砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

フィッシュマンズ「Long Season」

2021-08-25 17:03:27 | 日本の音楽


8月も終わりそうなのに、いまだ暑いですね。
暑さでやる気が蒸発してしまったのでブログを書きます。

上旬にceroのライブに行く予定だったのですが、サポートメンバーの厚海さんがコロナ陽性になってしまい急遽延期になりました。楽しみにしていただけに大変残念ですけれども、こればかりは致し方ありません。
でも、やはりとても悲しいです、よよよ。

感染拡大に伴い今年も帰省を断念しました。
お盆はお酒を飲んだり勉強したりして、だらだら過ごしていました。
何のために生きているんだか。オレ…ナンノタメニ…


さて今日はフィッシュマンズを。
世田谷三部作の2つ目の作品である『Long Season』です。1996年発売。
彼らの作品で特別に好きなのは『Orange』と『空中キャンプ』なんだけど、ときどきじっくり聞き返したくなるのはこの『Long Season』だったりします。

この作品について。
とびきりポップで少しダークな面がある『Orange』、それをもっと洗練させてセンチメンタルさが前面に出た『空中キャンプ』、どこか悲壮感や虚無感がある、果てのない空間をさまようような『宇宙 日本 世田谷』。
その合間に存在する本作は、「異質」な作品であると同時に「通過点」でもあるわけです。

異質に思える点を3つ。
1つ目。アルバムに1曲しか入っていないこと。「Long Season」1曲のみ。
便宜的に5つのパートにわけられていますが、交響曲のようにすべてのパートを合わせて1曲というつくりになっています。プログレの作品みたいです。

2つ目。歌のパートがほとんどありません。
フィッシュマンズはその歌詞も魅力的です。繊細で不思議と寂しくなる歌詞。
でも本作は意味があるんだかないんだかといったくらいに断片的な歌詞です。歌が入るまでも長いし。
パート1で東京の街をさまよう、半分夢のなか…と歌われますが、パート2~4では歌がほとんどなく、パート5になってようやく冒頭に出てきた歌詞がリフレインされる構造になっています。
「ぼくら 半分夢のなか」というフレーズが出てくるように、レム睡眠とノンレム睡眠を行き来しているような内容です。

3つ目。
曲のつくりが今までと全然違います。
これまでの曲、例えば「感謝(驚)」や「Baby Blue」「Night Cruising」では、安定したリズム隊の上にいい感じのギター、そして線の細いヴォーカルが乗って彼ら特有の雰囲気を生み出していたわけです。

でも今作はわけがわかんないです。アンビエントのような電子音がたくさん入っていて、水の流れる音やタヒチアンのようなパーカッションも盛り込まれて。パッチワークのようでもあるし、曼荼羅を見ているような気持ち、ジャングルで迷子になっている気持ちにもなります。
もちろんいい感じのギターやベースが入る部分もありますが、それ以外のよくわからんパートの割合が多いです。

とはいえ。
不思議なのは、わけがわからないけど聴いていて心地いいこと。
繰り返し聴きたくなるような魅力がこの作品にはあります。
それはどうしてか?今回の記事で上手く言葉にしようと思ったけど駄目でした。私の手に負える作品ではありませんでした。気になった人はとにかく聞いてみてください(敗北宣言)。


本作が「通過点」であることについて。
この作品を経て、彼らの最後のアルバム『宇宙 日本 世田谷』ができあがったわけです。
あの作品が良くも悪くも空っぽに感じられるのは、本作にかなりのエネルギーやアイデアを注ぎ込んだからなのかもしれません。あるいは、作品発表後にメンバーの脱退が予定されていたから、そういったことも影響していたのでしょうか(これは邪推に過ぎないのですが)


何かを得るということは何かを失うということなのだな、と月並みなことを思いつつ。
今年も過ぎていく夏をただ切ない気持ちで眺めています。島に行きたい。

オリンピックと運動嫌い

2021-08-03 15:35:57 | 日記
イエーイ、みなさま自粛していますか。自粛最高ですね。
お願いだから労働や納税も自粛させてほしいところです。



それはそうと。
「自粛」という言葉が本来の意味を失いつつあるように思います。
もともとは「自らすすんで行いや態度を慎むこと」という意味ですが、これだけ政府や自治体から自粛してください~と言われると「はて、自らすすんでとは…?」という気持ちになりますね。

強要されたり報酬を強調されたりすることで、もともと好きだった遊びですら嫌いになる、という動機付けの研究があります。あれと共通するものがありそうです。誰の研究だったかしらん。
北風と太陽ではないけれども、人間は圧力がかかると反発したくなるのでしょうね。そして同調圧力に支えられた自粛ムーブも、そろそろ限界を迎えつつあるのでしょう。
むしろこの1年よく頑張ったな、と感心するくらいですが。


さてオリンピックが始まって1週間近く経ちます。
私は家にTVがないのでオリンピックをほとんど見ていません。ネットでも見られるらしいのですが、全然見ていません。これは今の政権運営に反対とか、バッハが嫌いとか政治的な意図があるわけではなく(ゼロではないけど)、純粋にスポーツ観戦に興味がないからです。


昔からスポーツが嫌いでした。憎んでいると言っても過言ではありません。
それもひとえに、私自身運動がからきしダメだからであります。

幼少期からの話です。
走るのが遅かったり握力が弱かったりと、運動が苦手で友人から馬鹿にされた記憶が数々あります。体育の授業中に教師に呼ばれてサッカーボールを蹴らされて「これは良くない見本」とダシに使われたこともあります。あの教師を許すことは一生ないでしょう。

学校文化では、基本的に運動ができる人がモテていました。あれは一体なんなのでしょうね。永遠の謎です。
小学校のとき、性格が意地悪でも足が速い子がモテており「〇〇くんはどうなの?」と私の名前があがると「やだよ~あんなガリ勉」と言われたこともあります、小2の頃の話です。記憶力が取り柄のガリ勉なので、未だに根に持っています。
あとは自分が徒競走でビリになり、その悔しさを綴った作文が私の許諾を得ることなく学級だよりに載ったこともありました、とんでもない羞恥プレイです。一歩間違えたら子どもの性癖を歪めかねない行いだと認識しています。

運動できないのに「声がでかい」という理由で、中学校の体育祭の応援団長をやらされたこともあります。
運動できるやつに拡声器を持たせろや!!ドラゲナイさせとけや!!!
そんなこんなで私の運動嫌いに拍車がかかり、高校の体育祭はろくすっぽ参加しませんでした。


「なんだよ、結局運動ができないやつのルサンチマンかよ、これだから陰キャは…」と思う方もいるでしょう。ぶっちゃけその通り、間違いなく陰キャのルサンチマンです。もっと運動ができてモテたり一目置かれたりしたかった…But I’m a creep...I don’t belong here.

ただ、ひとつ言い訳をすると。
運動すること自体は嫌いではありません。ジョギングしたり泳いだり、身体を動かすのはむしろ好きです。
でも人と比べて自分のできなさ、下手さを刺激されるのが嫌なのです、劣等感を刺激されるのが嫌なのです。裏を返せばそれだけ自分に自信がないってことなのでしょう。みっともない話です。
余談ですが中3の夏休みの宿題で「劣等感と向き合って」とかいうクソタイトルの激痛作文を書いてしまい、それを何故かみんなの前で読まされました。とんでもない羞恥(ry
そして運動が苦手なことを未だ根に持っているということは、わかったようなことを言っていても全然向き合えていなかった証拠ですね、ウケる。


話を戻します。
ルサンチマンを抱えた私でも、うまい人のプレイを見ると純粋に「すごいなぁ」と思うわけです。でもその怨恨ゆえに、周囲の熱量と上手にチューニングできない。すごいのはわかるけど、なんでそんなに盛り上がれるの?と思ってしまう。
その感覚は、全然知らないアーティストのライブに行った時の居心地の悪さに近くて。急にみんな踊り出したし同じところで歌詞口ずさんでいるけど…ワイあんま知らんねんけど…という感じです。わかるかしらん。


あと変に歪んだ性格なので「なんで日本人がメダルとったからって喜ぶわけ?日本人というカテゴリに帰属意識を持って、自分も盛り上がっているの?間違った同一化じゃないかしら」「その人がメダル取ったのってその人がすごいだけであって、あなたの人生に何の影響もなくない…?」と斜に構えてしまうところがあって。みんながワーッとなっているのを、2~3m離れたところから見ている感じです。
そう考えると私がモテなかったのはガリ勉だからではなく、歪んだ性格を持っていたからなのかもしれません。なんということでしょう、永遠の謎があっさり解けてしまいました。


オリンピックに関心がないのはいいんだけど、もれなく税金が徴収されていくわけで。
こうしてスポーツへのルサンチマンが一層高まっていくことになります。
オリンピック最高!United by Emotion!!But I’m a creep...