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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西徳久・東徳久・平松」

2019-12-22 18:28:03 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西徳久・東徳久・平松」  南光町(現佐用町)
【閲覧数】2,294 件(2010.9.24~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■西徳久(にしとくさ)

 千種川中流右岸。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。光田(こうだ)・横畑(よいこはた)・森光(もりみつ)・高下(こうげ)・萩原(はぎはら)・本明(ほんみょう)の6集落が河岸に点在する。江戸期においては、東徳久、下徳久とあわせて徳久村と称したという。寺院は慶長10年(1605)草創の西蓮(さいれん)寺がある。高下のごうろ山で明治20年(1887)に石材採取中、巨石の下から長さ42cm余の弥生時代の細形銅剣が発見された。この銅剣は県指定文化財で、現在東徳久天一(てんいち)神社に所蔵。

 明和元年(1764)、同5年(1768)・8年(1771)・9年(1772)は洪水。寛政年間(1789~1801)から明治19年まで洪水11、天明元年(1781)から同 (1784)年まで日照時間少なく洪水11回、干ばつ6回。洪水のたび護岸の決壊、田畑の流失で、農民の苦労が多かった。明治7年東西小学校を西蓮寺に設置、同9年3校を合併した有隣小学校を当地に置く。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年から南光町の大字。

 明治25年前後から郡役所が畜産・養蚕を奨励、年ごとに盛んになり、昭和30年ごろまで続いた。ほかに婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきた。明治期後半から荷車・自転車が入り、大正期になると急増して生活が便利になった。大正12年電気架設、道路改修も行われた。
 



■東徳久(ひがしとくさ)

 千種川中流左岸。灌漑用水池が6か所ある。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。殿山西麓に矢能(やのう)、阿賀野(あがの)、保井(やすい)、鎌屋(かまや)・間村(まむら)・殿崎(とのざき)の6集落が円弧状に連なる。矢能集落西端の丘陵上には砦跡があり、附近に室町時代初期と推定される五輪塔2基がある。殿崎には中世の徳久城の跡があり、殿崎集落や北麓の平松集落に落城にまつわる伝承が残る。

 氏神は吾勝(あかつ)神社で、ほかに式内社の天一(てんいち)神社があり、参道には天神降臨の岩もある。寺院はない。

 千種川氾濫による災害よりも、台風と干害の被害が多い村であった。明和8年(1771)干害、安永9年(1780)氷害、寛政4年(1792)、文化12(1815)・13年、明治16年風害があった。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年南光町の大字となる。

 明治25年頃から、郡の指導によって畜産・養蚕に意を注ぎ、繭は大正10年には明治28年の100倍の販売量に達した。またナシ・モモなど果樹栽培にも励み、大正10年ナシの集荷2,500貫(佐用町史)。一方、冬期の婦女子は副業として、わら芯切りに励んだが、時代の推移とともに副業は成立しなくなり、昭和30年頃に完全に姿を消した。
 平成4年から平成8年にかけ東徳久遺跡の発掘調査により、古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見され、製鉄操業が盛んであったことが裏付けられた。




■平松(ひらまつ)

 千種川中流域、城山山麓。地名はゆるやかな山麓の土地であることに由来するか。
城山の徳久城(柏原城)は羽柴秀吉にせめられて落城。地内には地頭の首塚があり、昔、武者姿の踊りが、首塚に奉納していたと伝える。
 神社は吾勝神社で、境内は武者踊りの場になっている。寺院はない。明治22年と徳久村の大字となる。昭和30年からは南光町の大字。

 明治30年前後から郡の指導によって畜産・養蚕に力を注ぎ、婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきたか昭和25年前後に副業はなりたたなくなる。江戸期以降度重なる天災に悩まされながら、克服して農業を維持してきた。大正12年電気架設。





◇今回の発見
・佐用郡は播磨風土記にも記載されるほどの古くから鉄の産地で、140か所以上の多くの製鉄遺跡が残る。さらに中世の砦・山城跡、宝篋印塔、五輪塔等の遺構が数多く残る地域であるということ。
・佐用郡は近代畜産・養蚕が盛んであった。そのうち東徳久・安川が繭産地の中心地としてあげられる。

地名由来「下徳久・林崎」

2019-12-22 18:23:51 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「下徳久・林崎」
【閲覧数】1,421件(2010.9.17~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)







■下徳久(しもとくさ)

 千種川中流域、南北に細長い谷間。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。地内重近(しげちか)には砦跡がある。旧美作街道が土井から現在の徳久トンネルのある小さい坂を登り、千種川を渡って重近へ入り、山道をたどって円応寺へ出ていた。重近の追分が因幡街道の分岐点であった。

 下徳久は、南北朝期に「下得久」として見える地名で、上津(うわつ)とも呼ばれ、その名称は徳久駅前の中学校を上津中学校として今に残る。江戸期の上津郷は、南光町の下徳久から南、三日月町の西部を含む13か村であった。もとは東徳久・西徳久と当地を合わせて徳久と称したという。氏神は八幡神社。寺院は法覚寺。

 千種川筋で洪水の被害が大きく、なかでも大田井は、民家に浸水することも稀ではなかった。明治5年法覚寺に徳林小学校設置。明治14年佐用坂改修、同22年と徳久村の大字となる。昭和30年からは南光町の大字。
明治25年前後から養蚕・畜産を副業に導入して生計の支えとし婦女子はわら芯切りをして家計を助けていた。昭和25年前後まで続いた
 明治23・25・29・年に洪水、同32年には千種川の大増水で溺死者があり、同年9月台風で家屋が倒壊、その他病害虫発生。大正3年、4年に佐用坂峠再改修により、東西の交通が至便になる。同11年電気架設。昭和10年姫津東線が開通、播磨徳久駅設置、駅前通りに商店街が形成された。畜産・養蚕は昭和25年頃から衰退していった。昭和38年・40年豪雪。同38・40・43・47・51年には大洪水があった。






■林崎(はやしさき)

 千種川中流左岸。東と南は山の尾根が突き出しており、林の先にあることが地名の由来か。

 享保14年(1729)大風洪水、延享2年(1430)洪水・大風、寛延3年(1750)暴風雨、明和7年(1770)日食、同年6月2日から8月10日までは雨なく百日照りといわれる。文化12年(1815)暴風雨洪水、天保7年(1836)雨天続きで凶作。文久3年(1863)には凶作で百姓騒動が起こる(佐用町史)。氏神は山王七神社。大広村から宇野峠を越えて当村を通過、佐用坂峠から佐用村に通じている。道路は、明治14年に峠を改修した。同22年徳久村の大字となる。

 明治30年前後から養蚕・畜産を副業にする人が多くなり、やがて農業経営の主軸をなして、昭和25年前後まで続いた。明治24年大地震が起こり、同26年、大正2年・13年豪雨、同16年台風で被害を受ける。




◇今回の発見
・徳久(古くは得久)は独特の味のある地名だが、その地名の由来は、「峠の際にある」ことによるとあるが、どうもしっくりしない。
・佐用郡東部では、千種川を古くは上津(うわつ)川と呼んだ。上津中学校にその地名が残る。
・千種川流域の度重なる洪水、干害、病害虫発生、暴風雨、地震、日食等の気象異変、そして凶作にともなう百姓騒動の詳しい記録が各村の庄屋の文書に残されている

野口雨情等来崎 ②

2019-12-22 01:01:25 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
民謡 山崎小唄 
【閲覧数】1,408件(2011.3.16~2019.10.31)


野口雨情と中山晋平が昭和7年初秋1週間の宍粟滞在で作詞・作曲した山崎小唄の楽譜・歌詞を紹介します。




山崎小唄  
作詞 野口雨情
作曲 中山晋平 昭和7年作 
   
1 ハアー 水にせかせてヨー アリャサー
    水にせかせて 十二ン波よ ヨイヨイ
  流す筏は サッテモナ
    流す筏は さきまかせ
 ※あれは山崎 最上山(さいじょうさん)
   鐘が鳴ります 日に三度
      ありゃ 日に三度

2 ハアー 私(わたし)や揖保川ヨー アリャサー
    私や揖保川 河原の小石 ヨイヨイ
  流れながらも サッテモナ
    流れながらも 岸による
 ※

3 ハアー 鮎になりたやヨー アリャサー
    鮎になりたや 身は若鮎に ヨイヨイ
  鮎は瀬と瀬の サッテモナ
    鮎は瀬と瀬の 中にすむ
 ※

4 ハアー 伊沢川こしゃヨー アリャサー
    伊沢川こしゃ 生谷出湯(いぎだにいでゆ) ヨイヨイ
  ちょいといきましょ サッテモナ
    ちょいといきましょ 2人つれ
 ※

5 ハアー イルミネーション アリャサー
    イルミネーション 愛宕の夜景 ヨイヨイ
  見れば気も浮き サッテモナ
    見れば気も浮き気も晴れる
 ※

6 ハアー 須賀の渡しをヨー アリャサー
    須賀の渡しをいくたび 越させ ヨイヨイ
  切れてくれとは サッテモナ
    切れてくれとは 情けない
 ※

7 ハアー 松にとまらぬヨー アリャサー
    松にとまらぬ蛍の身ゆうえ ヨイヨイ
  草が恋しや サッテモナ
    草が恋しや 深渕の
 ※