築にあたり、建築責任者として、奥野捨次郎氏(母美江子さんの父親)が参画したのです。そんな関係で奥野家から捨次郎の奥さん、母の姉妹次女の民子・三女が美江子・四女の信子が台湾へお手伝いのために応援者として赴いたのであります。次女の民子さんのご主人は高雄から、南の屏東県の吉井百貨店の支店の代表者として功労があった様に聞いております。
話は、一気に私の母奥野美江子と日本に引き揚げて吉田武治と結婚、吉田進治・長男、吉田荘治・二男の私が、母が残念にも故人になって、残されたアルバムが台湾での様子が良く理解できる写真を元に、母を送った後、写真を頼りに、台湾へ十数回、母の若き頃及び台湾での関係者を探して話を集めて回って、何とか人とのつながりや、吉井百貨店の跡地、屏東支店の名残にたどり着き、母を偲ぶことが出来たのです。
その、数十回の内の一回に、関西空港で安土晴司氏と奥様の安土美蓮さんにばったり会ったのです。台湾行きの飛行機を待っているわずかなひと時に会って、安土晴司氏が貴方?何処かであった様に思うのだが・・そうです、何と私が生れた場所は滋賀・大津瀬田の唐橋間近の、安土家の奥野マサエ(奥野捨次郎の長女)の安土マサエ家(ご主人は戦死され)に疎開させて頂いてた(昭和20年終戦の年)1945/09/05に誕生していたのであります。美蓮さんの姉妹のお子さんの結婚式に安土晴司夫妻がお祝いに行く時の飛行機に、私と川嶋常夫さんと安土晴司氏が吉田君と親戚関係にあるので、美蓮さん出身の屏東県・坊領まで、披露宴に出てくれないか?・・美蓮さんの家の周りはマンゴーが鈴なり・・これで、山脇武之君のマンゴー栽培の指南役として、美蓮さんから紹介して頂いて、年が明けて五月のマンゴーの、最も大切な作業を学びにコウ(許)さん宅へ来なさい。とすすめられたのです。・・以下は私の台北五回・高雄十数回の体験で・・学んだ成果を、山脇武之君へ『台湾と日本の魂のつながりを』理解の資料としてここに提示するのです。長々と・・
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=今日の歩き=
5940歩・4.4km・燃焼脂肪17g ・総消費1913kcal
「敗戦で 侍こころ 自決して」切腹し!
「魂の 定まらぬ者 生き残り」
「今の世は 生臭野郎 自分さえ」の輩(やから)にて安者達は保身一番
「国造り わが身を捨てて 盾に成れ」一国治める偉人、皆自決
=1年前の今日のBlogで思い出す=
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