白鳥陵古墳へ向かう竹内街道沿いにあった小さい神社。
「村の鎮守の神社が残ったものかな~」と思いつつも
聞きなれない「軽羽迦神社」って名前が気になった。
とは言え神社の名前は
とって付けたような小さな碑が立ってるのみなんだけけど
帰って調べてみたら
関西デジタル・アーカイブに載っていたので、
そのまま引用させて頂く
『現 在の軽羽迦神社(かるはか)は戦後建てられたもので、最初は白鳥陵古墳の濠の横の祠に祭ってあったとされています。その後誉田八幡宮に一時預けられ、現在は白鳥陵古墳の隣に移されました。今でも白鳥陵古墳の濠の横には小さな祠が残っています。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を主神とし、蔵王権現(ざおうごんげん)と熊野権現(くまのごんげん)の二神を合祀し、合計三神を祭っています。隣には白鳥古墳があり、日本武尊(やまとたけるのみこと)か、素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭っているのが当然と思うのですが、全く異質の神が祭られているのには驚きです。 』
一風変わった神社の名前について
「かむながらのみち」と言うブログの中で天地悠久さんが
『注目すべき点はやはり「軽」でしょうか。大和国高市郡の「軽古」(橿原神宮の南)、軽樹村坐神社が鎮座します。第8代孝元天皇の軽境原宮も。現在も「大軽町」という地名が残っています。
衣通姫との近親相姦で流罪となった木梨軽皇子(衣通姫伝説)や衣通姫(軽大郎女)。また第36代孝徳天皇、第42代文武天皇は軽皇子と呼ばれていました。
「軽(刈)」は古代朝鮮語で鍛治の意味を持ち、関連も十分に考えられます。いずれにしても注意が必要な文字。
一方「羽迦」は「波波迦の木」を連想させます。天香山の波波迦の木は鹿の骨とで、天岩戸神話において占いに用いられていますし、大嘗祭の悠起田を決める占いは葛木坐火雷神社の波波迦の木をもって行われています。
「軽の墓」が転じて「軽の羽迦」になったという安直な説もありますが、少々気になる神社です。』
衣通姫との近親相姦で流罪となった木梨軽皇子(衣通姫伝説)や衣通姫(軽大郎女)。また第36代孝徳天皇、第42代文武天皇は軽皇子と呼ばれていました。
「軽(刈)」は古代朝鮮語で鍛治の意味を持ち、関連も十分に考えられます。いずれにしても注意が必要な文字。
一方「羽迦」は「波波迦の木」を連想させます。天香山の波波迦の木は鹿の骨とで、天岩戸神話において占いに用いられていますし、大嘗祭の悠起田を決める占いは葛木坐火雷神社の波波迦の木をもって行われています。
「軽の墓」が転じて「軽の羽迦」になったという安直な説もありますが、少々気になる神社です。』
との説を論じらている。
なるほどな~。
きっどさんは「迦」の文字から迦楼羅天を連想したけど、
でんでん違うかったなー
神仏習合的なとこだけやったなー。