砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

パヴェーゼ『月と篝火』

2018-09-21 18:05:41 | 海外の小説


あら、おかえりなさい。早かったのね~。
ご飯にする?お風呂にする?それとも

…ブ・ロ・グ?


こんばんはみなさま。金曜夕方ですね。今日は朝から予定が詰まっていて疲れました、今は人間の形状を保つのがやっとです。でも最後の力を振り絞ってブログを書きます。アッ形が崩れる、腐ってやがる、早すぎたんだ!!


さて今日紹介するのは最近読み終わったチェーザレ・パヴェーゼの『月と篝火』、川島英昭氏という東京外大の教授が翻訳してます。パヴェーゼはイタリア人作家で、活躍した時期はイタロ・カルヴィーノやナタリア・ギンズブルグの少し上の世代になるでしょうか。本作を出してすぐ、42歳で服薬自殺をしています。余談ですが自殺する作家って格好いいですよね、ヘミングウェイとか芥川とか。しかし太宰、テメーはダメだ。三島もちょっとな。友達には絶対なれないな。

本作について。ざっとしたあらすじ。
私生児として生まれた「ぼく」は、壮年の年頃に差し掛かっていた。経済的に成功し、青年期まで過ごした故郷、イタリアの北部の農村を訪れる。かつて愛した人たちは、親友のヌートを除いてほとんどいなくなっていた。あるものは病に伏し、あるものは戦争に巻き込まれた。故郷を歩いているうちに思い出す、過去の記憶の断片たち。悲しい出来事だけでなく、今になって思い起こされる美しい記憶もある。しかし最終的に思い知らされるのは、戦争の余韻と世界の残酷さ。そんな感じの話です。

悲しい話なんだけど、戦争もののベタなお涙ちょうだい小説ではなく。布が水を吸ってじっとり重くなるように、あとから悲しさが余韻として襲い掛かってきました。雰囲気で言えばフォークナーの『響きと怒り』に似ているでしょうか。あるいはアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』にも少し近いかもしれない。あちらの方がもう少し世俗的な感は否めませんが、セックスの話多いし。

しかし途中までは別の要素で読むのが辛かった。何の断りもなく次々と人が出てきたり、イタリアの地名(しかも北部で馴染みがない)が出たりして、人なのか土地なのか頭がさっぱりコーンな状況で読んでいくことになります。あっ土地が喋ってるー!と思ったこともありました、そんなわけあるかい。

とはいえ。とりあえず流し読みをして、おおよそこんなことがあったんだな、と思いながら読んでいくと段々主人公の過去の物語が明らかになってくるのですね。貧しい家庭で育ったこと、13歳を迎え農場で働くようになったこと、そこの主人や娘たちとの交流、親友のヌートの存在。

ごくミクロな世界、あの土手がどうとか、丘やぶどう畑がどうとか、そういった話も淡々としていて面白いのですが、唐突にドイツ兵の死体が見つかったり、友人がパルチザン(イタリアのレジスタンス組織)に加わっていたことを匂わせたり、ところどころで第二次世界大戦の名残りが語られます。

パヴェーゼ自身は探偵小説を意識したようですが、最後の方に謎が明らかになるというか。そのせいもあって構成が複雑なので、一度読んだだけでは消化しきれない部分が多い。人かなと思ったら土地だったりする部分もありましたからね、人の上にぶどう畑ができるかよな。
それから。構成が複雑になってたり、話があちこちに飛んだりしているのは、もしかしたら自分にとって非常に大切なものである≪故郷≫を失い、茫然自失とした状態なのかな、とも思ったり。自然は相変わらず当時の名残りを残しているぶん、自分たちと一緒に過ごした人が戦争や病気で死んだり、ろくでもない結末になったり、そういったことがより一層残酷に感じられるのかもしれない。


余談。
私も故郷から遠く隔たって生きておりますが、自分の生まれ故郷は20年後30年後、どうなっているのだろうな、と思うことがあります。少子高齢化を代表するような土地なので、やがて人はいなくなるのでしょう。そんな時、自分は故郷に戻って何を思うのだろう。悲しいような、でも仕方ないな、という気持ちになるのかもしれませんね。それはそうと、東京生まれ東京育ちの人は、そういった「故郷ロス」みたいなのはあんまり味わえないんじゃないかなと思うのですが、どうなんでしょうね。

アントニオ・タブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」

2018-06-03 01:56:49 | 海外の小説


寝られないのでブログを更新します。ますます寝られない。


本日は大好きな作家、アントニオ・タブッキの『島とクジラと女をめぐる断片』を。なんだか「部屋とYシャツと~」「俺とお前と~」みたいなタイトルですが、これが本当にいい作品でして。
最近河出文庫から文庫版が出ました。ハードカバーのも持ってるんだけど、表紙は文庫の方が断然好きです。訳は先日没後20年を迎えた須賀敦子氏。


まずは簡単に作者、タブッキの紹介から。イタリア人で1943年生まれ、作家であると同時に文学者でもありました。このあたりは同じイタリアの作家であるイタロ・カルヴィーノと似ていますね。ただカルヴィーノはユーモアを、タブッキは憂いを帯びた情感を重視している点で大きく異なりますが。

タブッキの大きな特徴は、ポルトガルに、そしてポルトガルの詩人であるフェルナンド・ペソアに強く魅了されていたことです。彼はポルトガルが大好きすぎて、本当にマジで大好きで、リスボンを舞台とした『レクイエム』という作品をなんとポルトガル語で書きました。作中にはペソアの幻影も登場します。ポルトガルへの愛ゆえに、亡くなったのもリスボンでした、2012年のことです。

本作もポルトガルのアソーレス諸島(アゾレス諸島とも)が舞台となっています。大西洋に浮かぶ、9つの火山の島。かつて大航海時代の重要な経由地であり、捕鯨の拠点にもなった美しい島(たぶん)。この小説を読むと、ぜひとも訪れたくなります。リスボンから1500kmくらい離れてるけど。ちなみに東京―小笠原間が約1000kmなので、さらに遠いです。ええ、遠いですとも。そもそもポルトガルも十分遠いんだよな、直行便ないし。


タブッキについて。
基本的にあまり長い作品は書かず、時系列に沿ってベタっと書くことも少ないです。いや時系列には沿ってるんだけど、話の飛躍があったり、場面が大きく変わったりすることが多々あります。それにいくつかのパーツが、漠としたエピソードが組み合わさって、物語の輪郭を浮かび上がらせてくる手法が多いです。そうじゃないのは『供述によるとぺレイラは』くらいでしょうか。しかしながら、曖昧な物語のパーツがらせんを描くように収束していき、ある「模様」や「情感」を生み出すさまは、読んでいて本当に心地よいものがあります。

本作も「まえがき」のあとは、いきなり幻想的な内容から始まります。続いて映画のワンシーンのような男女のやり取り、過疎が進む島の暮らし、旅行記、それから細かい切れはしのようなもの―そういったものが並べられていますが、後半になるにつれてどこか悲しい話が増えていきます。救いがないわけではないけれど、少しずつなにかが損なわれていく、失われていく。緩やかな喪失に伴う、鈍い心の痛み。こういった悲しさは、アメリカの作家レイモンド・カーヴァーにも通じるものを感じる。

好きなのは最後あたりの長めの話と、あとはアソーレス諸島出身の詩人ケンタールの伝記的な物語。クジラから見た人間の話、作者のあとがきも好きです。ただし、最初の話は幻想的かつ抽象的で、ちょっとわかりにくいかもしれません。そこで挫折するくらいなら、先の方を読んでしまった方が愉しめるかも。
ひとつひとつの話に直接的なつながりはありません。ですが、読み終わった後にはこの島の歴史、そこで生きている人の営み、あるいはどんな時代でも共通している人間の一面に触れられる、そんな風にも思います。もう一度読み返したい、マジでこの島に行きたい。遠いけど。


須賀敦子氏の翻訳もいいですね。彼女自身エッセーで語っているけれど、イタリア文学への深い愛を感じます。訳者あとがきにある、表題をどうしようか迷った、という素直なエピソードもかわいらしい。
やはり作品に対する「愛」というのは、とても大事な要素なのでしょう。タブッキがペソアを、ポルトガルを愛したように、須賀敦子氏もまたタブッキやユルスナールを愛している。それぐらい愛せる作品、作家と出会えることは、本読みにとってこの上ない幸せなんじゃないだろうか。私もまた、タブッキが大好きです。あ、でも漱石も好きだし堀江敏行も好き、あとカフカも好きだし保坂和志や村上春樹もry

なかなか「自分の好きな作家、作品は、これだ!!」と決めきるのは難しいものです。でも何かを選ぶことは何かを捨てること、あるいは失うことなので、そういった痛みを味わいながら、人は生きていくのでしょう。それこそ、この物語に出ている人たちのように。悲しいけど、仕方ないよね、でもやっぱり悲しいよね。


眠くなってきたのでこの辺で筆を置きます。
気になった方はぜひ手に取ってもらえると、こんな夜更けにブログを書いた甲斐があるというものです。

ポール・オースター「鍵のかかった部屋」

2017-12-30 14:50:55 | 海外の小説


「いまにして思えばいつもファンショーがそこにいたような気がする。」


今年最後の更新になりそうです。
本日はポール・オースターの『鍵のかかった部屋』、白水Uブックスで柴田元幸の翻訳です。これは昨年読んで衝撃を受けました。こんなに面白い本があるのか、と。もともと海外小説を好んで読む方ではないのですが、この人の作品はハードカバーのもの以外たいてい読んでいます。同じアメリカの作家だとスティーブン・ミルハウザーも。こちらも幻想的で面白い物語が多いです。
余談ですけど白水Uブックスは面白い本が多いですね、高いけど(笑)アントニオ・タブッキもそうだし、カフカも白水Uブックスの池内紀訳が好きです。装丁もシンプルで美しい。


ちょっと誤解を生むかもしれないですが、この人の物語を読んでいるとすごく「村上春樹的ななにか」を感じます。今回紹介する『鍵のかかった部屋』の「他人の原稿が爆発的なヒット作となる」というストーリーは『1Q84』に出てくる「空気さなぎ」に似ているし、友達の母親と懇ろになるのは『ノルウェイの森』の玲子さんと寝るシーンのようだし...ちょっと強引かもしれませんが。もちろんパクリとかそういうのを言いたいわけじゃなくて、両者ともなにか普遍的なテーマを扱いながら、非常に注意深く―あるいは用心深くと言ってもいいかもしれませんが―書いているような印象を受けるのです。

ポール・オースターという作家は、暴力的な喪失を描くのが好きなのかもしれません。初期の作品である『ガラスの街』も『幽霊たち』も、奇妙な「剥奪」に満ちた話が出てきます。それは時間であったり、言語であったり、最終的には生命であったり。また『偶然の音楽』は賭けに負けて人権を奪われるし、『オラクル・ナイト』ではもっと直接的に盗まれる話が出てきます。そういえば村上春樹の長編『ねじまき鳥クロニクル』でも、妻は他人に寝取られるし、誰かが家に侵入して荒らしまわっていったっけ。話のもっていき方はとても面白いし、すごく先が気になるんだけど、読むとなんだか微妙に傷つく気がします。人によっては、こころに余裕がある時に読む方がいいかもしれません。

基本的にはニューヨークを舞台とした、知的で洗練された雰囲気が漂っています。随所にちりばめられている比喩、ウィットに富んだ言い回し、入れ子構造のように挿入される興味深い逸話たち。でも物語の背後には、暴力的なものが地下水脈のようにひっそりと流れている。そんな気がします。さりげなく残酷な話が描かれることも多く、ひやりとする気持ちになります。


さてこの物語について。
旧友のファンショーの妻から連絡が来るところから始まります。以前に川上弘美の『真鶴』を紹介した時にも書きましたが、私は物語の書き出しをすごく重視する派です。時々振り返って書き出しだけ読むことがあります、何度も。
書き出しというのは、CDで言うところの1曲目だし、作家にとって非常に大事な部分ですよね。書き出しでぐっとくる小説と言えば漱石の『吾輩は猫である』や『それから』、カフカの『変身』やガルシア=マルケス『百年の孤独』が挙げられるでしょうか。
この小説に話を戻すと、若干のネタバレになっちゃうかもしれませんが、この作品も冒頭の部分が非常に示唆的な意味を持っているように思います。読み終わった後、すぐにでも読み返したくなるような。これから手に取ろうとする方は、少し意識して読み始めると面白いかもしれません。

おそらく2、3時間ほどあれば読めると思うので、ここでは漠然とした印象を。話の中身については、ぜひ本編を読んでいただければと思います。
さてこの話は友人ファンショーが自分の「分身」のような存在として出てきます。幼少期、常に主人公の一歩先にいたファンショーは、早くして独立した人格を持ち、主人公の憧れの存在でした。大人になった彼は美しい妻と結婚し、自分が持ちえなかった文学的な才知に満ちている。まるで自分が手に入れたかったものをすべて持っている、そういう存在として出現します。
だけど話は少しずつ、妙な方向に向かっていくことになります。主人公は失踪したファンショーの代理人となり、本を出版する、ファンショーの元妻と結婚し、あまつさえ彼の伝記を書くことになる。そうして主人公の人生は幾重にも入り組んだ迷路に引き込まれていき、あるとき突然に、もう後戻りのできない場所に立っていることに気づく。そういった話の持っていき方が、実に上手いと思います。

そういえば最初に「この作家は剥奪が多い」と話しました。ではこの『鍵のかかった部屋』では何が剥奪されているというのか。それは恐らく「自分とは何か」「自分はどういう存在か」「自分はどうしたいのか」を考える行為だと思います。大きな流れに飲みこまれるようにして進んでいく物語。そして話が進むにつれて主人公の輪郭はずいぶんぼやぼやとしたものになっていく。しかし話の終盤になってようやく、主人公は立ち止まって考えられるようになる。
でも私たちの人生も、そういうことって多いんじゃないかと思うのです。「自分とは何か」「自分はどうしたいのか」そういったことは、しばしば自分でもわからないうちに考えられなくなってしまいます。気付けば「しなくてはならない」「こうあらねばならない」といった、思考のこりのようなものが頭に重くのしかかっていることは、決して他人事ではないはずです。この本は、そういった状態の恐ろしさを暗に示唆しているのではないか。そんな風にも読めるかなと思います。個人的な読み方がずいぶん入っているかもしれませんけど。


年の瀬ですから、今年自分が何を為したか、何を為さなかったか、そういったものを振り返るにはいい機会だと思います。でも結局は人生の限られた時間で、何が出来て何が出来なかったかなんて、そんなに重要ではないのかもしれません。「自分はどうやって生きたいんだろう?」決してすぐに答えの出る問題ではないし、考えるのは苦しいし孤独な行為です。しかし、そういったことをときどき考えてうんうんうなされるのも、案外悪いものではないのかなと思います。自分なんかすぐ楽な方に流れたがるので、こういう本を読んで目を覚ます行為が、長い目で見たときにどこかで自分を救ってくれているようにも感じるのです。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2017-12-01 11:16:46 | 海外の小説


順調にブログの更新頻度が落ちています。

でもねぇこれは何も僕が怠慢だとか堕落しているとかそういうわけじゃないんです。ただ忙しいんです、考えなくちゃいけないことが沢山あるのがよくないんです。え、じゃあなんでブログを書いているかって?まあある種の現実逃避というか、書いてないとやってらんないんすょ…もぅマヂ無理…ブログかこ…。


さーて今日も今日とて元気に現実から目を背けていきましょう!最近寒くなってきたのでロシア文学でも、とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるんですが、これがマジで面白い。しかし難解な部分は本当に難しくて、そこぶち当たると途端にページをめくるペースが落ちる。いろんな人が解説しているでしょうし、まだ読み終わってないんですけど備忘録として残しておきたくなったので、現時点(光文社版4巻、第12編)までの感想を綴っていきます。
この本は大学生の時に読もうとして、1巻ですぐ挫折しました。だってロシア人の名前や愛称が複雑なんだもの。「アレクセイ」→「アリョーシャ」はまだわかるけど、「アグラフェーナ」→「グルーシェニカ」って、ちょっと無理がありません?ちなみに『罪と罰』も序盤で挫折しましたが、もう一度チャレンジした時には「こんな面白い本があるのか!」と感動した覚えがあります。いつかサンクトペテルブルグに行きたい、大地に口づけをして「地域密着型!」と叫びたい。嘘です。
とまあ、こんな風に途中で挫折した本が結構あって、漱石の『吾輩は猫である』も寒月君がでてくるあたりでどうしても放り投げちゃうし、トマス・ピンチョンの『V』も気づいたら同じ場面を何度も読んでいて、ちょっとしたゴールド・エクスペリエンス・レクイエム状態でした。オレのそばに近寄るなァーッ!!

少し話が逸れますが、皆さんは読んでいる本がつまらなかったらどうしますか?すぐに「もういいや」と読むのを止めますか?それとも面白くなることを信じて最後まで読み通しますか?かくいう私は、だいたい100ページ読んで面白くなかったら諦めます、飽き性です。そうやって棚に積まれた本の多さよ。全体的に外国文学の方が面白くなるまでに時間がかかりますよね、文化の差もあるし、よその国の時代背景は思い浮かべづらいし。でもあいつらはあとからめちゃくちゃ面白くなったりしますから油断ならんですよね。トーマス・マンの『魔の山』とかその典型かな、面白くなるまで300ページくらいかかりますけど。ちなみに『魔の山』は残り150ページくらいで挫折しました。

そういうわけで、この『カラマーゾフの兄弟』もあとからものすごく面白くなる作品です。1巻で多くの登場人物や、その人物の育ってきた背景、性格描写、複雑な人物の関係性が描かれており、そのあたりはもうついていくので精一杯になります。しかし我慢して2巻まで読むと、一転して怒涛の勢いで物語が進んでいきます。

簡単に物語の説明を。本作はドストエフスキーの最後の作品です。好色で守銭奴である父フョードル・カラマーゾフとその3人の子たちをめぐる、ミステリアスで宗教色の強い長編。長男ドミートリーは激情家であり放埓な性格、次男イワンは明晰な頭脳の持ち主でシニカルな人物、そして末っ子のアレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)は20歳の僧侶見習い。彼は無垢というか、悪い言い方をすれば世間知らずと言えるような、まっすぐな性格の持ち主です。物語は父と長男のあいだで繰り広げられる、金と女をめぐる諍いが中心になるのですが、途中でイワンがアリョーシャに打ち明ける苦悩や、アリョーシャの師であるゾシマ長老の若い頃の話は、それだけで本が1冊書けるくらいの濃い内容になっています。ドミートリーがせっかく手に入れた金を使い果たし、どんどん破滅へと向かっていくくだりは疾走感があるし、どきどきするというか心臓に悪いです。途中で苦しくなって何度も本を閉じました。さすがドストエフスキー自身、賭博にはまり借金をたくさんこさえていたこともあり、何かに追われるような焦燥感の描き方が非常に生々しい。それでも先がとにかく気になる、病的なまでの面白さよ。

ただ、一読しただけではさっぱりわからない部分が沢山あります。特に中盤の宗教的な色が強くなっている箇所。善と悪、神が存在するか否か、人生は残酷か喜びに満ち溢れたものか、そういった対比が様々な人物の視点から何度も、重層的に語られていきます。それをナチュラルにやってのける作者のすごさよ。本当にそういう人物がいて、本当にそういうことを悩みながら考えているのだ、と思わせるような説得力、リアリティ。内容自体はわかんないけど、この作品がすごい、ということは分かります(笑)


まだ続きがあるので気になりますけど、早いところ読み終わってすっきりしたい、でも読み終わりたくない、そんな気持ちです。伏線みたいなものがあちこちに散りばめられているし、初めて読むときは物語を追うことで必死だと思いますが、読み返すと理解できなかったことがわかったり、人物の心情をじっくり味わったりできるのではないかな。少なくとも、今年読んだ小説のなかでは一番面白いです、あっまだ読み終わってないけど笑

ヘルマン・ヘッセ「デミアン」

2017-11-09 12:09:54 | 海外の小説


「火を見つめたまえ、雲を見つめたまえ。
予感がやって来て、きみの魂の中の声が語り始めたら、それにまかせきるがいい」



このブログまだあったのか…(驚愕)

そんなことはどうでもよくて。しばらく更新に隙が出来てしまいました。書きたいことはあるのになかなか言葉にできないというか、ネタは温めているんだけどじっくり考える時間がないというか、そんな感じで生きています。ぼんやりしていたら11月も3ぶんの1が過ぎようとしています。時間の流れの強烈さ、そして「この期間に、いったい何が出来たのだろう」という焦燥を前にして、私たちはただ慄くだけなのです。

暗い話になってきたから暗い作家でも、ということで今日紹介するのはドイツ文学会が誇るメンヘラロマンチスト(誉め言葉)、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』です。彼の中では、私はこの作品が一番好きかもしれない。『知と愛』とか、『荒野のおおかみ』の混沌とした感じも好きだけど。
ヘッセと言えば『少年の日の思い出』を覚えている方もいるのではないでしょうか。国語の教科書に載っていたあの暗いお話です。蝶や蛾の採集に夢中になっていた「わたし」は、友人の蛾の標本を盗み、羽を傷つけてしまう。あとになって謝りに行くと「そうかそうか、つまりきみはそんなやつだったんだな」と心臓が凍るような、皮肉のこもった侮蔑を投げつけられる。印象深い短編です。
このような「罪悪感」を主題に苦悩する人物を描くことがヘッセは大変に得意です。読んでいてむずがゆくなったりそわそわしたりと、きわめて「なまなましい」ものがそこにはあります。それはきっと、彼自身が相当苦悩していた人物だったからなのでしょう。といったところで簡単に彼の経歴を紹介。

1877年、ドイツ南部のカルフに宣教師の次男として出生。14歳の時に難関の神学校に入学するも、学校から逃亡を繰り返したり自殺企図をしたりする。心配した両親が悪魔祓いを受けさせるが効果は虚しく、ついには精神病院に入院。その後は職を転々としたが、やがて個人的な体験を下敷きにした『車輪の下』を発表し、作家として大成していく。1904年にはスイスに移住。第1次世界大戦の頃(1919年前後)には精神的に不安定になり、ユングの弟子に分析治療を受けています。その時期に書かれたのがこの『デミアン』です。ちなみに人生で3回結婚していて、なかなかの人物であることがうかがえます。

彼の特徴は「あいつらマジでアウフヘーベン」と言いたくなるような、対立物をあれこれ並べて思考するドイツ人特有の回りくどさと、「生命とは何か」「生きるとはどういうことか」と繰り返される内省的な記述でしょう、根暗。そういったこともあって文章に馴染むまでに時間がかかるし、合う合わないがわかれると思います。でもというか、そのような難しさがあっても、長い人生で一度は彼の作品を読んでもらいたいと思うのです。これだけ苦悶している人はなかなかいないでしょうから。そういうものに時折触れるのも悪くないものです。
それから当時ユング派の治療を受けていたこともあって、随所にその影響が色濃く出ています。「魂」の話や中国やギリシャの異教の話は、いかにもユングが好みそうです。物語の概要は、外から押し付けられたものではない、自分のなかに新たな価値判断、基準を生み出していくものです。不良少年に強請られたり一時的に堕落したり、または孤独に蝕まれながらも、やがてはデミアンや音楽家ピストーリウスとの対話を通じて新しい認識を獲得する。「善」や「悪」の価値判断に揺れることもあるが、親の元を離れて一人の人間として立って行こうとするシンクレール青年。そのストーリーはさながら心理療法のプロセスを見ているようでもあります。

彼の作品を読んでいて思うのは、ヘッセのなかには少年の部分が強く残っているということ。不良に強請られて親の金を盗んだ時の「世界は終わった」「もう死ぬしかない」みたいな苦悶。大人になって読むと大げさだけど、もし自分が子どもの頃に同じような体験をしていたら、きっと同じように苦しんだことでしょう。『少年の日の思い出』にも、いわば「子ども時代あるある」が描かれていますが、そういった部分を描写するのが彼は本当にうまい。だからこそ読み手は自分の体験を思い出してむずがゆくなるような、少し苦しいけれど懐かしいような、そういった不思議な感情を味わうのでしょう。人生が「子ども」「思春期」「大人」といった断片がつながったものではなく、一貫して地続きで「自分」という存在が歩んでいくものだ、ということを感じさせます。そのあたりにもユングの影響があるのかもしれません。


冬になる前に、ぜひ手に取って読んでみてもらえたらと思います。読書の秋にはもってこいです、なんせ暗いので。


幼少期あるある、ということで。私も親のものを盗んだことがあります、確か4歳とか5歳の頃に、お金を。それで親にメタクソに怒られたことを今でも覚えています。先日父親を刺し殺す夢を見ましたが、この『デミアン』を読み返したとき、同じように夢の中で父親を刺す描写があってびっくりしました。人間は深い部分でつながっているのかもしれません。これをフロイト的に「エディプス・コンプレックスの表れだ」と解釈するか、ユング的に「集合的無意識」と解釈するか、どちらが正しいかはわかりません。ですが、誰かが自分と同じようなことを考えたり感じたりしているのを知ることは、その内容が破壊的なものであったとしても、どこか勇気づけられるような、親しみを持てるような気持ちになるのです。