青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

ポポポポーン

2011年04月03日 22時47分43秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 私の自宅にはテレビがないのですが、
 最近はこの「あいさつの魔法」のCMが、飽きるほど流れてるんですってね。

 いろいろ言われているようですが、私はなんか気に入ったので、
 このCMの曲を探してメールの着信音にしています。

 あいさつの魔法 60秒ver. フル
 


 テレビをお持ちの皆さんから不評なのが玉に瑕(きず)ですが、
 気にしない、気にしない(笑)
 なんかメールが来るのが楽しみになりました。

お昼寝…

2011年04月03日 17時51分27秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 今日はなぜか目覚めが早かったのですが、
 お昼頃から急な睡魔が襲ってきて…


 15分ばかり眠るつもりが、なんか結構寝ていました(笑)

 気持ち良かったからいいか、うん。
 深呼吸しながら寝ると、目覚めもよいものですねヾ(*^▽^*)o

物を悪者にしない。

2011年04月03日 12時39分19秒 | 青裸々日記。
オキザリス(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「あれは醤油が濃過ぎた」
 「具の量を増やしてもよかった」
 「とろみというか、片栗粉が足りない」
 料理を作っていて失敗してしまうと、つい材料のせいにしてしまいがちです。
 しかし、本当に口に合わない理由は、全て材料のせいでしょうか!?
 どんな料理も人間が手を加えているのですから、
 味や盛り付けの責任も、本当は作った誰かしらにあるのです。
 それを物のせいにするほど、上手く扱えるものも敵になってしまうのです。


 以前、通り魔事件でナイフの規制が強化されましたが、
 私はそんなことよりも、ナイフを正しく使う教育をしっかりさせるほうが大切だと思っていましたが、
 最近、改めて思うのです。
 刃物の規制も行き過ぎると、鋭利なものは結局なんにも使えなくなってしまう。
 それに、刃物を悪者にしているうちは、「刃物を使ってなにがしかのことをしてやろう」とする悪しき精神は退治できません。
 悪しき精神ひとつあれば、どんなものだって悪く使おうとすることは、目に見えていますよね。
 だから、物のせいにしていくと、「もぐら叩き」のように網の目のように規制を敷かなければならなくなる。
 結局、どんな使い方や扱い方を教育すること、そしてものを大切に正しく使う心を育むのが一番なのです。


 何気なく生きているだけでも、振り返ってみれば普段からいろんなものの恩恵を受けて生きているものです。
 それを、都合が悪くなった途端に掌を返すが如く文句を言い、
 これまで恩恵を受けてきた自分の責任についてはないかのように言う、
 こんな人は、どんなものを使っても最終的には自分の力として使うことは出来ないように思います。


 せっかく与えられたものです。
 正しい心を持って、正しく使う
 それが出来なければ、最初から触れないことです。
 あるいは、どうしても使いたいものがあれば、しっかり扱い方を勉強することも大切です。


 「物には魂がある」と言われます。
 本当かどうかはともかくとして、よく言っているに越したことはなさそうです。
 「心と物」の組み合わせが「悪い心で悪く使う」か「正しい心で正しく使う」、「未熟な心で未熟に使う」だけなら、
 結局、人間さえしっかりしていれば、どんなものだって味方に出来るのです。
 

嫌なものを見たがる心理。

2011年04月03日 00時06分08秒 | 青裸々日記。
芝桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「好きの反対は嫌いではなく無関心だ」と言われます。
 私はさらに上を行って「嫌い→無関心→危険」という見方を、前々から提唱しているんです。
 だって、明らかに有害なものだったら無関心とか悠長な能書きを垂れる前に逃げなきゃ、身が危ないじゃないかと思いませんか!?
 だからつらい気持ちがわかるとは言えど、「嫌い」とか言えているうちは、まだまだ幸せだったりもするのです。


 さて、「嫌い」とか「関わりたくない」というランクについても沢山話せそうなのに、
 「怖いもの見たさ」とか「むかつくのになんか気になる」という心理が出てしまうのでしょうか!?
 どうしても嫌な気分を掻き立てるものならさっさと逃げるか遠ざければよいのに、
 なぜ意識したり、気を向けてしまうのでしょうか!?


 それは、未完了の感情、有り体に言えば「トラウマ」を抱えているからという理由が多いのではないかと、私は思うんです。


 愚痴っぽい人。
 悪口が絶えない人。
 横柄な人。
 約束を守らない人。
 不誠実な人。

 いますよね、一人や二人。
 簡単には直らないそんな曲がった性格、文句を言うだけ言って、あとは放っておけばよい。
 自分を苦しめるような奴なんだから、勝手に要らぬ苦労をしていようが、
 関わらない限り「めでたしめでたし」で、いつだってご機嫌でいられます。
 もちろん、優しい人や愛情深い人ほど「この人困っちゃうから、なんとか気づかせてあげよう」と、
 あの手この手で「説得や改心」を出来ないか、頑張ってしまう、それはそれでよいわけです
 (※ただし、それで自分の気分を害したり怨まれたり…というリスクを背負う覚悟を出来ていれば、の話ですが…)。

 問題は、意識を外せばそれでよいようなものに、わざわざ気にしてしまうこと。
 こういう場合、たいていその人と同じような忘れがたい失敗を、自分も過去に犯しているものなのです。
 過去の自分を重ねて、フィルターを通して相手を見てしまうのです。


 こういうケースでは、結局は自分とどう折り合いを付けるかが大切なのです。
 自分なりに学んでいない点や未熟な点を振り返ってみると、たいてい修正点が見つかるのです。


 …ただし。

 人間、一通りは失敗をしているものです。
 赤ちゃんの頃から振り返ってみれば、歩けるようになるまでは、みんな嫌なほど転んでいます。
 言葉だってそう。
 大人ですら言葉で上手く伝えるのが難しいことがあるのに、
 子供であればなおさら、語彙にしても発音にしても未熟なわけです。
 お箸だって、きちんとしつけてもらって練習して、
 はじめて持てるようになる。

 …と、つまりは「一通りの失敗なんか誰でもしているのに、
 なんでその方面や分野に関しては特別に好き嫌いが激しく、気に障ってしまうのだろう
」という考えが必要なのです。

 誰にだって好き嫌いはある。
 しかし、本当は好き嫌いなんか少ないほうが、多くのものを楽しめたり、可能性も広がるのが世の常です。


 「嫌い」と「関心」がくっついたもの、
 それは案外、「自分への宿題」なのかもしれませんよ。

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