(昨日の続き)
このように1858年以来100年以上に及ぶ因縁の歴史を持ち、核戦争の危機にまで悪化した中ソの領土問題ですが、20世紀も終わりに近づいた時に転機を迎えます。1985年にゴルバチョフがソ連の最高指導者に就任すると、新思考を旗印に、ソ連外交におけるペンディング・プロブレムの解決に乗り出します。未納分の国連分担金の支払いから始まりアフガニスタンからの撤退などに着手し、1989年には訪中し、中ソ対立は解消に向かいました。1991年5月に中ソ国境協定(中露東部国境協定)が結ばれ、紛争の焦点となったダマンスキー島は中国に帰属することになりました。その半年後にソ連は崩壊しましたが、新生ロシアが交渉を引き継ぎ、1994年には中央アジア部分に関する中露国境協定(中露西部国境協定)が結ばれ、中央アジア部分の国境問題も解決しました。その後も、残存した大ウスリー島(中国名:黒瞎子島)の帰属問題も、2005年にプーチン大統領により中国側に引き渡すことで合意され、2008年までに中ロ間の国境問題はすべて解決したと宣言されています。これらの地域は旧ソ連・ロシアが実効支配していましたが、ロシアが中国側に譲歩したとされています。
実際に軍事衝突を起こし核戦争の危機にまで至った中ロの領土紛争がこのように1991年から2008年までに解決されたという先例は重要です。日本の官民も、その経緯を十分に研究して、尖閣、竹島、北方領土問題の解決に応用すべきと思います。ゴルバチョフからプーチンに至る旧ソ連・ロシアの指導者が中国側とどのように交渉したかの情報を十分に収集する必要があります。特に、彼らがどういう判断で中国側に譲歩をしたのか?一方、中国側の小平などの指導者はどのように譲歩を引き出したのか?(こういう先例を見るとゴルバチョフ政権時代に、日本も少なくとも歯舞諸島と色丹島は、やりようによっては回復できたかもしれません)現状ではあまりそうした先例を日中外交に応用できていないように見えますので、まずそういう検討から始める必要があるのではないでしょうか。
参考:北大スラブ研究センターの岩下 明裕氏の論考 http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition21/churo.html