砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

夏目漱石「行人」

2017-06-30 13:34:28 | 日本の小説


ネタが切れそうなのと低気圧が来たのとで更新が遅れてしまった。
もうじき梅雨も明けそうだ。この時期になると一年の半分が過ぎたことになる。そうしたことに漠然とした焦りと不安を感じるのは私だけだろうか。もちろん焦ったり不安になったりしても、どうにかなることでもないのだけれども。


さて今日取り上げるのは旧千円札で笑ったり怒ったり忙しかった漱石先生である。きっと誰もが高校3年生の現代文で『こころ』を読み、「なぜKが自殺したのか」とテストで書かされたことだろう。
なぜもっと早く死ななかったのだろう。そう記していたKの気持ちが、20年も生きていない高校生にわかるかって話。個人的には野口英世のような性格が劣悪な人間より、漱石先生がずっと千円札であってほしかった。先生も結構大変な人だったらしいけれど。

漱石の経歴はウィキに乗っているからごく簡単に。東京、牛込生まれ(現在の早稲田の近く。生誕碑の隣には現在やよい軒がある)。東大英文科を出て、教師になる。ロンドンに留学しビスケットばかり食べる。精神的に具合が悪くなる。友人の高浜虚子に進められて小説を書き始め、『吾輩は猫である』でデビューする。その後も優れた作品を書き続けるが胃病に苦しむ。子どもをジャイアントスイングする。49歳のときに胃潰瘍で死去。亡くなったのが1916年だから、昨年が没後100周年だったわけだ。


今回紹介するのは彼の後期三部作の一つである『行人』である。これは「こうじん」と読む。そのままの意味だと「道を行く人」だ。同じ漢字で「修行をする人」という宗教的な意味もある(もっとも、その場合だと発音が漢音ではなく呉音になるため「ぎょうにん」と読む)。
自分は数ある漱石の作品のなかで、たぶんこの作品が一番好きだと思う。何が好きかって読んでいてすごく苦しくなるのだ。そして人と人が―男女の間柄もそうだし親しい友人、親子やきょうだいであっても―「わかりあえない」ということがこれでもかと描かれている。でも読むたびに新しい発見がある。再読に耐えるというのが、やはりいい文学作品の条件なんじゃないだろうか。そういった点では漱石の作品は再読に耐えるものが多い。
本作は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四部構成となっている。1つ1つの章は関連があるようでもあり、物語の中に入れ子構造のようにいくつかのエピソードが散りばめられているため、どこか断片的にも感じられる。『こころ』や『道草』のように、一貫して何かの主題を描いているようには見えないが、かといってちぐはぐしているわけでもない。不思議な小説だ。ただ結構長い話なので、紹介するにあたって好きな場面を抜粋してお伝えしよう。

第一章では友人の三沢が胃を患い、旅先の大阪で入院する。ややあって彼は無事に快復し、夜行列車で東京に帰ろうとする。その直前に、彼は自分のせいで同じ病院に入院し、助かるかどうかわからない胃病の女のことを話す。

「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一癒るとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟だが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌ようと云った。僕はその淋しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」

彼はそう語る。さっぱりした言い方にも聞こえるが、「夢に見そうだ」というくらいだから、よほど三沢のこころに引っかかっているのかもしれない。自分がしでかしたことで人が死ぬというのはどんな心持ちなのだろう(とはいえ実際三沢がしたのは、その女に無理に酒を勧めたことくらいなのだけど)。それはきっと恐ろしいようにも思えるし、自分のせいではないと言い張って逃げ出したくなるのかもしれない。しかしここでの三沢の態度は、どこか女との距離や諦めがある。悲しいとか申し訳ないとか、そういった感情とは隔たりがあるように感じるのだ。だからと言って彼が何かしようとしても、もはやできることはないのだが。


さてその後、大阪に出てきた兄やら嫂(あによめ)やらとひと悶着あるのだが、この兄と嫂の関係が物語の中核となっていく。兄はかなり性格に問題を抱えた人物だ。神経質で気分屋で不機嫌な空気を漂わせる、いかにも気難しい学者といったふうである。しかし内面はとても繊細で傷つきやすく脆い部分があることが、物語が進むにつれて語られていく。一方で嫂には、不愛想とも冷淡ともとれる平静さが常に漂っている、ミステリアスな人物として描かれる。そして彼女の言動が夫である兄を苛立たせ、母親をはらはらさせ、主人公の二郎に疑問を抱かせる。しかし和歌山の宿の場面で彼女もまた意外な一面を見せる。とにかくこの二人の人物描写が非常に立体的で、それぞれ奥に抱えているものが徐々に明るみに出て行く展開が面白い。
小説だから人物の性格、心境、考えなどの描き分けはやって当たり前だと思う向きもあるだろう。しかしながら漱石の描く人物たちは、そりゃもう生半可じゃないくらい「ちゃんとマジに悩んでいる」のだ。この懊悩の描き方が、月並みな表現だが尋常ではない。その悩みっぷりがすごすぎて、読んでいるこちらまで苦しくなってくる。人が抱えている荷物の一部を譲り渡されたような気持ちになる。

人の苦悩を直接的に、あるいは間接的に聞くという話は漱石の後期の作品によくみられる。代表作『こころ』はもちろんのこと『彼岸過迄』でもふとした好奇心がきっかけに、最後は友人の大きな秘密を知る話だ。彼の作品を読んでいると思うのは、現実の世界でこれほど苦悩している人間がどれほどいるだろうか?ということだ。もちろん我々が生きている時代とは隔たりがあるため、男女の関係などは当時と悩みの質も変わっているだろう。あるいは小説である以上、読者の興味を惹くために謎が謎を呼ぶようドラマティックに書かれている部分もあるかもしれない。だけど漱石の小説の登場人物が抱えている悩みは、「自分の利益のため他人を裏切ってしまった苦悩」「どこまでいっても自分は幸せになれない」など、得てして現代に生きる私たちにも通じる、普遍的な部分があるようにも思う。そのせいか、読んでいるとある考えに襲われる。自分は、あるいは自分の周囲の人間はどうだろうか、こんな風に真剣に悩むことがどのくらいあるだろうか、と。
そしてこれほどまでに一生懸命悩んでいる人物を前にして、自分がいかに軽薄な人間であるかということを思い知らされる(知らず知らずに主人公である二郎に感情移入してしまうのだ)。背筋がひやりとすることもある。自分は彼らほど真摯に、悩みながら生きているだろうか。目先の事ばかりにとらわれていやしないだろうか。
きわめて辛そうで苦しそうだけれども、「ちゃんとマジに悩んでいる」登場人物たちが、どこかでうらやましくも感じるのだ。


漱石の文章は風景描写も美しい。特に二章の和歌の浦、それから四章の実家の描写。周囲のさりげない変化を、季節の移り変わりとともにうまく描き出している。漱石というと現代知識人の苦悩であったり、隠されていた秘密の告白であったり、そういった内面的な部分にフォーカスされることが多い。しかし何気ない風景描写も、大げさすぎずかつ美しいのである。このあたりの「風景を見る眼」「風景を描く言葉」は、漱石が漢詩や俳句を嗜んでいたことも影響しているのかもしれない。きっと人が見る以上のものが見え、人が考える以上のことを考えた人なのだと思う。

立川談春「文七元結」

2017-06-22 17:40:56 | 落語


死んじゃいけねえんだよ、なんだかわかんねえけど!!

本とか音楽の話をするとか言ってたけれど、今日取り上げるのはとうとうと言うか、いよいよと言うべきか、落語である。しかも人情噺。ブログの方向性が自分でもわからなくなってきている。ただ、何について書こうかと思いながら音楽プレーヤーを眺めていたら「立川談春」という文字が目に飛び込んできて、無性に落語について話したくなった。そういうわけで今日は落語について書いてみたい。

落語との付き合いはそう長くない。昔、おそらくまだ自分が小学生の頃だろうか。父親が落語を好きで自分に落語の本をくれたことがあったが(なんでくれたんだろう)、当時は積極的に落語を聞くことがなかった。父の運転する車でときどき聞いたり、あるいはごくたまに飛行機に乗ったときに聞いたりする程度だった。そのころの自分は、落語家が話すネタの中身よりも、彼らの語り口調や時代錯誤感が好きだったと思う。この平成の世で、こんなことをしている人がまだいるのだな、失礼かもしれないがそんなことを思っていた。
中学生になってからはやかましい音楽を熱心に聴き始めたものだから、しばらく落語を聞くことはなかった。しかしそれからややあって、大学の指導教官が大の落語好きだったことも影響して、落語に対する興味が再燃したのである(落語好きが高じて先生は落語の本を1冊書いているし、仲間を集めて年に2回落語会を開いている。この本がまたいい内容なのである)。奇妙なめぐり合わせもあるものだ。


今日は数多くあるネタのなかから、自分がもっとも好きなネタのひとつである「文七元結(ぶんしちもっとい)」を紹介したい。今まで紹介していた本や音楽よりもはるかに馴染みが薄いと思うので、あらすじを簡単に記そう。

舞台は江戸の師走、年の瀬が迫る頃である。話は左官の親方である長兵衛がばくちで負けて着物を取られ、法被姿(お祭りの衣装)で叩きだされたところから始まる。家に戻ると17歳になる娘のお久の行方が昨晩からわからなくなっていて、妻はばくちに明け暮れている長兵衛を責め立てる。折よく吉原の店から使いが来て「娘さんがうちの店に来ています」と長兵衛に告げた(ちなみに吉原というのは今でも現存するが、歌舞伎町のような場所、当時の歓楽街である。簡単に言うとおたくの娘が来ているぞ、と風俗店から連絡が来ている状況だ)。
長兵衛が店に出向くと、娘がそこの店長に事情を話していたようだった。お久が言うには「お父さんがばくちに明け暮れて、母に暴力を振るいます。ばくちをやめられれば、昔のように仕事に出られれば、元のお父さんに戻ってくれると思います。借金を返すために、私のようなものでもお金になるでしょうか?」とのことだった。要するに自分の体を売って借金のかたにしてくれ、というのである。現代でもありそうな話だ。落語だからと言って、決して遠い昔の物語ではない。ナニワ金融道とか、闇金ウシジマくんでも描かれている世界だ。
店長が言うには、さっそく店に出すのはかわいそうだから、お金は貸すが待ってあげるという。この待つ期間が噺家によって1年だったり2年だったり異なるが、談春バージョンでは2年だ。2年で50両。ただし店長は「その代わりあんたがばくちを打ったっていう噂を聞いたら2年待たずに、その日のうちにこの子を店に出すからね」「どうするんだい?ばくちは本当にやめられるのかい?」「性根据えて返事をおし!」と長兵衛に凄む。彼はばくちを止める決意をし、金を借りる。

お金を借りて帰る途中、吾妻橋のところで身を投げようとしている若者(文七)がいて、長兵衛は咄嗟に彼を止める。止めようとする際に一発殴るのだが、「なにするんですか!怪我でもしたらどうするんですか!」と文七が怒るのが面白い。これから死ぬ人がそんなことを気にするなって話。ちなみに吾妻橋も現存している、浅草を出てすぐの、隅田川にかかっている大きな橋だ。
長兵衛は文七にどうして死のうと思ったのか事情を尋ねる。彼はお店の大事な売上金50両を盗まれてしまった、それで申し訳ないからお詫びに死のうと思うことを話す。長兵衛は「親に泣きつけ!」とか「死んだって金が出てくるわけじゃない、悔しくても素直に謝って歯を食いしばってがんばれ!」と説得を試みるのだが、「死ぬこと」しか頭にない彼は「わかりました」と返事をするものの、長兵衛が行こうとするとすぐ橋の欄干に身を乗り出して飛び込もうとする、という行動を繰り返す。あまりにもしつこいものだから、長兵衛は「お前なんか知ってんじゃねえだろうな・・・?」と疑う、緊迫した雰囲気のなかで笑えるシーンだ。
どうにもならないと思った長兵衛はとうとう、娘が身売りをして借りた50両を彼にぶつけるように渡す。長兵衛がなぜ50両持っているのか、訝しむ文七に「訳を話してやらあ。いっぺんしか言わねえぞ、よく聞けよ!」と言って自分の話をする。ここが実にぐっとくる場面だ。

「俺はなぁ・・・酒とばくちでめちゃめちゃになっちゃったんだよ・・・お前じゃねえんだよ、生きてたって仕方ねぇのは俺なんだよ。死、死んだ方がいいけど、死んだ方が楽だけど、死ねねえんだよ。うちにはお久っていう17になる娘がいるんだよ、いい娘なんだよ。その娘が俺のしでかした不始末のせいで・・・今晩吉原の佐野槌ってところに身を売ったんだよ。・・・それで貰った金がこの50両だ」

と長兵衛は言う。全部伝えるのは野暮なもので、そのあとなんやかんやあってハッピーエンドになるだけど、この橋のシーンが私はとても好きだ。「死んじゃいけねえんだよ!なんだかわかんねえけど!」となかば自棄になって、でも不思議と説得力のある口調で長兵衛が文七に言う。そうなんだよな、死んじゃいけないんだよな、なんでだかわかんないけど。思わず頷いてしまう、膝を打つ場面だ。立川談志のヴァージョンでは苦しみ悩む長兵衛の様子がしっかり伝わってくるが、談春の方が長兵衛の「どうしようもなさ」「ままならなさ」がいきいきと描かれていて、個人的には好みである。


自殺する人が多い国に生きている私たち。あまりに多いものだから、人身事故で電車が遅れたとしても「はぁ、今日もか」くらいにしか思わない。どんな思いで死のうと思ったのか、その人がどんな痛みや苦しみを抱えていたのか、考えない。もちろんいちいち考えていたら身が持たない。でも身近な人が自ら命を絶つ可能性だってゼロではない。他人ごとではないのだとして、誰かが強く死にたいと思ったとき、どんな言葉をかければいいだろう?私たちは「死んだ方が楽だけど、死んじゃいけねえんだよ!なんだかわかんねえけど!!」という長兵衛の力強い言葉を、ときどき思い出す必要があるのではないだろうか。それは小沢健二の「天使たちのシーン」の最後に歌われている

―神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬように
にぎやかな場所で かかり続ける音楽に
僕はずっと 耳を傾けている


という歌詞に通ずるものがあるように思う。落語というと古臭いように感じるかもしれないし、まあ別に古臭く感じたっていいのだけど、そのなかには現代にも通ずる普遍的な人間の在り方みたいな部分が描かれているのだろう。そういった部分を、この立川談春という落語家は非常に上手に演じている。特に彼の呼吸のリズム。怒っているとき、追い詰められているとき、そして自分のやったことを心底悔いているとき。そういった場面を呼吸の仕方で表現できるのは、現代に置いては彼が一番うまいのではないだろうか。師匠の談志をして「古典をやらせたら俺の次にうまいのはこいつだ」と言わしめた理由がよくわかる。


なんだかクサい話になってしまったが、きっと人情噺だからということもあるだろう、たぶんそうだ、なんだかわかんねえけど。
ともかく、おあとがよろしいようで。

The Band「Northern Lights - Southern Cross」

2017-06-16 20:57:11 | アメリカの音楽



なんて格好いいジャケットなんや・・・

これまでの人生でたくさんCDを聴いてきたはずだし、本もある程度は読んでいるつもりだったんだけど、早くもネタが尽きそうである。とはいえ大した思い入れが無かったり、本当に心から良いと思えなかったりするものをここで紹介するのは、どういうわけだか抵抗がある。考えすぎだと思うけれど、作者に申し訳ない気もする。
しかし私が聴きこんだり読み込んだりした作品はそんなに多いわけでもない。一生のうちに本当に好きになるものは、そう多くないものだ。となると以前に掲げた「各アーティスト1作品ずつ」という縛りによって、必然的に自分で自分の首を強く絞めることになる。余談だが実際に自分で自分の首を絞めてみると結構苦しい、それはどうでもいいか。


さて忍び寄るネタ切れと戦いながら本日紹介するのはThe Bandというカナダ、アメリカのバンドだ。とてもシンプルな名前である、覚えやすくてよい。5人組で、うち4人がカナダ人で、ドラムのリヴォン・ヘルムだけアメリカ(しかも南部のアーカンソー州)の出身である。活動期間は1960年代後半から70年代の半ばにかけてだから、今から40年から50年ほど前になるだろうか。そのあと再結成して来日もしたけれど、オリジナルメンバーの5人で活動したのはこの時期までだった。
ボブ・ディランのバックバンドをやっていた彼らは、演奏のクオリティもきわめて高いが、それ以上に曲の構成がすごいと思う。楽器の編成はドラム、ギター、ベース、ピアノ、オルガン(時にサックスやアコーディオン)と数が多く、他にも金管が入っていることもあるのだが、それぞれの音がぶつからずに非常にうまくバランスをとっている。曲の構成、どこでだれが前に出るのか、どこで何を聴かせるのか、そういった部分を練る力が素晴らしい。

ヴォーカルはベース、ピアノ、ドラムの3人が務めているが、1人がずっとリードヴォーカルを取っていることもあれば、曲によって3人でリードパートを回していくものもある。特にドラムのリヴォンは野太いけどどこかかわいらしい声だ。彼が歌いながらドラムを叩いている姿はYoutubeにもあがっている。今からもう40年くらい前の映像だが、こうやってネットで観られるのはすごいことだと思う。と同時に、なんだかありがたみが薄れてしまうように感じるのは私だけだろうか。もちろん嬉しいことでもあるのだけど。「いつでも」「どこでも」探せば見られることなんて、きっと彼らは夢にも思わなかっただろう。なにせ遠い昔のバンドだから。

この作品『Northern Lights - Southern Cross』(邦題は『南十字星』、なぜか前半部分はカットされている)は1975年リリース、彼らがもうじき解散する前のものだ。彼らの作品では処女作『Music From Big Pink』そして2作目『The Band』が傑作だと言われているが、個人的にはこのアルバムもすごく好きである。今までは他のメンバーが作曲していたものもあったが、本作はすべてギターのロビー・ロバートソンによるものである。そのためかバラエティに富んでいる曲たちではあるが、アルバム全体として非常にうまくまとまっている印象を受ける。

M1「Forbidden Fruit」は聖書に出てくる「禁断の果実」のことなのだけど、歌詞のなかでも出エジプト記の「金の仔牛」のことが触れられている。彼らの代表曲「The Weight」にもナザレという地名が出ていたし、随所に聖書の影響が見られる。作詞作曲を務めるロバートソンの父親がユダヤ人であったことも関係しているのだろうか?とはいえメッセージ性が強いというよりも、ナンセンスというかやや不可解な歌詞である。渋いギターから始まる、いかにもフォークロックなナンバーだ、後半の鍵盤とギターの掛け合いが格好いい。
そしてM2「Hobo Jungle」はピアノの伴奏とどこか切ない歌のメロディ、それから時折聞こえるオルガンの音がうまくかみ合っている曲だと思う(歌詞の内容は浮浪者のたまり場についてなのだが)。続くM3「Ophelia」はガールフレンドがいなくなってしまった曲なんだけど、軽快で陽気な雰囲気だ。なんでこんな曲調なんだろう?ちなみにシェイクスピアの『ハムレット』で登場する女性の名前でもある。余談だが「Ophelia」という名前はギリシャ語が派生元で「Help」という意味を持っているらしい。そう考えると歌詞の内容ともマッチするし、あるいはどこかでビートルズを意識しているのかもしれない。ライブ盤だと金管のアレンジがダイナミックで聴いていて楽しい。なによりリヴォンの笑顔がとても眩しい。

The Band, Ophelia


A面の最後であるM4「Acadian Driftwood」、Acadian(アケイディアン)というのはアメリカ北東部からカナダにかけての地名だが、これもギリシャ語に由来していて、Arcadia(アルカディア)いわゆる桃源郷や理想郷のことだ。この曲は歌詞が描く世界観も素晴らしくて、彼らの故郷であるカナダという国について歌われている。このアルバムの前の作品では、アメリカの南部の方を意識していた曲もいくつかあったのだが、ここでは原点に、メンバーの大半の出身地であるカナダに回帰しようとする気持ちがあるのだろう。

それからB面へ。後半も「Ring Your Bell」やスロウバラードの「It Makes No Difference」などいい曲が並んでいるのだが、なんといっても最後の曲、「Rags and Bones」が本当に素晴らしい曲だと思う。今回はこの曲を紹介するためだけに書いたと言ってもいいくらいだ。今このブログを見ていて時間がある人には、この曲だけでもいいから聴いてほしい。シンセサイザーの音は古く聴こえるものの(もちろん当時では最先端のものだが)彼らの朴訥だけど切ない歌声とメロディや背後のコーラス、隙間を埋めるようでもあり、ときに自己主張をするギターがこころにぐっとくるのである。夕方、街の喧騒のなかでこの曲を聴いていると不思議と泣きそうな気持ちになる。

The Band - Rags and Bones



歌詞のなかではごく当たり前の街の風景、人々の営みが歌われているのだけれど、タイトルの「Rags and Bones」とは屑屋(今でいう不用品回収業者)を意味する。これはロビー・ロバートソンの祖父が屑屋を営んでいたことも影響しているのだろう。M4では祖国のことを歌っていたが、この曲はより身近な、幼少期の個人的な体験をもとに作られている。それがまた切なく感じられる、作曲者のロバートソンはどこかで解散を意識していたのかもしれない。いずれにせよ、彼のパーソナルなことが歌われている曲はそう多くないはずだ。


なお洋楽のCDあるあるなのだが、本作にはボーナストラックがついているものもあって、ボーナストラックがついている方がお得に感じるかもしれない。けれどせっかく「Rags and Bones」で締めくくられたアルバムの雰囲気を、台無しとまでは言わないにしても少し損なってしまっているように思う。大事なのは曲の多さではなく、そのアルバムがいかにまとまっているか、語り掛けてくるかではないだろうか。


彼らはこのあともう1枚『Islands』というアルバムを出して解散したわけだけれど、『Northern Lights - Southern Cross』のほうが「最後にやり切った感」が強い。色々あってからの「原点回帰」みたいな印象も受ける。物語で例えるなら、メーテルリンクの『青い鳥』とか、不死になるための手段を求めてさまよった結果、結局その手段が得られずに疲れ果てて祖国に帰る『ギルガメシュ叙事詩』を彷彿とさせる流れのようにも思えるのだ。人間にはどこかそういった部分が、時代や文化を問わずあるのかもしれない。もうメンバーはほとんど亡くなっている、ピアノのリチャード・マニュエルにいたっては自殺している。後付けではあるけれども、彼らの美しくもどこかどうしようもない部分が私は本当に好きである。

Radiohead「Kid A」

2017-06-08 12:20:15 | イギリスの音楽



不安が逆に気持ちいいアルバム


勢い余って変な副題をつけてしまった。
いつも夏休みの宿題とかジョギングとか、ありとあらゆる試みが三日坊主で終わっていた私だが、奇跡的にこのブログはきちんと更新することができている。そのため今後ものすごい異常気象、あるいは更新世のような気象変動が襲い掛かってくるかもしれない(更新だけに)。氷河期が来たら仕事に行かなくて済むかな。

作品を紹介する前にちょっとした小話を。彼らと同じ英国の詩人、John Keatsは弟に宛てた手紙のなかで、芸術のひとつの重要な要素としてNegative Capabilityという考えを挙げた。直訳すると「負の能力」ということになる。これはどんな概念かというと「不確かなものを、不確かなままにしておける力」だ。何のことかさっぱりわからない方もいるかもしれないが、例えばテストで難しい数学の問題や「存在するとはどういうことか」みたいな哲学的な問いに直面した場合の事を想像してみて欲しい。あなたはどんな気持ちになるだろうか。
人間は「不確かなもの」や「わからないもの」に直面したときに、不安やフラストレーションを感じる。そのさい、すぐにgoogleで検索をかけて「ふうん、こんな感じね。もう大体わかったよ」となる人もいれば、あるいは「別にそんなこと知らなくたっていいや、興味ないし」と酸っぱい葡萄のように思う人もいるだろう。つまり行動して解決するか考え方を変えて解決するか、そういった行為を無意識のうちに行っている。

でも不安を感じてすぐにわかろうとするのではなく、もっとそのことをつきつめて考えたい、それが逆に好奇心を刺激して心地いい、なんかよくわかんないけどムッチャ気持ちいい、もっとわかんないことを下さい!!みたいになるのがNegative Capabilityの高い人だと言える。Keatsはシェイクスピアを例えに出して「ある種の天才たちに認められる能力である」と語っている。
なんでこんな話をしたかというと、このRadioheadというバンドもきっとNegative Capabilityがとても高いと思うからだ。安易に過去の焼き増しをせず、常に変化や進化を目指し、全身全霊をかけて新しい作品の生み出している、創り出している。彼らの音楽を聴いているとそんな気がする。しかしながらその変化があまりにも大きすぎて聴く側がすぐに理解、あるいは消化できない場合もある。われわれ聴衆は、自分の好きなアーティストや小説家が新しい作品を出したとき「前とまったく同じじゃつまらないけど、ある程度前作の延長線上にはあってほしい!お願い!」と知らず知らずのうちに願っている。でもそういった期待はときに裏切られるものだ。そしてそんな期待をガンガン裏切ってくるのが彼ら、Radioheadである。


恐らく一番リスナーの期待を裏切ったのがこのアルバム『Kid A』だろう。『The Bends』から『OK Computer』の飛躍は大きかったものの、1作目から3作目までは一応ギターロックの範疇に入っていた。しかし世界中で大ヒットした『OK Computer』の次に3年の時を経てリリースされた本作はエレクトロニカ、ポストロック、時にジャズの要素が入っていて、これまでの作品とは全然違うものだった。ギターとかほとんど弾いてないし、使っていたとしてもエフェクトをかませて効果音みたいに使っているし。えっ、それだったらもうギターじゃなくてよくない?ていうかなんでこんな作品にしたの?とまあいろんなところで物議をかもしたのだけれども、個人的にはこのアルバムがものすごく好きなので取り上げたいと思う。

内容に入っていこう。1曲目の「Everything in its right place」、無機質なリズム、細切れにされたり加工されたりして情感の薄いヴォーカル。そして「Everything in its right place すべてが正しい場所に」「Yesterday I woke up and sucking a lemon 昨日、目が覚めてレモンをしゃぶったんだよ」という謎の歌詞。よくわかんないけどいい曲だ。4拍+6拍のリズムだが不自然さがまったくなく心地よいのである。ライブでの演奏もとても格好よい、リズムは無機質だが演奏は非常にいきいきしている。

Radiohead - Everything In Its Right Place, Live Paris 2001


2曲目はタイトルトラックの「Kid A」、とても地味だけどいい曲なんだけど地味だ。ヴォーカルにはエフェクトがかかっていてなにを歌っているのかよくわからないし。続くM3「National Anthem」はずっと同じフレーズを繰り返すベースとドラムに、後半になると金管楽器の絡みつくようなフレーズが加わっていく。特にトロンボーンやトランペットの音がものすごく不穏でときに不快にすら感じられるのだけれど、リズム隊はくどいくらいの繰り返しなのでどこか安心する。この不穏と安心のバランスが絶妙。余談だが、その昔温泉に向かっている途中、母が運転する車のなかでこの曲をかけていたら「あんた、頭がおかしいんじゃないかね?」と言われた。頭がおかしいのは私ではない、彼らだ。

そして4曲目になってようやくギターの音が聞こえてきたかと思うと、タイトルは「How to disappear completely」(完全に消える方法)という不穏なものだし、曲中では何度も「I’m not here ぼくはここにいない」と歌っている。
話がちょっと逸れるけれども、Radioheadは全体的に歌詞の抽象度が高い、特に『OK Computer』以降その傾向が強い。かと思えばものすごく具象的なフレーズが時に出現する。上述したM1「Everything~」も「すべてが正しい場所に」と歌ったあとにレモンの話が出ているし(梶井基次郎かよ)、M8「Idioteque」の歌詞では

I’ll laugh until my head comes off 頭がもげるまで笑い続けるよ
Women and children first and children first… 女と子どもが先 子どもが先…
ice age coming ice age coming 氷河期が来る 氷河期が来る


と、きれぎれになった言葉が並べられていて、ざっと読んだだけでは白痴や精神病を思わせるような歌詞だ。とはいえ、そういった歌詞が気持ち悪く聴こえるかというと、不思議とそうでもないのである。

歌詞が一番好きなのは、アルバムのなかでもわりにシンプルなM6「Opitimistic」

Radiohead - Optimistic - Live From The Basement [HD]


You can try the best you can
You can try the best you can?
The best you can is good enough
If you try the best you can
If you try the best you can
The best you can is good enough

きみが 最善を尽くしたなら
きみが 最善を尽くしたのだとしたら
もうそれで十分だよ
もしきみが 最善を尽くしたのなら
もしきみが 最善を尽くしたのなら
もうそれで十分だよ


彼らが素直にねぎらいの歌なんか歌うはずがない。なんだか投げやりな気もするし、「それがきみの本当のベストなの?」という皮肉にも聞こえる。でもどこか安心する。不思議な感覚の曲だ。

話がどんどん長くなっていくからこの辺にしておこう。書いていてむっちゃ疲れたのもある、彼らの作品について語るのは非常に消耗するのだ。言い忘れたけどM8「Morning Bell」も不穏な空気が漂っているが、後半のベースとギターの絡み合いが良くて好きな曲だ。これもM3と同様、基本的に上モノ(ギターや金管)が不穏な空気を作り出し、リズム隊(ベースとドラム)が安定感を作り出しているのだろう。


ともかく、フロントマンのトム・ヨークの変化についていくほかのメンバーもすごいし(特にエド)、これでOK出したプロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチもすごいと思う。ただこのアルバムを流れる不穏な感覚、こちらに伝わってくる不安の感情は、きっとトムのなかで「わからないものととことん付き合っていった」過程のなかで昇華されていったものなんじゃないだろうか。『OK Computer』が(おそらく)本人たちの予想を上回って爆発的に売れたあと、「なんでこんなことになったのか」そして「今後どうしていったらいいか」「これからどんな音楽を作っていったらいいのか」本当にわからなくなってしまったのだろう。トムはかなり精神的に不安定になっていたという、書痙にもなったらしいし。でも彼らは見事にそれを乗り越えて、新しい道に進んでいったのだ。

Tool「Lateralus」

2017-06-06 11:30:51 | アメリカの音楽



暇つぶしのために始めたブログだったが、ここ最近ブログでなにを書くか考えながら生きている。ぼんやり音楽を聴いているときでも「これブログになんて書こう、どうやって言葉にしよう」とつい考えてしまうし、会議中やご飯を食べているあいだもブログのことを考えるし、なんなら寝ているときも六条御息所のように生霊になってブログを書いている。それは嘘である。とにかく手段と目的が入れ替わっているというか、ミイラ取りがミイラになるというか、河童は川から流れるし弘法は筆と間違えられるし、世も末なのである。


たまには洋楽を、とピックアップしたものが「これかよ」という声が聞こえる気がしないでもない。Tool(トゥール)というアメリカはカリフォルニア、ロサンゼルス出身のプログレッシブ・メタルバンドだ。今のところ4枚しかスタジオアルバムは出していないが、今日は2001年にリリースされた『Lateralus』を取り上げたい。書いていて気付いたけれどこれリリースされてもう16年も経っているのか、そりゃ私も年を取るわけだ。

彼らの紹介。男性4人組でヴォーカル、ギター、ベース、ドラムのシンプルな編成である。初期作『Undertow』は変拍子の曲もあるがプログレ感が全面的には出ておらず、どちらかといえばハードロック寄りの作品だった。しかしその内容は「Prison Sex」「4 degrees」などタイトルからして物々しい曲が多い。ちなみに「4 degrees」という曲は、いろんな解釈が可能ではあるのだが、歌詞をそのまま理解しようとするとアブノーマルに解釈することも可能なので、(いないとは思うが)調べられる方はご注意を。
さて2ndアルバム『Ænima』以降はだんだんハードロックの傾向は薄れ、より暗黒めいたサウンドになってきている。この暗さと気だるい雰囲気、ヴォーカルの繊細かつ存在感のある声、きめ細かくときにアグレッシブなギター、何をやっているのかよくわからないが正確無比で力強いドラム、意味がぜんぜん理解できない歌詞、そういったところが彼らの魅力(?)だ。書いていて思ったけれど、今まで紹介してきた人たちに比べてかなり好き嫌いがわかれるバンドかもしれない、数少ないブログの読者がさらに減りそうだ。

本作『Lateralus』は彼らの3作目である。一聴して良いと思える曲は「Parabola」「Lateralus」「Triad」くらいなもので、「Stinkfist」「46 & 2」などが入っていた前作の方がキャッチーだと思う。ただ「相対的に」キャッチーという意味なので、一般的なキャッチーさ(例えばクラムボンとか、cymbalsとか)を期待して本作を聴くと動悸・息切れなどの諸症状や、場合によってはひどいトラウマをこうむることになるので気を付けてほしい。
アルバムのタイトル、LateralusとはLateral(横の)という単語から派生した造語であるようだ。おそらく「ものごとを幅広く見ろ、固定観念にとらわれるな」と言いたいのだと思う。M1の「The Grudge」はうねるようなベースとドラムの変なリズムで始まる曲だが、4分過ぎたあたりのシンプルなリズムになるところが格好良い。また歌詞も面白い。比喩的な表現が多くやや呪術めいているが、大筋として言いたいのは「ネガティブな感情、思考ばかりにとらわれるな」という意味なのだろう。

M1「The Grudge」(映像は公式ではなくファンによるもの、心臓が弱い方にはお勧めしない)
(HD) TOOL - THE GRUDGE



他の曲の解説は省くが、なんといってもタイトルトラックの「Lateralus」は素晴らしい曲である。Aメロのドラムのリズム、そしてベースが入ってくるところ、このドラムとベースの絡みがとても良い。大げさかもしれないけれど、ここまで歌うように流れるドラムは、King Crimsonの「21st century schizoid man」以来ではないか。興味があるひとはぜひYoutubeでご覧あれ。
歌詞はざっくり言うと「もっといろんな方向からものごとを見ろ!負のスパイラルから抜け出せ!」という内容で、暗い雰囲気の曲のなかでめちゃくちゃポジティブなことを歌っているお茶目なメイナードさんがいる。冒頭の歌詞(black, then, white are, all I see, in my infancy, red and yellow then came to be…)がフィボナッチ数列のリズム(1,1,2,3,5,8…)で歌われているあたりがかなり変態的だ、たぶんこの人たちも友達少なそう。

M9「lateralus」
Tool - Lateralus (Highest Quality HD)



ただこの曲の後半でもそうなんだけれど、アルバムを通しても途中でテンションがだれる瞬間があるかな、と思う。このバンドの魅力のひとつとして、「静と動」「緩急」のつけ方が挙げられるのだが、途中の「静」や「緩」の部分がかなりの具合で落ちるので、けっこう集中して聴いていないとそれまでのテンションが持続せず、飽きてしまうのだ(そして集中して聴くと相当疲れる)。例えていうならジェットコースターに乗っている途中で、最初ワッと滑ったかと思うとそのあとものすごくゆっくりになっちゃう、そして気を抜いているととてつもない勢いで加速する、みたいな感じ。わかるかな、わかんないか、ごめんね。


以下個人的な話。このバンドを好きになったいきさつ。自分は地方の小都市の出身で、当然身近にTSUTAYAやタワレコなんてものはなかった。〇〇堂とかいう本屋兼CDショップみたいな店しかなかったし、Exileや浜崎あゆみしか置いていなかった。
最寄りのタワレコに行くにはバスで20分、電車で30分必要だったから小旅行である。それに1時間くらいかけてタワレコに行ったとしても、普段ものが少ない場所に住んでいるから(外には田んぼ、畑、川、山、道路しかない。風景構成法かよ)、一度に大量の情報が入ってきて何を買ったらいいかわからなくなり迷ったまま帰ってくることもあった。

これじゃいかん、と思った。そして当時わが家にも導入されつつあったインターネットを駆使し、某2ちゃ〇んねるの音楽板に入り浸っては情報収集に勤しんだのである。そのなかで「Toolすごい」「Toolの3rdは本当にいい」「Toolは世界遺産」「Toolは国連事務総長」という書き込みを見た、見てしまったのだった。
私はその情報を鵜呑みにし、近所のCDショップでこのアルバムの注文をした。在庫なんてあるわけないから取り寄せになった。数日して楽しみにしていたアルバムが届いた。早速家に帰って聴いてみよう、そのときの自分はきっととてもわくわくしていただろう。
変なジャケットからCDを取り出し、プレーヤーの再生ボタンを押す。スピーカーから流れ始めたのは、なんだかよくわからない音楽であった。今まで聞いていたロックとは全然違う、なんだこれは。これが…これが国連事務総長???
英語なのはともかくとして、彼らがなにを歌っているかよくわからないし、ギターも変な音弾いているし、ドラムは手数が多すぎて何やっているかよくわからないし、静かなところと盛り上がるところの音量差が大きいし。
ただ「なんだかよくわからないぞ?」と思いながらも繰り返し聞いているうちに、気づいたらどっぷりはまっていたのである。そういう、うまく言葉にできない魅力を持った不思議なバンドだ。人生で1度しか彼らのライブを見られていないが(2006年のSummer Sonicだった)、再び来日することがあれば是が非でも行きたい。


上の方でさんざん「友達少なそう」とか言っていたが、こんなブログを更新している私に友達が多くないのも自明の理であろう。でも私たちは、知らず知らずのうちに「友達は多い方が良い」みたいな世間一般の考えにとらわれているんじゃないだろうか。メイナードさんも歌っているではないか、「固定観念にとらわれるな」と。友達は少なくたって別にいいのだと思う。強がりではない、本当だ。いやだから強がりじゃないって。