砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

雑記

2019-10-11 15:56:07 | 日記
やる気が起きぬ。

とはいえ現金なもので、ブログを書く程度のやる気は残っていました。
台風が来て気圧が低いのも影響しているのかも。ハヤクオウチニカエリタイ。



雑駁な話。
私は週6日労働していますが、最近限界を感じつつあります。自分の人生を見失いつつある。たくさん労働している甲斐あって収入はまずまずあります。かと言って金を何に遣いたいか、あまり思い浮かばないんですね。今欲しいものといったら新しい楽器と本くらい。あとは海外にも行きたいけど、どうしてもってほどではないし。強いて言うなら休みが欲しい。


人間は他者と比較する生き物ですね。他者と比較することで、自分を相対化するし、他者を理解する。比べるのはとても大事なことです。自分ひとりの認識に閉じこもっていたら、何も生まれてこない。ある種の自閉的な世界にとどまることになります。オグデンの言う自閉―隣接ポジションのような世界になる。
しかし他者と比較することで、苦しい思いをする運命からも逃れられません。あいつの方が金持ち、頭がいい、嫁が美人、庭から石油が出るetc…。そこで生じてくる感情が羨ましさenvy、妬ましさjealousです。特に羨望envyは強烈で、七つの大罪(憤怒、怠惰、大食など)にも掲げられているほど罪深いものと考えられています。それがもとになって、盗んだり刺したりすることになるからでしょう。
我々はふだん、無意識に人と比べることをしながらも、そこから湧き上がる強烈な情緒を見て見ぬ「ふり」をしている。A.フロイトのいう防衛機制をあれこれ駆使して(例えば「酸っぱい葡萄」のように合理化をして)、なんとか自分を守ろうとするわけです。守れないと苦しいからね。そんなこんなでひいひい言いながら私も生きているわけですが。


でも。
ときどきふっと立ち止まって考えると怖くなります。あれっ、今自分は何をしたいんだっけ。何を求めているんだっけ。そんなことを思うのです。一部のユング派の人から「あなたの魂は何を求めているんでしょう」とか聞かれそう。
仕事が楽しくないわけじゃないし、達成感もそこそこあります、役に立っている自負があります。でもこれでいいのだろうか、週6日ひたすら働き、寝て起きて仕事に行く生活がしたいのだろうか。考えてもすぐに答えは出ません。そのフラストレーションを誤魔化すために酒を飲み、酩酊して翌日宿酔の体を引きずり、週の6/7を占める労働へと向かうのです。そしてアセトアルデヒドに冒された悩が効率の悪い情報処理をし、だるさを伴う肉体に鞭を入れて働くのです。そこには確実な死が待っている。少なくとも心的には死んでいるわけで、それはもはやゾンビーなのでは。


仏教には「四諦八正道」という概念があります。ものすごくざっくりとした言い方をすると「苦しみの原因は自分の考え方だから、もっと適切に考えろ。それで無理なものは無理」といった考えです(ニワカ仏教徒なので間違っていたらすみません、お詫びに出家します)。
そりゃそうだけど、現実はそうかもしれないけどそんな簡単に諦められるものじゃなくない?と思う。苦しさで歯を食いしばったり、もうどうにもならない感情でいっぱいになったりするときもあるだろうし、諦めないで自分の行動で改善できることもきっとあると思うのです。


要するに、どう考えても自分は働きすぎなのです。ワーカホリックです。金は欲しいけど命あっての物種なので(関係ないけど、昔は「命あってのものだね…」としみじみ言っている言葉なのかと勘違いしていました)。もう少し人間的な生活を送りたい。週6日も働いても、なんのために生きているかわかんないし。働くために生きているようになっていて、本末転倒感やばい。
しかし週5で働くとなると、収入が減る。それでやっていけるんだろうか、老後までに2000万ためられるんだろうか、そういう不安もあります。おのれ麻生太郎。

それはそうと。自分の業界ではこんな風に週6日働いている人が結構いて。それが当然みたいな文化があるわけだけど、まったくもって当然じゃないよね。海外の労働時間とか見てごらん。アメリカですら年間1700時間くらいというデータがあって(それでも北欧やフランスに比べて長い)、この前自分の年間労働時間を算出したら2300時間だったので死を意識しました。


何を言いたいか見失ってしまった。
労働環境、改善されないかな。ブラックなわけではないけど、そこそこ働いてそれなりに生きていける見通しが欲しい。そうじゃないと子どもなんか作れないっての。週6日労働してやっと養える程度なら、子どもと関わる時間なんて持てないしね。そりゃ少子化になる。
豊かな社会っていうのは何だろうな、と思います。飢え死にしないだけでも豊かなのかもしれないけど、人が、個が大事にされない社会っていうのも違うのでは。労働者は機械じゃない。最近ラース・スヴェンソンという方の『働くことの哲学』という本を読んで思ったのです。

自己責任という言葉が今の社会を汚染していっていますが、他者と比較して少しでも自分が優位に立てているか、社会的弱者を叩いたり、盲目的に誰かを支持したり。現実を直視するのが難しい世の中です。
学歴、金、家、なんだかそういった欲望に皆突き動かされて、大事なものを見失っていやしないか、そんなことを思っています。しかも一度そこにはまり込んでしまうと「こうあるべき」「こうしなきゃ」といった観念から逃れることはなかなか難しい。私もずぶずぶにはまり込んでおりました。



幸せになるっていうのはなんでしょうね。もはや宗教しかないのかな。
助けてラスコーリニコフ。