ペチュニアの花(東京都港区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
優れたものを持っている人を見ると、自分の価値に疑問を持ってしまうことがあります。
たとえば、能力とか、人柄とか、持っているものだとか、
相手が自分より上であるほど、比べたり隣にいるのが嫌になってもしまうもの。
「あの人はなんでそんなに素晴らしいものを持っているんだろう、それだと隣にいる自分がかすんでしまう」と、
自分の存在理由に疑問を持ってしまうのも、無理はないのかもしれません。
ところで、「松竹梅」という言葉を、どこかで耳にしたことはないでしょうか!?
「松竹梅」というのは料理のランクを示すもので、上から「松→竹→梅」の順になっています。
そうすると、つい最上位の「松」に目が行ってしまいそうなものですが、
忘れてはいけない点がひとつ。
「梅」だって、立派な商品の一つであることには、なんら変わりはないのです。
「腐っても鯛」というと言葉は悪いですが、一番下の「梅」にも、十分価値はあるのです。
私達は力を十分に発揮することて、生き甲斐を感じるもの。
自分の持っているものをできるだけ多く使えば、やれることも出てきますし、助かる人も増えます。
しかし、劣等感を感じると、せっかく持っているものの価値が、あたかも「0」、つまり全くないように錯覚してしまう。
この劣等感が、持っているものの価値を見えにくくします。
でも、本当に価値がなくなったわけではない。
たまたま側にいる人にちょっと至らないというだけで、自分の能力や価値、実力だって、
本当はきちんとあるハズなのです。
そしてまた、至らないものだからと言って出し惜しみしていては、
本当は出来ることも、できなくなってしまう。
また例え話になりますが、目の前で泣いている人がいたとして、
「私はあの人ほど優しくないから」と言って慰めないままでいるか、
「自分は至らないかもしれないけど、私なんかでも助かるなら」と構ってあげるかでは、
どちらが人を幸せにできるかは、もう言うまでもないと思うのです。
「自分はどうせ…」というのはしかたがないにしても、たとえ素晴らしいものがなくても、
出来る範囲のことを精一杯やるだけで、最後には素晴らしいものができるかもしれない。
料理でも人間でも、「梅だから」と言って腐らすのは、もったいない話だと思うのです。