砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

杉山登志郎『発達障害のいま』

2019-06-22 17:00:01 | 新書

『発達障害のいま』杉山登志郎

今日は新書を。
最近勉強をしています。私はもともと勉強ぎらいで、勉強から逃れるために万難を排しあらゆる努力を惜しまないタイプでした。しかし人にものを教える仕事をちょっとだけやっているので、こればかりは勉強しないわけにはいかない。そんなわけでがりがり勉強しています。ツライ、こころが乾燥わかめになっちまう。
しかしながら。いまさら気づいたのですが、興味のある内容を勉強するのってとても面白いですね。興奮する。脳からドパミンが出ているのを感じる。気になる、もっと知りたい、という気持ち。まるで水を得たわかめです、ウホホホホイ。


そんなわけで勉強の一環として読んだ本、『発達障害のいま』です。著者は発達障害研究の第一人者でもある杉山登志郎先生。先生は静岡の浜松の病院で勤務されている、児童精神科医です。

この本が面白かった。最近読んだ本のなかで一番わかりやすかった。わかりやすかったというか、情報量が多くて難しい内容も多いものの、非常によく整理されていた。もちろん1度読んだだけではしっくりきていない部分もあるので、少し時間をおいてもう一度読みたい。そんな本です。

本書では発達障害という概念が、臨床現場においていかに「補助線」となりえるか、いくつもの症例を引き合いに出しながら多角的に語っています。これまで見落とされてきた発達障害、特に軽度のASD。その特性-その人の独特の認知や感覚、思考-を理解することで、実生活で起きている不適応の正体を探っていく。

不適応の多くは対人関係ですが、それだけではありません。対人関係がうまくいかないことでいじめられ、不登校になったり学業不振になったり、不眠やうつになったり。あるいは育児の場面で虐待につながったり。発達障害の傾向が、その人の生活にどれほど大きな影を落とすのかがていねいに語られています。
そして発達障害が従来の精神疾患(気分障害、統合失調症など)と何が異なるのか、他の疾患と合併するとどうなるのか、ベースに発達障害があった場合のリスクはどうか、といった内容もうまく整理されています。

「発達障害は甘え」という放言は、一部のネット界隈を除けば見なくなりました。発達障害(ASD、ADHD、LD)というものがある、ということが認識されつつあるのでしょう。某ヤフーも時々イーライリリーのCMとか載ってるし、「大人の発達障害」という考えもずいぶん広まってきました。

でもそれが正しく伝わっているのだろうか、と疑問に思うことがあります。「発達障害」というものがあることは広まりつつも、とにかく療育だとか、早期教育だとか本人のペースを置いて努力させる方向に向かう人もいる。「発達障害だったらどうしよう!?」とか、実際は発達障害の疑いがあるのに「うちは全然気にしていませんけど?」みたいに問題直視できない人もいる。

根底にあるのは「不安」なのかなと思います。新しい概念が出てきた、でもどうしたらいいかわからない、それに伴う不安。この本で筆者はわかる部分での対応ははっきり書いていて、わからない部分はしっかり「わからない」と書いている。専門家としてなんと真摯な姿勢なんだろう。でもそれってとても大事なことなんじゃないかな、と思います。全部わかるわけじゃないけど、今ある材料のなかでなんとかやっていく。冷蔵庫の残りものでチャーハンを作る感じに似てますね。

本書は8年前のものなんだけど(初版は2011年発行)、それでも発達障害をめぐる正しい知見や情報が浸透しているかというと、そうでもないように感じるのです。もちろん一生懸命勉強している人もいるのだと思うけど、不勉強な私は本書を読んで目から鱗が落ちるような気になりました、ちゃんと勉強しないとだめだね。そしてこういう情報を適切に広めていくことも、臨床家の重要な役割なんだよな。努力しないと。


個人的に講談社現代新書はあまり好きでないのですが(装丁とかタイトルの感じとか)、これは買ってよかった。しかし新書にしては処方の分量も「炭酸リチウム〇mg、バルプロ酸ナトリウム〇mg」と詳しく書いてあるので、一般向けと言えるかどうかかなり怪しい。むしろ専門家の人が読んでも面白いと思う。

ひとつ悲しかったのは、うすうす気づいていたけど「発達障害系の人には力動的な心理療法の効果が薄い」と書かれていたこと。確かに、力動系の心理療法は相手にある程度の考える力があることを想定しています。しかしながら発達障害系の人は、考えたり顧みたりする能力が薄い。彼らの独自の認知があるし、それだけ感覚に圧倒されたり、「こうせねばならない」という思いが強かったりするのでしょうが。「そこを育てるのも大切」という人もいるけどなんせ時間がかかる。
うう…やはりCBTを勉強しなきゃいけないんだろうか。自分の興味のない分野を勉強すると、途端にこころが乾燥わかめになります、パリパリパリ。


なお私自身も(おそらく)能力に偏りがある人間です、端的に言って不注意です。患者が「財布を3回も落としたんですよ~」とかしゃべっていると(いや、私は5回落としたことあるけどな…)とか思います、笑えないぜ。最近一番大変だったのは、引っ越しの段ボールに新居の鍵を入れてしまっていたことです。あの時ばかりは急性のうつ病になりそうでした、笑えないぜ。

高橋和巳「消えたい」

2017-09-14 16:55:15 | 新書


これは本のタイトルです。私の現在の気持ちではありません、誤解なきよう...。
以前どこかで書いたようにちょっとずつ仕事が忙しくなってきて、それはそれでいいんだけど頑張っても嫌な思いをすることも時々あって、それが「ああ、前もこんなことあったよな」と古傷がうずくように懐かしく思うし、暇だったころが大変恋しくもあります。ないものねだりなんだな、結局。あっでも、ブログを書ける程度には暇です笑


さて本日紹介するのは、電車で読んでいると周囲から目をひそめられること請け合いの新書『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』。タイトルがすでにものものしいし、表紙に大きく「消えたい」とある。
でも内容はとてもよかった、橋本治の解説もぐっときた。さすがちくま文庫。とはいえ、わかりやすく描かれ過ぎていて少し物足りないというか、もっと読みたい、詳しく知りたい気持ちになったけど、まあ新書だしな。続きは専門書で、ということなのだろう。

本書は精神科医によって執筆されている。筆者が臨床を通じて、虐待を受けた人の人間としてのあり方、いわゆる「通常の家庭」で育ってきた人とどう違うのか、どんな痛みや苦しみがあるのか、世界をどんなふうに「認識」しているのか、症例に触れながら語られている。それがひとつの物語になっているため、読みやすいしわかりやすい。文体も簡素で飾ったところがないためするする読める(精神科医にありがちなのだが、もってまわった書き方をする人も結構いる。それが必要な表現であれば構わないけれど、そうでない場合も多々ある、残念)。
じゃあ内容もするする入ってくるかと言うと全然そんなことはなく。当たり前だけど「ひとりの人」の虐待の体験がいくつも描かれているわけだから、読んでいるとかなり苦しくなる。重松清の『疾走』とまでは言わないけれど、ある種の救いがたさ、「なにか他の方法はなかったんだろうか...」といったもどかしさ、「どうしてそうなってしまったんだろう?」という憤りや諦観の思い、そんな気持ちが自然と湧き上がってくる。でも残念ながら、自分にはどうしようもないことである。この「どうしようもなさ」を、虐待されていた人も無意識のうちに感じていたのかもしれない。
それから、こういう言い方が誰かを傷つけるかもしれないことは重々承知しているのだが、自分は幸福に育ってきたのだろうな、ということに思い至る。そりゃ多少なりとも傷つくことはあったけれど、爪を剥がれたり冬に外に出されて水をかけられたりすることはなかったから。自分の今の生活はどうなんだろうか?そういったことを振り返って考えるきっかけにもなる本だと思う。

全部ハッピーエンドに終わらないあたりもリアルだ。治療が進むにつれて今までの対人関係の持ち方を見直し立ち直っていく人もいれば、せっかく治療に結びついたかと思うと、人を信じることが出来なくて去っていく人もいる。結局、今まで身に着けたパターンを繰り返してしまっているのだ。それくらい虐待という行為が人間の根幹を揺るがす行為なのだろう。簡単に治るものではない。


日本の貧困が進むにつれて、たぶん虐待は少しずつ増えていくような気がする。経済的に不利な家庭ほど虐待のリスクが高まることが研究で示されている。その一方で、日本の子どもに対する手当などは先進国でも最低レベルらしい(阿部 2008)。オリンピックもいいけれど、そんなことしている場合なんだろうか。昔やってうまくいったことにしがみついている気がするのは私だけだろうか。


そういえば個人的に大変尊敬している児童精神科医が「子どもを大事にしない国に将来はない」と講演で話していたのが印象に残っている。少年の犯罪は減っているかもしれないけれど、そして「自己責任論」が大手を振って歩いているけれど、本当にそれでいいのだろうか。ある時期から急にはやり始めたけど、個人的に自己責任論は大嫌いである。人間ってそんな簡単に一人で生きていけない存在なんだから、完全に自分の責任だけで生きていけるわけないだろっていう。そういう風な考えが広まると、結局社会的弱者が野放しになるだけだと思うのだが。そうやって生きていく人が大半を占める社会は、なんだか寂しい気もする。こんな世の中でも人々は幸せになっていると言えるのだろうか。