羊山公園の芝桜(埼玉県秩父市)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
世の中、いい人もいれば悪い人もいます。
あるいは、気分や環境によって性格や態度が違ってしまう、
本当は誰だって、そういう側面は持っているわけです。
さて、いい人はともかく、嫌な人や元気を奪い去るような人がいると、
時に我慢ならなくなってしまうこと、あると思うんです。
怒ったり恨んだり悲しんだり、あるいはなんらかの復讐をせずにはいられないような、
そんな感情に心が支配されてしまうことだって、
大多数の人は経験しているハズ。
まして、自分や仲間、身内に傲慢不遜を働いた人が自分を差し置いて幸せになろうものなら、
「こんなふざけた話、あるもんか!」と、胸が引き裂かれる思いに駆られるかもしれません。
しかし私はあえて、逆のことを考えてみたいのです。
全ての人の幸せ、特に自分を傷つけた人の幸せを、盛大に願う考えもあるのではないか?と思うんですね。
たとえば、人の痛みがわからない人がいたとします。
その場では、人を踏みにじる姿が、幸せそうに見えるかもしれない。
しかし、「人を痛め付けること」がその人にとって本当に幸せなことなのか!?というと、
私は違うと思うんです。
付き合ってくれている人を大切にせず、一人また一人…と自分の元から去っていき、
最後の一人までいなくなってしまえば、改心しますよね。
そして、「人を傷つけなくても幸せになれるんだ」と、本当の意味で健全な人間関係を育む、
これこそが、本当に幸せなことのハズです。
人間、人の幸せを願っているほど、自分もまた幸せでいられたりもするのです。
「人を呪わば穴二つ」と言いますが、
人の不幸を願っている時って、たいてい気分は良くないもの。
「嫌な奴」であればこそ、バチが当たってほしいと思うのは自然な考えではありますが、
せっかくバチが当たっても改心せず、さらに嫌なことを繰り返すようでは、こちらまで不幸になってしまいます。
だからこそ、嫌な人がいても、幸せを願ってしまうほうが精神的には楽だし、無駄な心労を重ねることもないのです。
もちろん、不当な扱いに抗議することは必要ですし、
自分自身が「バチを当てる役」をやらなければいけないかもしれない。
あるいは、「この文を読んだだけだと、少し腹黒い話みたい」という印象も、もしかしたらあるかもしれません。
しかし、「好きな人の幸せ、身近な人の幸せだけでなく、知らない人や嫌な人まで、一人残らずみんなが幸せになってほしい」と考えたり思ってみると、
自分を取り巻くものの視点がパーッと開けてくる人も、必ずいると思うのです。
幸せは、奪い合うものではありません。
むしろ、自分から差し出すのが幸せの形の一つです。
一人でも多くの人が、幸せでありますように。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
世の中、いい人もいれば悪い人もいます。
あるいは、気分や環境によって性格や態度が違ってしまう、
本当は誰だって、そういう側面は持っているわけです。
さて、いい人はともかく、嫌な人や元気を奪い去るような人がいると、
時に我慢ならなくなってしまうこと、あると思うんです。
怒ったり恨んだり悲しんだり、あるいはなんらかの復讐をせずにはいられないような、
そんな感情に心が支配されてしまうことだって、
大多数の人は経験しているハズ。
まして、自分や仲間、身内に傲慢不遜を働いた人が自分を差し置いて幸せになろうものなら、
「こんなふざけた話、あるもんか!」と、胸が引き裂かれる思いに駆られるかもしれません。
しかし私はあえて、逆のことを考えてみたいのです。
全ての人の幸せ、特に自分を傷つけた人の幸せを、盛大に願う考えもあるのではないか?と思うんですね。
たとえば、人の痛みがわからない人がいたとします。
その場では、人を踏みにじる姿が、幸せそうに見えるかもしれない。
しかし、「人を痛め付けること」がその人にとって本当に幸せなことなのか!?というと、
私は違うと思うんです。
付き合ってくれている人を大切にせず、一人また一人…と自分の元から去っていき、
最後の一人までいなくなってしまえば、改心しますよね。
そして、「人を傷つけなくても幸せになれるんだ」と、本当の意味で健全な人間関係を育む、
これこそが、本当に幸せなことのハズです。
人間、人の幸せを願っているほど、自分もまた幸せでいられたりもするのです。
「人を呪わば穴二つ」と言いますが、
人の不幸を願っている時って、たいてい気分は良くないもの。
「嫌な奴」であればこそ、バチが当たってほしいと思うのは自然な考えではありますが、
せっかくバチが当たっても改心せず、さらに嫌なことを繰り返すようでは、こちらまで不幸になってしまいます。
だからこそ、嫌な人がいても、幸せを願ってしまうほうが精神的には楽だし、無駄な心労を重ねることもないのです。
もちろん、不当な扱いに抗議することは必要ですし、
自分自身が「バチを当てる役」をやらなければいけないかもしれない。
あるいは、「この文を読んだだけだと、少し腹黒い話みたい」という印象も、もしかしたらあるかもしれません。
しかし、「好きな人の幸せ、身近な人の幸せだけでなく、知らない人や嫌な人まで、一人残らずみんなが幸せになってほしい」と考えたり思ってみると、
自分を取り巻くものの視点がパーッと開けてくる人も、必ずいると思うのです。
幸せは、奪い合うものではありません。
むしろ、自分から差し出すのが幸せの形の一つです。
一人でも多くの人が、幸せでありますように。