砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

代行作品その2 住野よる『きみの膵臓をたべたい』

2019-08-20 22:15:37 | 日本の小説
はあ疲れた。数日前に漱石の『こころ』で代行作品をちゃちゃっと書いたんだけど、もっとJKが読むような作品でって言われたので(だったら何でもいいって言うなよな...とぶつぶつ文句を垂れる私)人の膵臓を食べる話を読み、書きました。これは時間かかった、半分くらいしか読んでないとはいえ時間がかかった。金が欲しい。まぁそもそも要求してないからいいんだけどね。よい子は真似するなよ!!
そんなわけで感想文を書いたのです。

   『君の膵臓をたべたい』を読んで
      2年A組 グレート 義太夫
 正直に言ってむかついた。この本を読んでいてむかついてしまった。死ぬことは確かに怖い。私だってとても怖い、夜中に眠れなくなることがあるくらいに。あれは確か私が5歳のころだったと思う。夜中に死ぬことが怖くなって、寝ている母親を起こして泣きついた記憶。きっと古代の人も、死ぬことが怖くて眠れない夜があっただろう。それで夜空を見上げて星座なんて生み出したりしたのだろう。だから物語を生み出していったのだと思う。
 でも今はそんなことなんてどうでもいい。この小説は、死ぬことがテーマになっているものの、高校生活の鬱屈を「死」を理由に、ああでもないこうでもないとこねくりまわしているだけの話に過ぎないように感じた。そういったら作者に失礼に当たるだろうか、でも読んでいてそう思ったし、私は自分の気持ちに嘘を吐けない性分なので、率直にそう綴ることにする。
 いくら主人公の「僕」が、彼女の死につながる重病を記した手記を読んだとは言え、それ以降に彼女が途端にあけっぴろげな態度に出たり、今まで人と積極的につながりを持ってこなかった「僕」が(この時点で「僕」は相当変わり者なのだろう)、人に急に親密になったりするのは都合がよすぎるように思った。「死」という苦難や痛み、恐怖に向き合う場合、誰しもそうなるわけではない。いや大半が、自分の死に十分に向き合えないのではないか。それを「僕」にだけ率直に打ち明ける彼女の存在が、どうも信じがたいのだ。こんなに強く死と正面切って向き合える人が、高校生でいるだろうか。それとも「死」は人をそれだけ成長させる経験になるのだろうか。私にはそう思えなかった。
 死を間近に控えている彼女と、博多と思しき都市の夜で「もし本当に私が死ぬのが、本当は怖くてたまらないって言ったらどうする?」という問いを投げかけたことは多少リアリティーがあったかもしれない(しかし、そもそも小説である時点でリアリティーを求めるのは野暮かもしれないが)。でもそれからの展開は、クライマックスに向けて読者の涙を誘うためのご都合主義のように読めてしまった。だからむかついてしまった。それ以外にむかついたことの十分な理由はない。それに、人の感情を引き起こすのは明確な理由を必要としないと思う。読んでいて、私はむかついた。他に何が言えるだろうか。
 現代社会は「死」を消費する。ドラマでも映画でも、もちろんこのような小説でも。それは何故だろう。おそらく、身近な場所での親密な人の死がほとんどなくなったためだ。昔のことはよくわからないけれど、この小説で何度も語られているように医学は進歩してきたのだろう。だから、怪我や病気で死ぬ人は減ってきているはずだ。それに最近は家で死ぬ人が減ってきている、とニュースで見たことがある。死ぬ人はどこへ行ったのか。きっと病院や老人ホームで死んでいるのだろう。だからこそ、昔はそこら中に溢れていた「死」は、もはや私たちから十分に身近な存在ではなくなった。「死」にリアリティーがなくなった。だからこそ、時々自分たちがやがて「死」を迎えることを思い出させる必要がある。それも、程よい程度で。
 それに「死」はわかりやすい悲劇だ。誰も『カラマーゾフの兄弟』の下男スメルジャコフのように思い秘密を抱えた、あるいは『百年の孤独』のアウレリャノ・ブエンディア大佐のような壮絶な死を迎える必要はない。程よく悲しく、死を思い起こさせる刺激があればいい。それで私たちは自分がいつか死ぬことに思いを馳せ、悲しい気持ちになれる。いや、十分に悲しい気持ちになった「気がする」。そういった錯覚を覚え、自分が生きていることに感謝し、命を大切にしようと思える。それで十分だ、難しいことは考えたくない。誰も彼もが安っぽく死んでいた時代は過ぎ去ったし、かと言って人ひとりの死を重く受け止めすぎるのも、何か違うようにも思う。SNSで人はたくさんつながっていて、その存在や死は可視化されている。だからこそ、自分と言うかけがえのない存在が死ぬことも、十分に重く考えることはできなくなってきている。
 今の時代、誰も真剣に悲しんだり、悲嘆にくじけたりしたくないのだと思う。だってそれはとても辛いから。世界にとってどうでもいい存在である自分が、いつか死ぬかもしれない。その苦しさに正面から、真正直に耐えるのはとても難しいから。だからこそ、この小説を読んで、ほどよく「死」を消費しようとする姿勢に腹が立ってしまったのかもしれない。私はこんな風に描かれるような死を迎えたくない。自分があとどのくらいで死ぬかはわからないけど、そんな風に思った。


というわけで完了です。だいたい4ページ半です。
私にTwitterで代行を依頼するのはそこまで頭がよい行為とは言えないけれど、草舟のような私は断り切れずに書いてしまった。頼んだあなたも、そして断れなかった私も罪深いのでしょう。作者に失礼だけど、それはしょうがないかな。

代行作品 夏目漱石『こころ』

2019-08-16 23:52:47 | 日本の小説
代行で頼まれたんで書きました。ちゃちゃっと20分くらいで。
よい子はまねするなよ!2日後くらいには消します。以下本文。



夏目漱石『こころ』を読んで
2年A組 毒蝮 三太夫
 精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と言った先生の言葉が、今の私たちにもきっと突き刺さるのではないだろうか。この本を読んでいて私はそう思った。
 夏目漱石の代表作でもある『こころ』は、これまで幾度となく読書感想文の本として選ばれてきたのだろう。この小説で、人間の自己中心的なありさまを描く漱石の描写はすさまじいものがある。それは初期の作品である『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』には見られなかった面である。
後期作品になってから、人間は一体どうすれば幸せになれるのだろうか、といったことを考え始めた漱石は、他の作品『それから』や『行人』でもそのことをテーマとして扱っているが、結局のところ自分の幸せを人間関係のなかでどこまで追求していくか―家族のしがらみを捨てて自分の友人から恋人を奪ったり、あるいは『こころ』の先生のように、自分が心から尊敬する友人を侮蔑し、出し抜き、つついには間接的に友人を自殺に追いやってしまったり―そういった行為を通じて人は一体幸せになれるのだろうか、ということを考え抜いたのだろう。
おそらくその答え、自分の利益を追求して人が幸せになれるか、ということは、半分は正解であり半分は間違いだと私は思う。
私は「自分の好きなことをしろ」と言って親に育てられてきた。しかしいつまでも自分の「好き」を貫き通すのは難しい。世の中にはルールがあり、人間関係があり、他人がいる。もちろん人から好きだけを貫き通されたら、自分だっていやな思いをするだろう。だからと言って人の言うことに黙って従っていたら、いつしか自分が何をやりたいのか、何を大切に思うかが見失われてしまうと思う。大事なのはそれを見失わないことだろう。
我慢が求められる場合もある。自分の思いを主張しなくてはならない時もある。そこで大切なのは「痛み」に敏感であることではないだろうか。自分の好きなことを相手が了承してくれるにこしたことはないが、そうでない場合だって少なからずあるはずだし、自分が我慢したときは当然「痛み」が生じる。相手が我慢したときも、きっとその人に「痛み」が生じているのだと思う。そういった痛みに対して想像力を働かせることは、今後大人になっていく私にとって必要なことだと思う。
先生は友人であるKに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放った。きっとこの言葉はKに強い痛みを引き起こしたのだろう。これは先生に想像力がなかったのではなく、むしろ十分にあったからこそ、この一言が相手を深く傷つけるであろうことを理解しての発言だったのだろう。しかしお嬢さんをめぐって、強烈な嫉妬や欺瞞の思いが渦巻いている先生は、衝動的にその言葉を放った。それがどれだけ強くKを傷つけたか理解していたからこそ、強い罪悪感があとになって生じてきたのだと思う。とても恐ろしいことだ。自分が信頼していた人から裏切られたその痛みをわかっているのに、自分が人に対して同じようなことをしてしまうのは。
まだそこまで長く生きているわけではないが、生きていて取り返しのつかないことはそんなにないと思う。生きている限り、取り返しがつくことは多いと思う。
でも人の「痛み」への想像力の欠如が、取り返しのつかない過ちを引き起こすことは十分ありえる。先生が言い放った言葉、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一言、それを時々思い出しては、自分は本当に人の痛みに想像力を働かせているだろうか、あるいは自分が我慢ばかりしていないだろうか、考える必要があるのではないか。この本を読みながら、そんなことを考えた。


以上本文終わり。
これ読む人が読んだら絶対ばれますよね。普通に漱石の後期作品のくくりとかエゴイズムをめぐる思索とか、何作も繰り返し読まないとわかんないし。なお私は『こころ』は人生で4回くらい読んでます。そんな話はまあいいか。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

2018-08-15 01:20:59 | 日本の小説


実家に帰っていてやることがない。
もちろん、まったくないと言えば嘘になる。
木魚を叩き、ジョジョとハンター×ハンターを読み返した。
でもそれも終わってしまって、この時間どうしても寝られない。
今は時間を持て余していてブログを書いている。
やれやれ、というわけで今回は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を。


この作品は1988年に出版された、『羊をめぐる冒険』(以下『羊』)の続編にあたる小説だ。とはいえこの作品だけ読んでも十分楽しめるつくりになっている。前作との繋がりが強調されているのは序盤までで、そこからは前作との関連性は薄くなり、独自の物語が展開されていく。『羊』を読んでいなくてもいいかも知れない。

今回帰省する際、新幹線で何の本を読むか迷って結局これを手に取った。この作品を読み返すのは今回で3回目だ。彼の作品を読み返したのは本作と、『スプートニクの恋人』『レキシントンの幽霊』『騎士団長殺し』くらいで、正直言ってものすごいファンというほどではない。でも折に触れて読み返したくなるのは、私にとってはこの『ダンス・ダンス・ダンス』だったりする。


『色彩を持たない多崎つくる』とか『女のいない男たち』などの最近の作品に比べたら、無駄と感じられる部分が目立つ。彼特有のもってまわった比喩も多いし、音楽に関する独りよがりな話もずいぶん出てくる。ゴシック体のくどい演出も繰り返される。それに食傷気味になる人もきっといるだろう。一言で言えばかなり「混沌としている」のだ。でも混沌としているのがいい。あの時代をうまく描いているというか、本作で描かれているような情報過多、高度資本主義社会、それにうんざりする気持ち。そういったものを反映しているようにも思う。もちろん今読んでも面白いのだけれど。


ざっくりしたストーリーを言うと、前作『羊』のなかで色々なものを失った「僕」は、夢や羊男の導きのもと、なんとか喪失から立ち直ろうとする。そして奇妙な人物たち―「眼鏡の似合う女の子」、「ユキ」、「五反田君」―と関わっていくなかで、失ったものが何かを見定め、取り戻そうとする。うまく言えないけどそんな感じの話だ。文句があるならとりあえず読んで欲しい。

この作品のキーワードは「繋がっている」だ。
作品では何度も繰り返されている。ふとしたきっかけで前作で行方の分からなくなった女性「キキ」の手がかりを、高校の同級生「五反田君」が出ている映画で得たり、偶然知り合った少女「ユキ」の親に招待されたハワイ旅行でキキの姿を目撃したり。とにかく色々な出来事が少しずつ繋がりを見せ、そこにある種の手ごたえが生じていく。

本作を読んでいて思うのは、私たちの人生において「繋がっている」と思う出来事はどれくらいあるのだろう?ということ。
些細なことならたくさんあるはずだ。それを偶然とせせら笑う人もいるだろうし、実際偶然に過ぎないのかもしれない。でもきっと、どんな人にも「繋がっている」と感じる瞬間があるはずだ。個人的な話では、広い東京でたまたま高校の友達に遭遇したり、好きな作家やミュージシャンとばったり会って話したり、自分が考えていたのと同じようなことが小説に書かれていたり。そういった瞬間に「繋がっている」と思う。それにどんな意味を見出すかは人によって異なるだろうけど。

「繋がっている」
大切なのはそれに自覚的かどうかということなのではないだろうか。「単なる偶然」と冷笑するのは簡単だ。そういう人は確率論的な世界で生きていればよろしい。別に馬鹿にしているのではない。世の中に右利きの人と左利きの人がいるのと同じことだ。
私が言いたいのは、自分が「繋がっている」と思うことがどんなことなのか、それが自分にどういった意味を持つのか、考えてみるのは面白いだろうな、ということ。そうやって生きている方が、自分で意味を見出そうとするのは、徒労に終わるかもしれないけど面白いと思いませんか、好奇心を掻き立てませんか。どうせ死ぬのだから、何か見出そうとするのは面白いじゃない。きっとみんな、どこかでそういう願望を持っているんじゃないか。だからこの小説も300万部近く売り上げたんじゃないだろうか、そういった部分を刺激してくるからね。


まだ3回目は読み終わっていないが、帰りの新幹線で読み終わるだろう。
少し悲しくなったのは、昔読んだときに比べたらあまり楽しめなかったということ。私が年をとったからだろうか。虚無感あふれる本作だが、時にまぶしいくらいの「無垢さ」や「思春期のこころ」が描かれている。そういった部分に少しずつ入れ込めなくなってきた。特に「ユキ」をめぐるやり取り。でも読み返すことで、自分が今何を求めているのか、何と繋がっているのか、そういったことに意識的になれる作品だと思う。きっとまた読み返すのだろう。そのときどんな気づきがあるか、楽しみでもある。


くっさい話になってしまって申し訳ない。でもこれが私がこの作品を語るときに言えることだと思う。村上春樹は「ウワー村上春樹読んでるの?ウワー」と拒絶反応を示す人もいれば、「へーハルキ好きなんだ。何好き?何の作品のどの部分好き?どこのどういったところが好き?ドコドコドコドコドコ」と熱心な方もいる。こんなに好き嫌いが分かれる作家も、そんなにいないのかもしれない。森鴎外とかでそんな評判聞いたことないもの。彼が読み手をある程度選んでるだけかも知れないけど。
あ、でも太宰治や三島由紀夫は好き嫌いがずいぶん分かれる気がする。そう考えると「自意識」をどこまで描写するかが、好き嫌いをはっきりさせる要素の一つと考えてもいいのだろうか。村上春樹も彼らも、かなり自意識が強いタイプだと思うし。そういう私も自意識が強いタイプであることは否めない、やれやれである。

川上弘美「真鶴」

2017-08-10 22:55:46 | 日本の小説

久しぶりにいわゆる「聖地巡礼」をした記念に、今日は川上弘美の『真鶴』を。
これまで聖地巡礼をしたのは、タブッキの『レクイエム』でリスボンを、漱石の『こころ』で雑司ヶ谷、小沢健二の曲で尾道、キリンジの曲で江古田のプアハウス、小津安二郎の映画で鎌倉を訪ねたくらいである。あれ、結構行ってるな。




実際の真鶴は美しい町であった。

『真鶴』は不思議な作品、そして川上弘美のなかでもっとも具合の悪い作品であると思う。文章自体は断片的でありながらも、そのリズムは流れるように整っている。具合は悪いが、個人的には彼女の作品では一番好きだ。『神様』『古道具屋 中野商店』のふわっとした日常と非日常のあいだも、『ニシノユキヒコの恋と冒険』『センセイの鞄』のような恋愛の話も良いけれど、彼女の本当の魅力は心の奥深く、どろどろとした部分を描くのがとても上手なことだと思う。

村上春樹はそういった部分を、人間の心の揺れ動きを比喩や突飛なストーリー展開で描く。井戸に入ったりギリシャに行ったりハワイで女を追いかけたり、やれやれ。しかし川上弘美は、それを比較的「そのまま」の形で描いている。
これはもちろん、並大抵のことではない。そしてそれが説得力を持っているから不思議なのだ。しかし説得力を持っているということは、そのまま情感が伝わってくることになるから、読み手はとうぜん苦しくなる。とりあえず心に余裕があるときにでも読んでみてもらえればと思うのだけど、以下に印象深い箇所をいくつか紹介したい。

まず書き出しがすごい。

「歩いていると、ついてくるものがあった」

なんじゃこりゃ。読者は「えーと、一体なにが?」という気持ちになる。しかしその後もついてくるものの正体は判然としない。男なのか女なのか、大人なのか子どもなのか、そもそも人間なのかわからないまま、それはどこかに消えていく。このあたりから「なにか得体のしれないことが起こっておる!」という気持ちにさせられる。

続いて主人公の京(けい)が初めて真鶴に行ったあと、母からどうだった?と聞かれる場面。
「つよい場所だった」京は答える。真鶴は昔ながらの森林、そしてずっと昔から変わらぬ海がある町だ。人間のこころの深い部分に働きかけるにはうってつけの場所であるし、そういう意味では彼女が「つよい」と形容したのも頷ける。
しかし現実の真鶴は作品で描かれているほど、不穏な場所ではなかった(当たり前か)。長いこといたらまた印象が変わるのかもしれない。春先や秋の終わり、あるいは冬に海が時化になっている時に行くと違う顔を見せるのだろう。もちろん、作品の中では真鶴に行ったときの京の精神状態が大きく影響していくのもあるはずだ。

おそらく京の精神状態が一番悪いのは、7月の真鶴に出かける場面だろう。夏に開かれる貴船神社の祭りで「ついてくるもの」と一緒にいながら、京は何が本当で何が幻なのかどんどんわからなっていく。いわゆる「幻覚妄想状態」みたいになっている。船が燃えたのでは。人がたくさん死んだのでは。京はそれを懸念して不安になるが、ついてくる女には「あなたがそう願ったのよ」と言われる。狂気に拍車がかかる場面だ。読んでいて、ずっしりとした辛さがやってくる。


貴船神社。ふかわりょうがいたら「おまえんちの階段、急じゃね」と言うくらいの勾配。


遠くに見えるのが「三ツ石」と呼ばれる、一種のご神体である。

物語のなかでは、失踪した夫や不倫関係の男が中心となる「女としての京」の部分が語られる一方で、遠ざかろうとする思春期の娘との関係の揺れ動き、すなわち「母親としての京」の部分も描かれている。そう考えるとけっこう複雑な構造の話だ。そして複雑な関係のなかで、主人公は何度も傷つき揺蕩っていく。それを「母子の分離」や「不在の対象への愛と憎しみ」といった心理学用語で片づけるのは簡単だけれど、それではこの物語の本当の魅力は伝わらないだろう。読んでいる途中、本当に苦しくなるぶん、そしてその苦しみがなにによるものなのか「わけがわからない」ぶん、終わりに向けて物語が進んでいく、少しずつ整理されてクリアになっていく過程が、なんというか救いのない暗闇の世界に光が差してきた、とでもいうんだろうか。「安心できる世界」にようやくたどり着いた気分になる。
オタマジャクシの話も印象的である。大半は死んだけど、生き残ってちゃんとカエルとなっていったものもある。人間のこころも何か、我慢したり傷ついたり犠牲になっていく部分はあるけれど、それでも生き残って成長していく部分もあるのだろう、そんなことを考えさせるエピソードだ。

それから夫の浮気が徐々に明るみになっていくことについて。空想のなかだけれど逆上して刺したり首を絞めたり、しかしまあこれだけ人を憎めるのがすごいな、というのが率直な感想だ。しかしそれだけ憎めるのは、本当に夫のことを必要としていたからなのだろう。夫の礼が浮気をしていたとはいえ、結局京だって妻子ある男性と関係を持っている。同じようなことをしているのだ。だのに、不倫相手の青茲が自分から離れようとすると「いや」「さみしい」と言って縋り付く。全然知らない男と寝るシーンもある。そこに罪悪感はほとんどうかがえない、自分のなまの感情でいっぱいいっぱい、それどころではないのだろう。そういったシーンも、読んでいて苦しい。

どこまでが「現実」でどこからが「非現実」なのか。こういった妄想的な内容は、『蛇を踏む』でも『なめらかで暑くて甘苦しくて』でもあるけど、一番「わけがわからない」、そして一番「ぞくぞくする」のは、きっとこの『真鶴』だ。三浦雅士の解説も良い。
そして「ついてくるもの」とは一体何だったのか、最後まではっきりしない。けれど、それは主人公とえらく対照的な存在である。京は娘の些細な言動にも揺れ動き、傷つく。男が離れていくことにも苦しむ。けれど「ついてくるもの」の代表である白い女は、平気で自分の子を、しかもまだ幼子を海に放り投げたりしている。ただの妄想のなかの迫害対象といえばそうなのかもしれないけれど、主人公のなかにある一種の狂気というか、破壊的な部分なのではないか、と思うのである。だってあまりにも京のことをよく知っているのだから。中盤では娘よりも近い存在になっている。


なんだか感想が断片的になってしまった。まあでもそういう本だから、ということでどうかご了承いただきたい。まだ2回しか読んだことがないから消化しきれていない部分が多いのだろう、時間を置いてまた読み返したい。たぶん夏休みの読書感想文には向かない一冊だと思うが、もしこの記事を読んで気になったら手に取ってみて欲しい。



今回の巡礼のハイライト、のびやかに寝る犬が羨ましい。

この作品が真鶴の観光に影響しているかどうかはわからない。そもそもいいイメージを与えているのかもわからない。後輩には「これを読んで真鶴に行こうとは思わないです」と笑って言われたけれど、個人的には行ってよかったと思っている。坂の多い、海と森の綺麗な不思議な街だった。レンタサイクルは1日1000円だし、そしてそんなに見どころのある町でもないので(失礼)1日もあれば回れるだろう。興味のあるかたは是非、本を片手に。ついてくるものがないことを願う。

夏目漱石「行人」

2017-06-30 13:34:28 | 日本の小説


ネタが切れそうなのと低気圧が来たのとで更新が遅れてしまった。
もうじき梅雨も明けそうだ。この時期になると一年の半分が過ぎたことになる。そうしたことに漠然とした焦りと不安を感じるのは私だけだろうか。もちろん焦ったり不安になったりしても、どうにかなることでもないのだけれども。


さて今日取り上げるのは旧千円札で笑ったり怒ったり忙しかった漱石先生である。きっと誰もが高校3年生の現代文で『こころ』を読み、「なぜKが自殺したのか」とテストで書かされたことだろう。
なぜもっと早く死ななかったのだろう。そう記していたKの気持ちが、20年も生きていない高校生にわかるかって話。個人的には野口英世のような性格が劣悪な人間より、漱石先生がずっと千円札であってほしかった。先生も結構大変な人だったらしいけれど。

漱石の経歴はウィキに乗っているからごく簡単に。東京、牛込生まれ(現在の早稲田の近く。生誕碑の隣には現在やよい軒がある)。東大英文科を出て、教師になる。ロンドンに留学しビスケットばかり食べる。精神的に具合が悪くなる。友人の高浜虚子に進められて小説を書き始め、『吾輩は猫である』でデビューする。その後も優れた作品を書き続けるが胃病に苦しむ。子どもをジャイアントスイングする。49歳のときに胃潰瘍で死去。亡くなったのが1916年だから、昨年が没後100周年だったわけだ。


今回紹介するのは彼の後期三部作の一つである『行人』である。これは「こうじん」と読む。そのままの意味だと「道を行く人」だ。同じ漢字で「修行をする人」という宗教的な意味もある(もっとも、その場合だと発音が漢音ではなく呉音になるため「ぎょうにん」と読む)。
自分は数ある漱石の作品のなかで、たぶんこの作品が一番好きだと思う。何が好きかって読んでいてすごく苦しくなるのだ。そして人と人が―男女の間柄もそうだし親しい友人、親子やきょうだいであっても―「わかりあえない」ということがこれでもかと描かれている。でも読むたびに新しい発見がある。再読に耐えるというのが、やはりいい文学作品の条件なんじゃないだろうか。そういった点では漱石の作品は再読に耐えるものが多い。
本作は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四部構成となっている。1つ1つの章は関連があるようでもあり、物語の中に入れ子構造のようにいくつかのエピソードが散りばめられているため、どこか断片的にも感じられる。『こころ』や『道草』のように、一貫して何かの主題を描いているようには見えないが、かといってちぐはぐしているわけでもない。不思議な小説だ。ただ結構長い話なので、紹介するにあたって好きな場面を抜粋してお伝えしよう。

第一章では友人の三沢が胃を患い、旅先の大阪で入院する。ややあって彼は無事に快復し、夜行列車で東京に帰ろうとする。その直前に、彼は自分のせいで同じ病院に入院し、助かるかどうかわからない胃病の女のことを話す。

「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一癒るとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟だが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌ようと云った。僕はその淋しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」

彼はそう語る。さっぱりした言い方にも聞こえるが、「夢に見そうだ」というくらいだから、よほど三沢のこころに引っかかっているのかもしれない。自分がしでかしたことで人が死ぬというのはどんな心持ちなのだろう(とはいえ実際三沢がしたのは、その女に無理に酒を勧めたことくらいなのだけど)。それはきっと恐ろしいようにも思えるし、自分のせいではないと言い張って逃げ出したくなるのかもしれない。しかしここでの三沢の態度は、どこか女との距離や諦めがある。悲しいとか申し訳ないとか、そういった感情とは隔たりがあるように感じるのだ。だからと言って彼が何かしようとしても、もはやできることはないのだが。


さてその後、大阪に出てきた兄やら嫂(あによめ)やらとひと悶着あるのだが、この兄と嫂の関係が物語の中核となっていく。兄はかなり性格に問題を抱えた人物だ。神経質で気分屋で不機嫌な空気を漂わせる、いかにも気難しい学者といったふうである。しかし内面はとても繊細で傷つきやすく脆い部分があることが、物語が進むにつれて語られていく。一方で嫂には、不愛想とも冷淡ともとれる平静さが常に漂っている、ミステリアスな人物として描かれる。そして彼女の言動が夫である兄を苛立たせ、母親をはらはらさせ、主人公の二郎に疑問を抱かせる。しかし和歌山の宿の場面で彼女もまた意外な一面を見せる。とにかくこの二人の人物描写が非常に立体的で、それぞれ奥に抱えているものが徐々に明るみに出て行く展開が面白い。
小説だから人物の性格、心境、考えなどの描き分けはやって当たり前だと思う向きもあるだろう。しかしながら漱石の描く人物たちは、そりゃもう生半可じゃないくらい「ちゃんとマジに悩んでいる」のだ。この懊悩の描き方が、月並みな表現だが尋常ではない。その悩みっぷりがすごすぎて、読んでいるこちらまで苦しくなってくる。人が抱えている荷物の一部を譲り渡されたような気持ちになる。

人の苦悩を直接的に、あるいは間接的に聞くという話は漱石の後期の作品によくみられる。代表作『こころ』はもちろんのこと『彼岸過迄』でもふとした好奇心がきっかけに、最後は友人の大きな秘密を知る話だ。彼の作品を読んでいると思うのは、現実の世界でこれほど苦悩している人間がどれほどいるだろうか?ということだ。もちろん我々が生きている時代とは隔たりがあるため、男女の関係などは当時と悩みの質も変わっているだろう。あるいは小説である以上、読者の興味を惹くために謎が謎を呼ぶようドラマティックに書かれている部分もあるかもしれない。だけど漱石の小説の登場人物が抱えている悩みは、「自分の利益のため他人を裏切ってしまった苦悩」「どこまでいっても自分は幸せになれない」など、得てして現代に生きる私たちにも通じる、普遍的な部分があるようにも思う。そのせいか、読んでいるとある考えに襲われる。自分は、あるいは自分の周囲の人間はどうだろうか、こんな風に真剣に悩むことがどのくらいあるだろうか、と。
そしてこれほどまでに一生懸命悩んでいる人物を前にして、自分がいかに軽薄な人間であるかということを思い知らされる(知らず知らずに主人公である二郎に感情移入してしまうのだ)。背筋がひやりとすることもある。自分は彼らほど真摯に、悩みながら生きているだろうか。目先の事ばかりにとらわれていやしないだろうか。
きわめて辛そうで苦しそうだけれども、「ちゃんとマジに悩んでいる」登場人物たちが、どこかでうらやましくも感じるのだ。


漱石の文章は風景描写も美しい。特に二章の和歌の浦、それから四章の実家の描写。周囲のさりげない変化を、季節の移り変わりとともにうまく描き出している。漱石というと現代知識人の苦悩であったり、隠されていた秘密の告白であったり、そういった内面的な部分にフォーカスされることが多い。しかし何気ない風景描写も、大げさすぎずかつ美しいのである。このあたりの「風景を見る眼」「風景を描く言葉」は、漱石が漢詩や俳句を嗜んでいたことも影響しているのかもしれない。きっと人が見る以上のものが見え、人が考える以上のことを考えた人なのだと思う。