山桜(埼玉県秩父市)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
意味のなさそうなものに意味を与え、
無駄なものを生産的に、
絶望を希望に、
つまり、「無から有を」というのが、ポジティブ思考の特徴です。
より多くの時間や財産、幸せを生み出そうという考えは誰しも同じです。
こういうわけで、人は誰しも、よりポジティブでありたいと願っているわけです。
しかし、ややもすれば「ポジティブ思考」って、疲れるものだったりもするんですね。
「無から有を生み出す」と口で言うのは簡単ですが、
「不幸そうに見えること」
「落ち込むのも無理はないと思えるもの」
こんなものに出くわすたびにいちいち解釈を加え直すのですから、
労力がかからないほうがおかしいのです。
もし「ポジティブ思考に疲れた」という人がいたら、
まずはこの点を認識する必要があります。
さて。
私達は人間ですから、身体と同じように、心だって疲れることがあっても、
それは至極当たり前のこと。
「ポジティブになれないから」と言って、それを情けなく思う必要はないのです。
私が思うに、ポジティブ中毒になると、自分に素直に向き合えなくなるのではないかと考えます。
たとえば、階段で転んで、「弁慶の泣き所(膝の下の、肉が薄い部分)」を打ってしまったとします。
これをポジティブに考えると、一例としては「打ち身位で済んでよかった、運が良いな」という解釈はできます。
しかし、「ポジティブだ! ポジティブだ!」と一つ覚えでいると、
「痛かったな」というネガティブな気持ちに蓋をすることにもなりかねません。
そうやって感情に蓋をし続ければ、心は麻痺します。
麻痺しても無理を続ければ、なんだか正体のわからない、鵺(ぬえ)のようなドローっとした重荷を抱えたまま、
いつか爆発してどうにかなってしまうことを、ただ待つばかりになってしまうのです。
本来は味方になるハズのポジティブ思考も、
無理が祟れば心身を蝕まれてしまうのです。
本来、ポジティブ思考というのは物事の解釈の幅を拡げるためにするものです。
ポジティブ一辺倒な人より、悪いものを熟知し、ネガティブなものを十分に汲み上げる感性は、
ネガティブな気持ちがあって養われるもの。
意外なようですが、よりポジティブになるためには、ネガティブな思考が欠かせないのです。
ポジティブ思考というのは、欠点に目をつむるインチキ商法まがいな考え方ではなく、
悪い部分にもちゃんと目を向けることで活きるものなのです。
「痛い」ものは痛いし、「悲しい」ものは悲しい。
そこを無視するのではなく、ハッキリと痛さや悲しさを感じてこそ、
前向きな光を当てられるのです。
素直に感じる。
その感じたものに、解釈を加える。
「感じること」と、「解釈を加えること」は、
違いがわかりにくいものではありますが、本当は別問題なのです。
ポジティブな人ほど、実はネガティブです。
よりネガティブな人ほど、よりポジティブになる可能性があるのです。
「ネガティブ思考」というものは、本当は怖れるべき存在ではないのかもしれません。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
意味のなさそうなものに意味を与え、
無駄なものを生産的に、
絶望を希望に、
つまり、「無から有を」というのが、ポジティブ思考の特徴です。
より多くの時間や財産、幸せを生み出そうという考えは誰しも同じです。
こういうわけで、人は誰しも、よりポジティブでありたいと願っているわけです。
しかし、ややもすれば「ポジティブ思考」って、疲れるものだったりもするんですね。
「無から有を生み出す」と口で言うのは簡単ですが、
「不幸そうに見えること」
「落ち込むのも無理はないと思えるもの」
こんなものに出くわすたびにいちいち解釈を加え直すのですから、
労力がかからないほうがおかしいのです。
もし「ポジティブ思考に疲れた」という人がいたら、
まずはこの点を認識する必要があります。
さて。
私達は人間ですから、身体と同じように、心だって疲れることがあっても、
それは至極当たり前のこと。
「ポジティブになれないから」と言って、それを情けなく思う必要はないのです。
私が思うに、ポジティブ中毒になると、自分に素直に向き合えなくなるのではないかと考えます。
たとえば、階段で転んで、「弁慶の泣き所(膝の下の、肉が薄い部分)」を打ってしまったとします。
これをポジティブに考えると、一例としては「打ち身位で済んでよかった、運が良いな」という解釈はできます。
しかし、「ポジティブだ! ポジティブだ!」と一つ覚えでいると、
「痛かったな」というネガティブな気持ちに蓋をすることにもなりかねません。
そうやって感情に蓋をし続ければ、心は麻痺します。
麻痺しても無理を続ければ、なんだか正体のわからない、鵺(ぬえ)のようなドローっとした重荷を抱えたまま、
いつか爆発してどうにかなってしまうことを、ただ待つばかりになってしまうのです。
本来は味方になるハズのポジティブ思考も、
無理が祟れば心身を蝕まれてしまうのです。
本来、ポジティブ思考というのは物事の解釈の幅を拡げるためにするものです。
ポジティブ一辺倒な人より、悪いものを熟知し、ネガティブなものを十分に汲み上げる感性は、
ネガティブな気持ちがあって養われるもの。
意外なようですが、よりポジティブになるためには、ネガティブな思考が欠かせないのです。
ポジティブ思考というのは、欠点に目をつむるインチキ商法まがいな考え方ではなく、
悪い部分にもちゃんと目を向けることで活きるものなのです。
「痛い」ものは痛いし、「悲しい」ものは悲しい。
そこを無視するのではなく、ハッキリと痛さや悲しさを感じてこそ、
前向きな光を当てられるのです。
素直に感じる。
その感じたものに、解釈を加える。
「感じること」と、「解釈を加えること」は、
違いがわかりにくいものではありますが、本当は別問題なのです。
ポジティブな人ほど、実はネガティブです。
よりネガティブな人ほど、よりポジティブになる可能性があるのです。
「ネガティブ思考」というものは、本当は怖れるべき存在ではないのかもしれません。