だるい。
暑いし、今週末に台風が来るしでやっていられない。
これと言って先の楽しみがあるわけではない。
実家に帰省するためのチケットも、まだ買っていない。
だるいのである。
いつもぎりぎりで行動を起こしている。
夏休みの宿題は、毎年8月下旬から焦ってやっていた。来年こそは、と思うものの、人間は忘れてしまう生き物である。その反省が活かされることはほとんどなかった。その証拠に、大学の卒論や修論もぎりぎりになって半泣きで書いていた。
締め切りが迫る日の深夜、研究室から喫煙所までの道のりを歩きながらMr.Childrenの「光の射す方へ」をよく聴いていた。
夏休みのある小学校時代に帰りたい
歌のなかで、主人公(というか歌い手?)の母親が愚痴るように放つ台詞である。
私としては、締め切りが刻一刻と迫ってくる夏休みよりも、いつも通り学校がある方が楽だった。長期的な目標に向けて自分で計画を立ててこつこつやるのではなく、宿題をやるのは日々のルーティンの1つ。夕食を食べるのと同じくらいに、その日やるのが当たり前のこと―そう認識している方が、気持ちが楽だった。
時間がどんどん過ぎていくなかで、「まだ時間があるから」から「そろそろやらないとまずいかも。でももう少し大丈夫かな」になり、「あれ、思っていたよりもヤバくない?」から「うわ…なんでやっていなかったんだろう。一体何していたんだろう」という気持ちに切り替わる瞬間。やがて襲ってくる、タコ糸でぎりぎり締め付けられるような苦しみ。悔恨している間にも、時間がどろどろに溶けていく感覚。賭博で借金をこさえるドストエフスキーも、あんな気持ちだったのかな。
なぜ同じような失敗を繰り返すのか。
ぎりぎりにならないとやる気が起きないのもある。あとは性根が楽観的な部分も大きい。「まあなんとかなるか」と思って生きているのである。たぶん人生をナメているのだろう。
とはいえ。
危機や締め切りに直面すると、さすがに楽観的でいられるはずもなく。直前になるとものすごく焦るのである。あの瞬間がたまらなく苦しい。しかし、いつまで経っても継続的努力することができず、締め切り直前に残業して帳尻を合わせたり、普段の2倍くらいのペースで文章を書いたりしているのである。愚かである。
そんな話はどうでもいいか。
とにかく。
継続的に努力ができる人が羨ましいし、素直に尊敬する。「享楽的な生き方をしていてはだめだよ」と、イソップ物語にすら書いてあるのに。きっと、大昔から自分と同じような人間がいたのだろう。そう考えると少し心強いかもしれない。いいのか、それで。
そういえば朝井リョウの『正欲』を読んでいる。
こんなにセクシュアリティに踏み込む物語を久しぶりに読んだ。読んだ、といってもまだ230ページくらいなので中盤だ。これからどうなるのか、ものすごく楽しみである。朝井リョウの小説を読むのは、『桐島、部活やめるってよ』以来だったが、こんなにすごい書き手だったか。びっくりしてしまった。
村田紗耶香の『コンビニ人間』を読んだときに、画一化された価値観が蔓延している現代の生き方に、一石を投じているように感じた。アンチ・ヒューマニズムというべきか。コストパフォーマンス、合理性、そういったものを追求する一方で、戦前戦後からの家族を大事に的な価値観。そこに生まれる「ひずみ」のようなものを描いた作品だったと記憶している。あれもすごい作品だった。面白いというよりも、面食らう感じ。
そして『正欲』でも、似たように面食らってしまった。この作品は、タイトルが表すように「なにが正しいセクシュアリティなのか」ということに疑問を投げかけているように思う。多様性と言えば聞こえはいいし、性的指向といえばマイルドに聞こえるが、突き詰めて考えるとこの小説で描かれているような、どこまでいってもザルからこぼれていく人がいるのだろう。
もちろん小児性愛や児童ポルノは、昨今ジャニーズの問題でも大きく取沙汰されているが、被害者に相当な傷つき、深刻な被害を与えるため到底許されるものではないのだが…じゃあどうしたらそういった性的な指向を持つ人たちがザルに掬われていくのか。まあ、冒頭の描写のようにそもそも、掬われることを願っていないかもしれないけれども…。
安易に多様性と訴えたところで、どうしたって外れていく人がいることを、どこまで意識できるだろうか。少なくとも私はこの本を読むまで、十分にピンときてなかったな、と思う。残り200ページもある、これから先どうなるのか本当に楽しみである。
話が逸れるようで逸れない。
コミックマーケットが週末にある。私は昨年初めて行ってみた、4630万円を受け取った人のコスプレが目に焼き付いている。午後に行ったので撤収している人たちも多かったが、本当にいろんな指向があるんだなあと感じた。
メタリカのヴォーカル、ジェームズ・ヘッドフィールドがインタビューで語っていたことを思い出す。
自分の子どもがソウルやラップを聴いていることに対して
「それはヒドい音楽だ、これを聴け!」という気持ちにはなる
でも子供たちの人生なんだ。オレは安全を守る保護者に過ぎない
彼らには彼らの道がある。好きな音楽を追求するように言ってるよ
誰かを傷つけるような音楽でない限りね
(出典:2010年11月11日放送、「MUSIC JAPAN overseas」のインタビューにて)
彼はそう語っていた。
上述した多様性を許容する範囲であるが、「誰かを傷つけない」というのがひとつの手がかりになるかもしれない。しかしながら。人間は些細なことで傷つく。傷つけないことが線引きになり得るか、と言われたら、自信を持ってそうとは言えない。人によって傷つく範囲や程度が違う。文化やその人が生きてきた歴史によっても、線引きは大きく異なる。
ふらふらと揺れる足場の上で、傷つく側、あるいは傷つける側にならないように、ずっと立っているようでもある。
悲しいことも多い。
だから人生は疲れる。
だるいのである。
暑いし、今週末に台風が来るしでやっていられない。
これと言って先の楽しみがあるわけではない。
実家に帰省するためのチケットも、まだ買っていない。
だるいのである。
いつもぎりぎりで行動を起こしている。
夏休みの宿題は、毎年8月下旬から焦ってやっていた。来年こそは、と思うものの、人間は忘れてしまう生き物である。その反省が活かされることはほとんどなかった。その証拠に、大学の卒論や修論もぎりぎりになって半泣きで書いていた。
締め切りが迫る日の深夜、研究室から喫煙所までの道のりを歩きながらMr.Childrenの「光の射す方へ」をよく聴いていた。
夏休みのある小学校時代に帰りたい
歌のなかで、主人公(というか歌い手?)の母親が愚痴るように放つ台詞である。
私としては、締め切りが刻一刻と迫ってくる夏休みよりも、いつも通り学校がある方が楽だった。長期的な目標に向けて自分で計画を立ててこつこつやるのではなく、宿題をやるのは日々のルーティンの1つ。夕食を食べるのと同じくらいに、その日やるのが当たり前のこと―そう認識している方が、気持ちが楽だった。
時間がどんどん過ぎていくなかで、「まだ時間があるから」から「そろそろやらないとまずいかも。でももう少し大丈夫かな」になり、「あれ、思っていたよりもヤバくない?」から「うわ…なんでやっていなかったんだろう。一体何していたんだろう」という気持ちに切り替わる瞬間。やがて襲ってくる、タコ糸でぎりぎり締め付けられるような苦しみ。悔恨している間にも、時間がどろどろに溶けていく感覚。賭博で借金をこさえるドストエフスキーも、あんな気持ちだったのかな。
なぜ同じような失敗を繰り返すのか。
ぎりぎりにならないとやる気が起きないのもある。あとは性根が楽観的な部分も大きい。「まあなんとかなるか」と思って生きているのである。たぶん人生をナメているのだろう。
とはいえ。
危機や締め切りに直面すると、さすがに楽観的でいられるはずもなく。直前になるとものすごく焦るのである。あの瞬間がたまらなく苦しい。しかし、いつまで経っても継続的努力することができず、締め切り直前に残業して帳尻を合わせたり、普段の2倍くらいのペースで文章を書いたりしているのである。愚かである。
そんな話はどうでもいいか。
とにかく。
継続的に努力ができる人が羨ましいし、素直に尊敬する。「享楽的な生き方をしていてはだめだよ」と、イソップ物語にすら書いてあるのに。きっと、大昔から自分と同じような人間がいたのだろう。そう考えると少し心強いかもしれない。いいのか、それで。
そういえば朝井リョウの『正欲』を読んでいる。
こんなにセクシュアリティに踏み込む物語を久しぶりに読んだ。読んだ、といってもまだ230ページくらいなので中盤だ。これからどうなるのか、ものすごく楽しみである。朝井リョウの小説を読むのは、『桐島、部活やめるってよ』以来だったが、こんなにすごい書き手だったか。びっくりしてしまった。
村田紗耶香の『コンビニ人間』を読んだときに、画一化された価値観が蔓延している現代の生き方に、一石を投じているように感じた。アンチ・ヒューマニズムというべきか。コストパフォーマンス、合理性、そういったものを追求する一方で、戦前戦後からの家族を大事に的な価値観。そこに生まれる「ひずみ」のようなものを描いた作品だったと記憶している。あれもすごい作品だった。面白いというよりも、面食らう感じ。
そして『正欲』でも、似たように面食らってしまった。この作品は、タイトルが表すように「なにが正しいセクシュアリティなのか」ということに疑問を投げかけているように思う。多様性と言えば聞こえはいいし、性的指向といえばマイルドに聞こえるが、突き詰めて考えるとこの小説で描かれているような、どこまでいってもザルからこぼれていく人がいるのだろう。
もちろん小児性愛や児童ポルノは、昨今ジャニーズの問題でも大きく取沙汰されているが、被害者に相当な傷つき、深刻な被害を与えるため到底許されるものではないのだが…じゃあどうしたらそういった性的な指向を持つ人たちがザルに掬われていくのか。まあ、冒頭の描写のようにそもそも、掬われることを願っていないかもしれないけれども…。
安易に多様性と訴えたところで、どうしたって外れていく人がいることを、どこまで意識できるだろうか。少なくとも私はこの本を読むまで、十分にピンときてなかったな、と思う。残り200ページもある、これから先どうなるのか本当に楽しみである。
話が逸れるようで逸れない。
コミックマーケットが週末にある。私は昨年初めて行ってみた、4630万円を受け取った人のコスプレが目に焼き付いている。午後に行ったので撤収している人たちも多かったが、本当にいろんな指向があるんだなあと感じた。
メタリカのヴォーカル、ジェームズ・ヘッドフィールドがインタビューで語っていたことを思い出す。
自分の子どもがソウルやラップを聴いていることに対して
「それはヒドい音楽だ、これを聴け!」という気持ちにはなる
でも子供たちの人生なんだ。オレは安全を守る保護者に過ぎない
彼らには彼らの道がある。好きな音楽を追求するように言ってるよ
誰かを傷つけるような音楽でない限りね
(出典:2010年11月11日放送、「MUSIC JAPAN overseas」のインタビューにて)
彼はそう語っていた。
上述した多様性を許容する範囲であるが、「誰かを傷つけない」というのがひとつの手がかりになるかもしれない。しかしながら。人間は些細なことで傷つく。傷つけないことが線引きになり得るか、と言われたら、自信を持ってそうとは言えない。人によって傷つく範囲や程度が違う。文化やその人が生きてきた歴史によっても、線引きは大きく異なる。
ふらふらと揺れる足場の上で、傷つく側、あるいは傷つける側にならないように、ずっと立っているようでもある。
悲しいことも多い。
だから人生は疲れる。
だるいのである。