昨日から急に朝夕が涼しくなり過ごしやすい気温になった。通勤電車の中をみても長袖シャツの人の方が多い。
前回と前々回からの続きである。
もし、このブログ記事を初めて目にする方は是非、このタイトルをさかのぼってみていただきたい。
フランス現代思想の大家「内田 樹」の言う「自分のため」と「他の人のため」
「王貞治、イチロー」の言う「自分のため」と「他の人のため」の差異をはっきりさせよう。
一流選手にとって、「数字」(タイトル)も「タイム」も、自分の記録でさえ、振り回されてはいけない、拘泥してはいけない他者なのである。
王の言う「自分」も、イチローの言う「胸の中にある石」も、外発的な他者性を排除し、内発的な目的意識を研ぎ澄ました「自分」である。
そこには、排他的、利己的な「自分のため」という響きはない。内田の言う「自分のため」とは違う。だから、他者への波及効果という逆説的な結果を生む。
イチローの自己探求は小久保を成長させたし、王貞治は「自分のためにやってる人が結果的にはチームのためになる」と述べた。
そして、サッカーで有名なクリスチアーノロナウドは「誰もひとりでは勝てない。利他主義こそ不可欠なのに、多分これまでの僕は、自分のこと、自分の記録のことばかり考えていた。今は違う。チームのために働ける選手になった」、「与えるものにこそ、与えられるのだ、ということを僕もようやくわかるようになったんだ」(Number871号)と吐露していた。
とすれば、「他の人のため」のボランティア活動にも「自分のため」という側面があるのではないだろうか。東北の震災の時には、ボランティア参加者が、しばしば「私たちの方が元気をもらいました」と口にした。その行為を通じて自分を見つめ、「胸の中にある石」を磨くという意義が生じていたのだろう。
というわけで、内田の言う「自分のため」が、報奨のような外発的な動機づけによる利己亭な目的を指す。王の言う「自分のため」は、内発的な動機づけによる自己完結的な目的を表し、他者の利益に対して寛容である。
内田の意見は、働かない若者が働くようになるための処方箋であり、王貞治やイチローの言説は、一流の人間における不屈の精神に触れたものである。