地名由来「西徳久・東徳久・平松」 南光町(現佐用町)
【閲覧数】2,294 件(2010.9.24~2019.10.31)
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

■西徳久(にしとくさ)
千種川中流右岸。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。光田(こうだ)・横畑(よいこはた)・森光(もりみつ)・高下(こうげ)・萩原(はぎはら)・本明(ほんみょう)の6集落が河岸に点在する。江戸期においては、東徳久、下徳久とあわせて徳久村と称したという。寺院は慶長10年(1605)草創の西蓮(さいれん)寺がある。高下のごうろ山で明治20年(1887)に石材採取中、巨石の下から長さ42cm余の弥生時代の細形銅剣が発見された。この銅剣は県指定文化財で、現在東徳久天一(てんいち)神社に所蔵。
明和元年(1764)、同5年(1768)・8年(1771)・9年(1772)は洪水。寛政年間(1789~1801)から明治19年まで洪水11、天明元年(1781)から同 (1784)年まで日照時間少なく洪水11回、干ばつ6回。洪水のたび護岸の決壊、田畑の流失で、農民の苦労が多かった。明治7年東西小学校を西蓮寺に設置、同9年3校を合併した有隣小学校を当地に置く。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年から南光町の大字。
明治25年前後から郡役所が畜産・養蚕を奨励、年ごとに盛んになり、昭和30年ごろまで続いた。ほかに婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきた。明治期後半から荷車・自転車が入り、大正期になると急増して生活が便利になった。大正12年電気架設、道路改修も行われた。
■東徳久(ひがしとくさ)
千種川中流左岸。灌漑用水池が6か所ある。地名の由来は、峠の際にあることによると思われる。殿山西麓に矢能(やのう)、阿賀野(あがの)、保井(やすい)、鎌屋(かまや)・間村(まむら)・殿崎(とのざき)の6集落が円弧状に連なる。矢能集落西端の丘陵上には砦跡があり、附近に室町時代初期と推定される五輪塔2基がある。殿崎には中世の徳久城の跡があり、殿崎集落や北麓の平松集落に落城にまつわる伝承が残る。
氏神は吾勝(あかつ)神社で、ほかに式内社の天一(てんいち)神社があり、参道には天神降臨の岩もある。寺院はない。
千種川氾濫による災害よりも、台風と干害の被害が多い村であった。明和8年(1771)干害、安永9年(1780)氷害、寛政4年(1792)、文化12(1815)・13年、明治16年風害があった。明治22年徳久村の大字となる。昭和30年南光町の大字となる。
明治25年頃から、郡の指導によって畜産・養蚕に意を注ぎ、繭は大正10年には明治28年の100倍の販売量に達した。またナシ・モモなど果樹栽培にも励み、大正10年ナシの集荷2,500貫(佐用町史)。一方、冬期の婦女子は副業として、わら芯切りに励んだが、時代の推移とともに副業は成立しなくなり、昭和30年頃に完全に姿を消した。
平成4年から平成8年にかけ東徳久遺跡の発掘調査により、古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見され、製鉄操業が盛んであったことが裏付けられた。
■平松(ひらまつ)
千種川中流域、城山山麓。地名はゆるやかな山麓の土地であることに由来するか。
城山の徳久城(柏原城)は羽柴秀吉にせめられて落城。地内には地頭の首塚があり、昔、武者姿の踊りが、首塚に奉納していたと伝える。
神社は吾勝神社で、境内は武者踊りの場になっている。寺院はない。明治22年と徳久村の大字となる。昭和30年からは南光町の大字。
明治30年前後から郡の指導によって畜産・養蚕に力を注ぎ、婦女子はわら芯切りを副業として、生計を維持してきたか昭和25年前後に副業はなりたたなくなる。江戸期以降度重なる天災に悩まされながら、克服して農業を維持してきた。大正12年電気架設。
◇今回の発見
・佐用郡は播磨風土記にも記載されるほどの古くから鉄の産地で、140か所以上の多くの製鉄遺跡が残る。さらに中世の砦・山城跡、宝篋印塔、五輪塔等の遺構が数多く残る地域であるということ。
・佐用郡は近代畜産・養蚕が盛んであった。そのうち東徳久・安川が繭産地の中心地としてあげられる。