砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

金のことを考えている

2024-02-14 17:54:13 | 
めちゃくちゃ金のことを考えているのである。
亡者や守銭奴になっているわけではないが、つい金のことを考えてしまう。

生活に余裕がないわけではない。
なんたって週6日労働しているし、慣れない家計簿をつけて、なるべく清貧に生きている。
勉強会も必要性が高いものに絞って参加している。
ときどき酒も飲むが、もっぱら発泡酒だ。

それなのに。
この先どのくらい金が必要になるのか、という不安が漠然と漂っている。
自分が資本主義の渦に飲み込まれてしまっている気もする。
『モモ』に出てくる灰色の男たちに、すっかりそそのかれてしまっているような。
少し立ち止まって深呼吸する必要がありそうだ。あと、たまにはビールを飲む必要がありそうだ。
贅沢は言わないので、ときどきタリスカーも飲みたい。



根底には他者比較もある。
先日、金をもりもり稼いでいる他業種の方々と飲酒する機会があった。
初対面の人が多くて人見知りが炸裂してしまい、この年になって自分のやばさを再認するに至った…恥ずかしい限りである。

それはさておき。
ものすごく稼いでいる人の話を聞いて、腰を抜かしてしまいそうになった。1人10万くらいする恵比寿のフレンチに行く人。でかいバレンシアガのバッグを持っている人、美容整形に情熱を注ぐ人。稼いだお金でお馬さんに命を懸けている人。
いろんな人がいた、多種多様な生きざまがあるのだと感じた。

彼らは幸せなんだろうか。余計なお世話だが、なんだかそんなことを考えてしまった。
もちろん、この気持ちの大半は貧乏人のひがみに由来している。
私も彼らと同じように稼げていたら、そんなことを考えないのだろう。
ちなみに私はしょっちゅう「今、幸せかなあ」と考えるが、発泡酒を飲むと瞬時に幸せを感じられる身体なので、そこまで不幸でもない気がしている。たまにはビールも飲みたいけどね。


私の身近なところに、お金のことに取りつかれ、ハイパーオーバーワークになってしまった人がいる。
お金はめちゃくちゃ稼いでいたけど、一緒に飲んでもあまり幸せそうには見えなかった。ひどい飲み方をしていた。
その人はやがて心身のバランスを崩し、家庭生活もうまくいかなかった。結果的に、いろんな人に迷惑をかけていた。私はその姿を見て、その人には悪いけど、少し安心してしまったのだ。
だってずっと無理をしていて、つらそうに見えたから。


先日、とある組織に勤めている人と話をした。
その組織が虚無であった。規模が大きいのもあるが、上層部がスターリンよろしく粛清人事を行うため、周囲の人がイエスマンになり、上にお伺いをたてて物事を進めるようになってしまった。末端の些末な事柄さえ、いちいち上にあがって承認を待たなくてならない。

そうなると。
決めるまでの時間が多くかかったり、たくさんの人の目に触れるために重箱の隅をつつくような指摘が発生し、その作業に疲弊したりしてしまうのだという。
なんて官僚的で、非人道的な状況なのだろうか。カフカの不条理を凝縮したような働き方だ。
採用にあたって『城』を読んだ人だけが募集になるのか?と疑いたくなるくらいだった。

第一に、その人が気の毒であった。
自分もかつて虚無的な業務を担当していた時期があり、その時期が非常につらかった。
だから、その人も同じようにつらい思いをしているのではないか、と心が痛んだ。

そして。
2024年にもなって、人類が虚無的な労働をしているのはどうしてなんだろうか。
生成AIなどの技術が発展してきて、いわゆるブルシット的なジョブはそちらに任されるようになるのか、と思っていたが、どうもそうではないらしい。いわゆる「仕事をしている」ための仕事というか、そういうものが多岐に渡って人類に生じているようなのである。
予算を使いきるために工事をするようなものだ。せっせと仕事をしていないと、その業務が削減されてしまうから、そうならないように一生懸命仕事をしているというか、そうでもしないと自分の存在意義を見失ってしまうというか。何のために働いているんだか、いよいよわからなくなってしまいそうだ。


最近『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか バーンアウト文化を終わらせるためにできること』という本を読んでいる。これが面白いのである。
著者はかつてアカデミックなポストについていて、実際にバーンアウト状態に陥った経験がある人物だ。神学部の教授か何かを務めていたものの、大学の些末な業務や意味のない会議、やる気のない学生への授業ですり減り、燃え尽きてしまっていた。強いイライラと無気力を抱き、やがて仕事を辞した。

この著者が言うには「理想と現実のギャップ」がバーンアウトを引き起こす要因らしい。
「確かに」と思う部分もある。私も仕事に抱いていた理想と、現実のはざまで辟易していた時期があった。それはわかるけど、でもなんか納得がいっていないんだよな。
筆者の理屈を捻じ曲げて解釈すると、「仕事に対する理想を引き下げろ」という、労働者に責任を帰属させるだけの自己責任論になってしまうからである。もちろん著者はそんなこと言っていないけど、世の中には事実を曲解してしまう人がいるので、変な解釈が独り歩きしないよう注意を払わなければならない。

私の知人が消耗していった、カスみたいな労働環境を是正していくような、現実の仕事を少しマシにしていくような、社会全体の動きも今よりずっと必要なんじゃないだろうか、と思うのである。
はたしてそれにはどのような力が必要なのだろうか。
みんなが「自分のやっている仕事のここがクソだ」と、自由に言える雰囲気が大事なんじゃないかと思う。#教師のバトン、みたいなね。あれも教師のやりがいをアピールさせる狙いだったけど、結果的にはその劣悪な労働環境が浮き彫りになったのであった。

「#自分の労働のここがクソ」いいではないか。
もちろん労働の全部がクソではないと思うけど、少しでも幸せに生きていくために、クソはできる限り減らせるほうがいいんだろう、と思う。

東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』

2020-07-14 17:52:13 | 


蒸し暑すぎる。
南国原産の観葉植物が元気になってくれるのは嬉しいけど、それにしても不快指数がヤバい、バリヤバい。
この調子で盛夏を迎えたらどうなるのか。道端で人間が液状化する日も遠くないだろう、そして湿度が上がってまた不快指数が跳ね上がる未来が見える。うろろん。
例の感染症、せっかくなら夏に流行ってくれた方が在宅勤務の恩恵を受けやすかったのに…と不謹慎なことばかり考えていたら、また感染者数が増えてきている。本当は一日も早く収束してほしいし、一刻も早くテラス席でビールを飲んで焼き鳥に七味を振って食べたいけどね。これはかなりマジ。


さて今日は以前紹介した『暇と退屈の倫理学』で触れた、東畑開人氏の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』を。2019年2月出版、私が持っているのはその年5月に出た第4版だ。これだけで、学術書にしてはとても売れていることがよくわかる。なんと昨年12月に紀伊国屋じんぶん大賞、大佛次郎賞も受賞している。オソロシイ本である。

とはいえ内容はオソロシイものでなく、エッセイ調で書かれており非常に読みやすい。基本的はデイケアに出てくる人物との交流をもとに、なぜそれが起きたのかを考察していく。ときに精神分析やユング派の概念、文化人類学、社会学からの引用もあるが、筆者のユーモアあふれる比喩でわかりやすく、この領域になじみのない読者にも咀嚼しやすいかたちで紹介されている。
以前書かれた『野の医者は笑う』に引き続き、舞台は沖縄。ただ今回は精神科デイケアの体験がメインテーマである。そこでの体験を通じ、筆者は「ただ居ることの意味」「ケアとセラピーは何が違うのか」ということを考えていく。そして読者にその問いを投げかけてくる。


最初読んだときは「ウワァー面白い!!」と思った。目から鱗が勢いよく落ちる思いだった。そうだよね、「ただ、いる、だけ」ってつらいよね、ケアとセラピーの差ってそういうところだよね、でもどちらも大事だよね、と何度も膝を打った。青あざができるくらい強く打った。
今年のはじめに2回目を読んだ。そのときは「そうだけど…あれ、こんな感じの内容だったかしら」と、どこか腑に落ちない気持ちになった。はじめて読んだときの感動は、前の前に付き合っていた女性くらい遠い存在になっていた。
そして今が3回目だ。今のところの感想は「なんか違うな…」である。私が抱いたこの「違和感」はなんだったのだろう。今日はそれを考えてみたい。


この本では精神科デイケアで「ただ、いる、だけ」を命じられ、戸惑って混乱し、ときに傷つき、そして何とか生き延びようとする主人公の姿が描かれている。物語のなかでは『居るのはつらいよ』というタイトルが表すように「ただ、いる、だけ」というのがつらいこと、苦痛なこと、耐えがたいこととして繰り返し語られる。そもそも、このこと―居るのはつらいよということーにすぐピンとくる人がどのくらいいるだろう。

それを理解するために少し脱線する。
ひところ世の中で「窓際族」という言葉が流行った。会社にいて名ばかりの肩書を持ち、大した仕事もなく窓際に座るおじさんを表すものである。某ウィキペディアによると、この言葉が登場したのは1970年代のことらしい。
やがて1990年頃になると「追い出し部屋」という言葉が登場した。法律上、労働者の解雇が困難で自主的に退職してもらうため、他部署から隔離してひたすらつまらない作業を与えられる、または仕事を与えられなくなることである。企業にとってはしょうがないのかもしれないが、やられた側としてはたまったものではない。とても残酷なことだ。

そういった言葉を聞いて、「何もしなくても給料がもらえるなんてラッキーじゃん、今月のラッキーアイテムは窓!」と思う人もいるかもしれない。でもそれが長期にわたると、「俺がいる意味ってなんだろう」「自分が何の役にも立っていない」という観念にまとわりつかれ、苦しみ抜いた末に退職を選択する人がいる。あたかも「お前には価値がないんだよ」とじわじわ烙印を押されるようなものだ。私のように仕事中にブログ書くくらいふてぶてしかったら、辞めなくて済むのかもしれないけど…大きなお世話か。

それくらい人間は価値のないこと、意味のないことに耐えがたい存在なのである。昔の拷問のなかには、穴を掘っては埋めさせ、穴を掘っては埋めさせるのを繰り返すものがある。なかなか機知に富んだ拷問だ。直接的な痛みを与えるわけではないが、意味のない行動が人間に耐えがたい苦痛を与えるのをよく理解してのことなのだろう。


話をこの本に戻そう。
本来的に人間は「ただ、いる、だけ」に苦痛を感じる。ここまでの前提はいいだろう。
しかし精神科の、とりわけ居場所型デイケアでは、メンバーにもスタッフにも「いる」が求められる。何かを「する」ことよりもただ「いる」ことが重視される、「変化」よりも「安定」や「均衡」が求められる。
でもそれでいいんだろうか、本当にこれでいいんだろうか。そこに生じる葛藤に持ちこたえ、「いる」こと自体に価値を見出すまでのプロセス、そして「ただ、いる、だけ」のなかでも生じてくるささやかな変化。さらに言えば、変化が生じたとしてもすぐに何もない日常がやってくる反復性、その苦痛。その運動をひとつの物語にしているのが本書だと言える。この物語はとてもわかりやすく、面白い。

しかしだ。
私が腑に落ちないのは最後の箇所である。若干ネタバレになるが、最後の最後で、この居心地の悪さの根本にあるのは「お会計の声」、そしてそれをもろに浴びた結果生じる「お金にならないことは価値が無いこと」という「内なるニヒリズム」に端を発することが暴かれる。
お会計の声は、いまや世界をうずまく巨大な市場原理に飲み込まれた結果として派生すると説明されている。しかし「内なるニヒリズム」がどういう経緯で生じてきたのか、それについて考察や説明が、私が読んでいる限り十分なものが見当たらなかった。私の理解力の問題かもしれないが、あくまで市場原理にケアという行為が飲み込まれた結果、としてしか言葉にされていない。


「それお金になるんですか?」
「どのくらい効果があるんですか?」
「なんの意味があるんですか?」
「費用対効果を示してください!」


そういった残酷なまでに強力な「お会計の声」「エビデンスを求める風潮」を浴び続けた結果生じるのだ、そうして人間に本質的に不可欠であるケアの営みは頽落するのだ、と言われればわかる気もするけど…本当にそれだけなのだろうか?一気呵成に書かれているのでクライマックスはさっと読めてしまうのだが、再読したときには筆者の出した結論に同意するのに、すこし二の足を踏んでしまう。


そもそも「人間の価値」ってなんだろう。
根本に残るのはその問いである。本書はその問いに踏み込んだ議論は展開していない。ここが私にとって一番納得いっていない点だと思う。ただそれを問い始めると、心理学ではなくほとんど哲学、あるいは宗教の領域に足を踏み入れることになるのだろう。でも、そういったことに対してもう少し触れてくれたら、それに対して筆者がどう思うか記してくれたら親切だったようにも思う。
もしかしたら、そういったことは個々人で考えるように、と促しているのかもしれないが。それを考えるのも、「ただ、いる、だけ」と同様に、とてもつらいことなのかもしれない。だからこそ、市場原理に飲み込まれて「価値のあること」ばかり考える方がわかりやすく、楽なのかもしれない。だとすればなかなか苦しい世の中である。助けてラスコーリニコフ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

2019-07-27 16:51:38 | 



「生きてるってーなんだろ?」
「生きてるってーなあに?」
「…今日も今日とて仕事で、生きている気がしないよ!!」
???「ダイジョブダイジョブ~、仕事をサボって~。ダイジョブダイジョブ~、ブログを綴って~」



そんなわけで國分功一郎氏『暇と退屈の倫理学』です。これは東畑開人氏の『居るのはつらいよ(通称イルツラ)』に紹介されており、興味を惹かれて手に取りました。東畑氏の本も面白かったんだけど、この『暇と退屈の倫理学』も本当に面白かった。今年読んだなかではいまのところ一番なので、今日はこれをご紹介。東畑氏の本も後日取り上げます。

著者の紹介。早稲田の政経、東大大学院の哲学科を経て博士号を取得。フランスへの留学経験もあり。現在は東工大で教鞭を執っています。主な著作に『中動態の世界』『スピノザの方法』といったもの、また『近代政治哲学』などの政治や民主主義に関する本もいくつか書いていて、さらにドゥルーズやデリダの翻訳をしています。インテリすぎて鼻血が出そう。

本書では「なぜ人間は退屈を感じるのか」「退屈とは何か」といったテーマを、過去の哲学者(パスカル、スピノザ、カント、ハイデガーら)の思想を引き合いに出しつつ論じています。これが本当に面白くて、400ページを超える厚さなんだけど数日で読み終わりました。私が暇で退屈してたってのもあるんですが…ハハハ…。


考えてみると「退屈」は世の中にあふれています。私たちはすぐ退屈に陥る。
でも退屈を感じる前に、それを意識する前に退屈に行動を支配されている場合も決して少なくない。
「退屈」は不快な状態です。だから私たちは意識的、無意識的に退屈を避けようとする、暇になるやいなやスマホを取り出すし、休日には出かけたり余暇の時間を楽しもうとしたりする。しかしそれでも、森を歩いているとどこからかまとわりつく蜘蛛の巣のように、私たちは退屈から逃れることはできない。
そもそも退屈ってなんだろう、どうして私たちは退屈になるのだろう?とても身近なテーマであるにもかかわらず(だからこそ、と言えるかもしれませんが)、退屈についての答えはなかなか出てきません。


本書では退屈にまつわる論がいくつか紹介されていますが、面白かったのはパスカルとハイデガーの理論。パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている」と語っていて、それゆえ人間は不幸だと述べている。いやなんていうか、おっしゃる通りで身もふたも無いというか…。じゃあどうしろって思いますけどね、それはこの本に書いてあるからみんな読もうね!

ハイデガーは退屈を3つのパターンに区分しています。第1の様式では、ものが思い通りにならない、電車を待っているがあと4時間もある、といった退屈。2つ目はパーティに参加して、楽しく過ごしているはずなのになんとなく退屈だ、といった様式。3つ目は…なんだっけ。忘れちゃったんであとで読み返します。確かどうあがいても退屈の虜になってしまうのだ、ということが書かれていたような…。じゃあどうしろって思いますけどね、それはこの本に書いてあったっけな。確かめるためにみんな読もうね!!!


ともかく。
退屈についてあれこれ思いを馳せる、とても面白い本でした。電車に乗るとスマホをいじる人、ゲームをしたり動画を観たりしている人を多く見かけますよね。私もそのうちの一人なんですが、やはりあれは退屈から逃れよう逃れようと思っていることの表れではないかな。もちろん、こうして職場でブログを書いているのも退屈しのぎの一環なわけです。私もまた、退屈を忌避している。

それに現代の社会では、私たちが退屈しないようにさまざまなサービスが提供されますよね。ほらほらあなたが気晴らしするものは、こんなにありますよ、とSNSやAmazon Prime、Huluなどの動画配信サービス、Apple MusicやSpotifyなどストリーミングサービス。ゲームもたくさんあるし、なんなら旅行のポスター、TVのCMでも「こうやって楽しめばいいんですよ」と喧伝されています。


そうやってPassiveに気晴らしをすることが、本当にいいんだろうか。
だからといって「目的を持って生きろ!」「自分で道を切り拓け!」と熱血教師や実存主義者のようなことは言いませんけど(ラッセルはそのように言っているようです)。
だってそんなもの、玉ねぎの皮をむくように突き詰めて行ったら何も無いと思うし。「自分」が「これをやらなきゃいけない」といったことは、本質的にはないと思うんです。綾波レイじゃないけど、自分の代わりなんていくらもいるので。だから人間界はうまく回っていくんじゃないかな。誰かが死んで破綻するなら、そのシステムは無理があるってことです、人って簡単に死ぬし。


話を戻します。
じゃあ退屈にからめとられて無目的に生きていくのかよ、それでいいのかよってわけでもなく。人生にまとわりついてくる退屈と自分はどうやって付き合っていくの?といったことを、諦めずに考えていく必要があると思うんです。そのきっかけを与えてくれるものとしては、非常に貴重な本なのではないかな。何より読みやすく、親しみやすい内容だったので。お値段も税別1200円とお手軽です、こんなに安くていいの?東畑氏の本とか税別で2000円だったのに?(若干根に持ってます)
ほらほら、この本を読んだらしばしの間あなたは退屈を忘れられますよ、さぁさぁ!!


ここから急に別のベクトルの話。
世の中には「遊べない人」というのがいます。これはイギリスの小児科医であり精神分析家であったウィニコットの概念ですが、何かいきいきとしていない、「本当の自己」ではなく「偽りの自己」で生きている人のことを指します。
なんのこっちゃと思う方もいるでしょう。でも臨床現場で人に会っていると、そういったアイデアと符合する人たちと確実に遭遇します。何故か一緒にいてつまらない、退屈だ、と感じる人。そういう人の話を聞くのは苦痛で、とても眠くなる。それが國分氏のいう退屈とどこまで近似した感覚なのかわかりませんが、考える上での一つの手がかりになりそうです。

たとえば引きこもりや不登校の子どもと会っているとき。
彼らはあまり外に出ません。となると、必然的に家のなかで大半の時間を過ごすことになる。でもそこでできることは限られています。テレビを見る、ゲームをやる、You Tubeを見る。当然、そういった行為は繰り返していると飽きます、退屈します。
しかし彼らと会っていて思うのは、どうやら全然飽きていないようなのです。そしてまた、彼らの話を聞いていると、こちらがものすごく退屈してくる場合が多いです、徐々にうんざりします。またその話かよ、と(そういえばユング派の田中康裕先生は「患者の話は9割がゴミ」と話していました、わからなくもないけど、先生にはオブラートという概念が存在しないのかよ)

さて、このとき生じる「退屈」は一体なんだろう。
実際彼らの日常は同じことの繰り返しだし、変化に富むものではありません。でもなぜか彼らが退屈している風には感じられない。しかし、実際のところ彼らはこころのどこかで退屈し、うんざりしていてもまったくく不思議ではないわけで。その退屈に、その苦痛に耐えられないから、「治療者に投げ込む」という形で表現しているのかもしれません。引きこもり傾向のある子から感じる「退屈」は、自閉傾向のある子どもと会うときのコミュニケーションの難しさとは、質が異なるようにも感じるのです。

藤山(2003)は「一般にそうした精神病部分の語る言葉は、広がりや深みやリアリティに欠けている。それは意味の響き合いに欠け、たとえば銭湯の富士山の絵のようにのっぺりとして平面的である。そうした人格部分の語る言葉に触れるとき、必然的に治療者は不快や退屈さを体験することになる」と述べています(『精神分析という営み』からの引用)。
私たちに退屈を感じさせるのは、彼らのこころのなかで麻痺している、あるいは「死んでいる部分」、精神病的な部分からの働きかけなのでは、と考えることもできるのではないかと。

彼らのなかの「生きている部分」と「死んでいる部分」の均衡が崩れているとき、「死んでいる部分」が過度に増大しているとき、「退屈」は自らのなかに留まれず、他者に投影されていくものなのではないでしょうか。そう考えると「ああ、なんか退屈だなぁ」と退屈を自分のなかに抱えておくことも、ある程度健康だからできることだと言えそうです。
ウィニコットはこうも述べています。「精神療法家は遊ぶことができ、しかも遊ぶことを楽しめなければならない」と(D.Winnicott. 『精神分析的探究3』, pp.73)つまりすぐ退屈に陥らず、遊ぶことができる、「生きている部分」がしっかり留保されている人のことを言及しているのでしょう。


話が再びこの本に戻ってきます。
本書の増補部分で、國分氏は「人はどうしても傷ついていく」と述べています。私の説明の仕方が乱暴で恐縮ですが、人は傷つきの記憶を紛らわせるために、退屈から逃れようと何かをする、例えば強迫的な行為や薬物、酒への依存、自傷行為に助けを求める。そういった側面があるようです。うーん、なんとなく、なんとなくわかる気もする。そうした傷つきを、いかに破壊的でない方向で模索していくか、それはきっと精神療法のプロセスに似たものなんだろうな。



退屈は逃れようのない宿命であるならば、自分の退屈とどう付き合うか、それをどうやって表現するかといったことが非常に重要なのだと思うのです。そしてそれはきっと臨床的に重要な意味を持っている、何かの補助線になりえる。そんなことを考えさせられた本でした。相変わらずまとまりの悪い文章で恐縮ですが、みなさんの退屈しのぎになれば幸いです。

東畑開人『野の医者は笑う』

2018-06-28 20:08:17 | 

久しぶりに真面目なことでも書くか。


『野の医者は笑う』東畑開人。京大出身の臨床心理士による、心理学的ノンフィクション。今までも書店で何度か見かけたことはありましたが、表紙に若干の抵抗があり購入には至らず。ご覧の通り、笑顔が怖いし、眩しいし。
でも先日先輩たちと酒を飲んでいる時に「あの本面白いよ、確かもう4刷くらいしてるでしょ」とこの本の話題になったのです。「そんなに面白いんすか?じゃあ貸してくださいよ!」と言ったら「持ってないんだよ..」と言われた。4刷もしてるのに?どうしてそんなこと言うの?

そんなわけでホイホイ買ってしまったのです。正直言って1900円もする本をぱぱっと買って大丈夫?あなた低所得だよ?という天の声も聞こえてきたのですが、先輩が面白いって言ってたしamazonのレビューも高いし、ダメだったら先輩に2000円で売りつけよ…!と思っていました。

これがね、面白かった。悔しいけど面白かったよ。ノリとしてはちょっと古い感じがありますが(太陽やエビチリと会話したり、観葉植物になろうとしたり。メタルギアかよ)。随所に面白いエピソードがあり、筆者の就活がうまくいくのかハラハラもあり笑、すらっと読めてしまった。


ざっくりした本の内容。臨床心理士である筆者が「癒されるってどういうこと?」「心の治療って何?」という疑問から出発し、民間のセラピスト、ヒーラー(筆者は彼らを「野の医者」と呼ぶ)の活動が盛んな沖縄で、実際に治療を受けまくったり話を聞きまくったりしています。怪しい人たちがたくさん出てくるのですが、彼らに癒されている人々がいるのもまた事実。ヒーラー自身も、過去に貧困や家庭の不和など、辛い経験をしていることが共通していると語られています。

とにかく、怪しげな治療がどんどん出てきます(アロマや祈祷とかはまだ常識的な方で、前世を見たり、ミルミルイッテンシューチュー、手から金粉出したり。サイババ感が漂う)。しかし読み進めていくと何故か「そんなの科学じゃないよ」「単なるプラセボでしょ」と言い捨てられないようにも感じるのです。
私たちもふだん、神社に行ったり墓参りしたりしてるわけで。別にそれが統計的に有意な効果があるから行くわけじゃないですもんね。でも行ったらなんとなく落ち着いたとか、どこか厳かな気持ちになったり、美しいと思ったり、何か意味があるような気もする。そんなものなんです。人間って騙されやすく、信じやすい生き物なんです。
では、どうして人間はそういう風に進化してきたか、なぜ宗教や迷信を生み出してきたか?私見ですが、人間が大きな物語の中で生きようとしているからではないかな。一人の人間も、膨大なストーリーから成り立っている。いついつ生まれて、父母がどんな人で、どういう友達がいて、どんなことで笑ってどんなことで傷ついて、泣いて、誰とセックスをして…そういったストーリー。
でも死んでしまったらカスになります、無です。それはやっぱりさみしいよね、ということで集積されたものが物語になり、迷信が成立し、やがて神話になり宗教になっていったんじゃないかな。そこにあるのは自分が無になる「不安」や「虚しさ」なのではないかと思うのです。だから何か大きなものに縋りたい、頼りたい。あくまで私見だよ。

本に話を戻します。ここ最近の臨床心理学では、技法の効果研究がいくつか出ています。おおよそ一致しているのは「効果は認められるが、各技法間で大きな差が認められない」こと。そして何故効くのかとか、どういうメカニズムか、そういったことは未だにブラックボックスなわけで。もっともらしい仮説(情動修正体験だったり、認知の修正だったり、新規巻き返しだったり、魂の成長だったり)がいくつも並べられているのです。じゃあそれは、ヒーラーたちと何が違うの?ってことになりますよね。
とはいえ、案外そんなものなのかもしれません。やっぱり自分の価値観とか、相性とか、「自分が何を大切に思うか」「何にときめくか」が大事というか。ユング派のギーゲリッヒ先生も「心がcatch fireしたものを大事にしろ」と仰っていました。それは治療者の側にしても、患者の側にしても言えることでしょう。自分が「これ本当に大丈夫なの?」と不安に思うことは、たいてい長続きしません。

それから、沖縄の社会的な問題(貧困率の高さ、10代での結婚や出産、離婚など)もところどころで浮き彫りになっていて興味深いです。沖縄というと「なんくるないさ」で、おおらかでのんびりしたイメージがあります。でもそれはある意味過酷な日常の反動なんじゃないかな。江戸時代では薩摩の島津藩に搾取されていたし、先の戦争では大量の犠牲者を出し、未だにその名残があります。そういったところも、癒しのニーズの高さに結びついているのかも。もともとユタと呼ばれるシャーマンの文化があるのも確かですが。

面白い場面、気に入った箇所はたくさんあったけれど、「軽薄じゃないとやっていけない」と言うフレーズが一番ぐっと来ました。なぜかというと私が軽薄だからです。そんなことはどうでもいいけれど、現代は「これだ!俺にはこれしかない!」とずっしり腰を据えて、物事を決めるのが難しいようになってきたように思います。それは筆者も語っているようにポストモダンの不安なのでしょうか。難しいことは良く分からんけど。
それから筆者が「自分がやっていることって正しいのだろうか」と真剣に悩むあたり、実にリアルだなあと。心理の人はみんな悩むんじゃないだろうか、というか悩まない人にあんまりカウンセリング受けたいとは思わないけれど。余談ですが京都大学に後から入ってきた精神分析の先生、某松木先生のことだろうか笑 なんだか身につまされる話が多かったな。

もう一つ気になった点。心理療法の技法は次から次へ生み出されています。筆者も述べていますが、技法は時流を映す鏡なのかもしれません。だから、時代に合わせて技法が改変されていく。
心理療法は相手のニード(何を欲しているか)と、モチベーション(そのためにどの程度やる気があるか)を大事にします。それが個人に対してではなく、今の社会を相手にしている、と考えることも出来るでしょう。社会のニードは何か、社会のモチベーションはどの程度あるだろうか。今後どういった技法が発展していくのだろう。やはり「早い、安い、確実」なものが台頭してくる気がする、CBTのような。それは社会全体が不安になっているからなんだろうけど。そういう私も不安だよ、CBT受けようかな。

一度読んだだけでは、沖縄のヒーラーたちのインパクトが強すぎてそちらに目がいってしまいます。それに筆者の書き方が軽妙で伏線も多いから、ついするすると先を急いでしまいました。見落としている部分もたくさんあるはず、時間を置いてまた読みなおそうと思います。


あー話が散漫になってきた。いつもの悪い癖です。それだけたくさんのことを考えさせられた本、ということでご理解ください。同じような心理療法の読み物としては、最相葉月氏の『セラピスト』もお勧め。こちらの方が重いし途中歴史の話がつまらないけれど、読み応えがすごい。文庫化されているので興味のある方は是非。


私が一番好きな考え方はバリントというハンガリー出身の精神分析家のものです。「何が人を癒すのか?」と問われた彼はひとこと、「人間関係」と答えたそうです。ひょえー、めっちゃクール。私の心がcatch fireしたのでした。

内容とは全然関係ないけど、沖縄に行きたくなる本です。友達に一人沖縄出身のやつがいますが、彼もこういう文化の中で育ってきたのかもしれないな。そんな彼と今日これから飲みます。どうにかして手から金粉や石油を出してくれないかな、そうしたら私の不安も一気に解消されるのにな…。

池内紀「カフカの生涯」

2018-03-24 20:21:13 | 


・・ログ・・・ウッ
・・・・更・・・更新・・あ、頭がッ・・・!!



そんなわけで久しぶりの更新となります。春ですね。
春といったらアレですよね、えーとなんだその...春的な何かですよね!!!!(年度末で疲れてます)


さて本日紹介するのは伝記です、池内紀による『カフカの生涯』。
先日プラハに行きました。そこでカフカミュージアムに行き、展示が印象的だったのです。あとスタッフのおばあさんも、こちらが日本人だとわかるやいないや「オハヨウコンニチハ、コンバンハアリガトウ、アケマシテオメデトゴザイマス!」と話しかけてきて(しかもこちらのリアクションをまったく省みず)、その姿が非常に印象的だったのです。
いかにもカフカの小説に出てきそうなおばあさんでした。そんなわけでチェコの偉大なる作家、フランツ・カフカの人生をたどってみたくなり、手に取ったのがこの1冊です。


こちらがカフカミュージアム、入口にある大きなKの文字がオシャレ。ちなみにミュージアムの前には立小便をしている成人男性の像が向かい合うように配置されており、そちらは全くオシャレではありません。なぜ作ろうと思ったのか。不条理を身をもって体験させるためでしょうか。

この本に話を戻します。
カフカの人生も大変興味深いのですが、この『カフカの生涯』は文章そのものが時に文学的で、とても面白い、いきいきしています。いわゆる「伝記」にありがちな事実の羅列、出来事の時系列だけでなく、随所に挿入して紹介される時代背景や当時の文化、生活に割り込んでくる戦争のエピソード、ユダヤ人を巡る複雑な状況。そういったことがきれいに整理されて描かれています。カフカについて、筆者独自の「推理」や「思索」も織り交ぜられていて、ある部分では「伝記」というより「小説」に近いものを感じる。さすが、白水Uブックスでカフカの翻訳をすべて担当している筆者。読み応えがあります。

この本から浮かび上がるカフカの人物像について。彼は物静かで、理知的ありながらも空想的な人物でした。就活で苦労した末、保険協会でせっせと働きながら、自分の命を削ってでも作家業に取り組んでいます。そして女性関係ではあれこれと揉め事が多かった。揉めるといっても浮気や不倫など、複数の女性と関係を持っていたわけではありません。むしろ一人の女性に対して非常に情熱的でした。そして奇妙とも思えるくらいに筆まめで、1日に2通も3通も手紙を送っていました、朝送って昼送って夕方送っていました。慣れるまで、相手はかなりビビったのではないでしょうか…。
では一体何に揉めていたのか?それは交際が進展して相手が結婚の話に触れると―いわば「現実」を突きつけてくると―カフカが一気に及び腰になってしまうことでした。「直接会って話をしたい」という相手の誘いを「ちょっと都合が...」と先延ばしにしたり、「今は行くつもりだけど行けないかもしれないから」「来なくても失望しないでほしい」と保険をかけるように伝えたり(さすが保険協会の職員!)。果ては結婚相手として自分がいかに向いていないか、たぐい稀なる文才で滾々と説得しています。交際相手の友達にも伝えるし、相手の親にも手紙を送ります―自分は結婚するのはやぶさかではないが云々、結婚相手としてはふさわしくないし他の男性の方がいいのではないか云々―何したいんだお前は、と言いたくなりますね、カフカのお茶目さが伝わってきます。

彼自身に気持ちの浮き沈みもあったのでしょう。文通の最初はとても控えめ、回りくどくて何が言いたいのかわからない「官僚的」な手紙ですが、2回、3回と回数を重ねていくうちに、途端に文章に熱がこもっていきます、頻度も増えます。そしてその内容はかなり浮足立っているようにも感じられる。でも実際に結婚の話になると、熱が速やかに冷めていく。そういったことが、一種の病理なんじゃないか?と思えるくらいに、何人もの女性との間で繰り広げられます。それはなぜなのか?
結婚することで作家業に打ち込めなくなるのも厭だったのでしょうが(かなり無理して時間を捻出していたので)、女性と結婚することに伴う「現実性」が恐ろしかったのではないか、とも思います。「自分はこうやって生きていかなきゃならない」「この現実を受け入れていくしかない」といった現実性、限界性が。だからこそ彼の小説はリアリズムの手法を取らなかった、現実離れしたようなことが描かれているのかもしれません。ちなみに小説のなかでも女性と懇ろになりそうなシーンも描かれますが、結局ちゃんと結びつくことはないのです。キスしそうでやめる、いい感じのところで邪魔が入る、そういった描写もスリリングで面白いですよね。


不条理文学と言われる彼の作品ですが、実生活が小説のベースとなっていた部分もあると紹介されています。短編「バケツの騎士」では、石炭を入れるバケツにまたがって空を飛んでいく、荒唐無稽な展開です。しかし書き出しの部分、石炭が切れて部屋がめちゃくちゃ寒い、というのは第1次世界大戦後の彼の暮らしぶりをありのままに描いています。「断食芸人」でも、カフカが口頭結核になり食事がほとんど喉を通らなくなったことが影響していたのでしょう、どうしても物が食えない辛さが語られます。

彼の作品は、きっと多くの作家に影響を与えたのだと思います。「カフカの最大の特徴は、センテンスが変わると次に何が起こるか予想がつかないにところにある」と小説家の保坂和志は述べていますし、保坂は『カフカ式練習帳』といった短編集も出しています。そして村上春樹は『海辺のカフカ』という長編を書いていますし、『騎士団長殺し』でも「フランツ・カフカは坂道を愛していた」という逸話が語られます。長嶋有(ブルボン小林)も、何かのエッセーでカフカの『アメリカ』について触れていました。やっぱりタイトルは改定後の『失踪者』よりも『アメリカ』の方がしっくりくる、と。えーと、あとは誰かいるかな。まぁ多分いるでしょう、いるよ、私、見たんだよ...この目で...。


この伝記を読んで思うのは、カフカが実に多くの人から愛されていたということ。両親(特に父親)とは価値観が合わなくて苦悶したようですが、妹たちからは強く愛されていました(妹たちは、のちにアウシュヴィッツ収容所で亡くなります)。そしてカフカの遺稿を託された、大学依頼の友人マックス・ブロート。彼がいなければカフカの多くの作品は世に出なかったはず。あるいは小学校以来の友人であるフーゴ・ベルクマン。彼の影響で、カフカはフローベールなど多くの作家に親しみました。
そして多くの女性―カフカの送った大量の手紙を大切に保管していた恋人たち。初めに婚約した女性であるフェリーツェ、そしてユーリエ、ミレナ、ドーラ。彼女たちが手紙を取っていたから、カフカの姿が今でもこうして描かれ、伝記が非常に魅力に満ちたものになったわけです。これだけの手紙が保管されていたこと。彼がどれほど愛されていたかを物語っているのではないかと思います。
カフカ本人がどこまで自覚していたかはわかりませんが、冷徹で不条理に満ちた彼の作品の背後には、数多くの愛があったのだと私は思います。そう思うと、カフカを違った視点から読み返したくなりますよね。一番好きなのは『審判』ですが、現在は一度挫折した『城』を読んでいます。




というわけで城の画像を。プラハの城は、それはもうたいへん美しいものでした。カフカの『城』とは大違いでした。だってちゃんとたどり着けるもの。入ろうとして「だめだ、許可がないとだめだ」とか言われないもの。