地名由来「千草」 宍粟市千種町
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「千草」
■千草(ちくさ)
現千種町の南部中央、千草川とその支流岩野辺川との合流点に位置する。古代の敷草(しきくさ)村、中世の千草村(千草郷)の遺称地。地名は、国争いをした神に対して草を敷いて神の座とした、敷草(シキクサ)を「シクサ」と縮め、さらに「チクサ」と訛ったといわれる。
【近世】千草町(ちくさまち) 慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年(1746)出羽国山形藩領、宝暦2年(1752)~13年(1763)上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩領となったほかは幕府領。
千草谷11カ村のうち岩野辺村に次ぐ大村であったが、草山がほとんどなかった。そのため牛馬の飼料・肥料用に他村からもらい刈をし、なかでも東河内村に大きく依存、年二回酒五升宛を代償とした(千草区有文書)。宝永5年(1708)の「宍粟郡誌」に「商農ならび住居し、あたりに美作への通路近し、並びに鉄山も有し故、交易賑はしく酒屋六軒有、(中略)また十二月廿四日には年々の市立つなり。甚だ賑々しきことなり」と町場の状況が記される。西蓮(さいれん)寺、西方(さいほう)寺が所蔵する過去帳、および貞享・元禄年間(1684~1794)の戒名肩書に鍛治屋・鉄屋・紺屋・米屋・豆腐屋・風呂屋などの職名のほか、大門屋・伊勢屋など屋号付きが18戸あり、時代が下るにしたがい綿屋・油屋・魚屋・紙屋・塗師屋・漆屋・木地屋・仏師と多彩になる。このことから当町が鉄山荷物・商人荷物・農林山物の集散地として千草谷の経済の中心地であったことがうかがえる。明治18年に千草鉄の名で知られた周辺村々が終焉、蹈鞴製鉄を背景に繁栄した千草町の賑わいも激減した。
神社は、大山祇命を主神とする大森神社。浄土宗教信院西蓮寺がある。貞観8年(866)教信が黒土の平田で死去、庵のある賀古駅(現加古川駅)から遺体を引取りにきたが、教信を慕う千草の道俗は応ぜず、ついに相論となった。役所の裁決によって首と胴に分けて両地に埋葬・供養したと伝える。ちなみに現加古川市の教信寺開山堂には、蓮華座の上に頭部だけの木像が安置されている。西連寺では毎年3月9日から15日まで多数の僧が集まって七日間大念仏を修し、千草念仏と称された(宍粟郡誌)。ほかに浄土真宗本願寺派長永寺(もと真言宗)と正福寺がある。正福寺は慶長18年(1613)建立、開基は円秀、万治3年(1560)本仏・寺号下付という(末寺帳)。
天正8年(1580)羽柴秀吉軍の攻略により、当地まで落ち延びてきた長水城城主宇野祐清とその父政頼や重臣たちは地内新宮峠で自刃したといわれる。字大寺には江戸時代初期に瑠璃寺(現南光町)院主真賢(政頼の末子)や旧臣たちによって建立されたとみられる供養塔があり、供養塔は宇野氏の※五輪塔四基とその重臣十二人の名と「女房二人」の文字が刻まれた板碑一基からなり、お塚さんとよばれている。
【近世】千草 明治22年~現在の大字名。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。明治22年三河村(現南光町)への道が開通。それまで坂や峠越しに人・馬・牛で運ばれていた物資が荷馬車で運ばれ、郡の中心山崎町と交易できるよういになった。大正12年初めて電灯がつく。昭和7年に電話がつき、学校・役場・医師ほか町筋の商家20戸が加入。
◇今回の発見
・すぐれた鉄を産出して栄えた千種町の中心地、千草町には、多くの職人・商家で賑わったとある。千種と山崎を結ぶ、下河野から三河を通り山崎への道ができたのが明治22年。それまでは、重い荷物を背負い、あるいは牛馬に頼っての峠(塩地峠450m)越えは厳しく、まして冬場の積雪時は身動きできなかったに違いない。
・大正12年に電灯がつき、昭和7年に電話がついた。電力は黒土川の水力発電による。