地名由来「鷹巣」 宍粟市千種町
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■鷹巣(たかのす)
千種川上流左岸。古くは高巣とも書いた。地名由来はタカが多く生息していたからとも、集落が高所の盆地に立地していたことによるとも伝える。地内西部に別所・別所口という小字があり、正平16年(1353)栗尾城(千種町西山)に別所一族が当地に来往し、鷹巣の地を拓き山の上に釜ノ城を構えたが、天正8年(1580)長水城の宇野下総守一族とともに秀吉の軍に破れ落城したという。
【近世】鷹巣村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領となる。享保6年(1721)幕府領姫路藩領地、寛保元年(1741)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同3年6月幕府領、土年10月幕府領三日月藩預地、宝暦2年(1752)幕府領上野高崎藩預地、同13年幕府領、明和元年(1764)幕府領三日月藩領預地、同6年尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
高所寒冷地で単作地のため西河内に次いで租率(免)が低く、田免は3割2分余、畠免3割7分余。延宝7年(1679年)には家数24の内持高10石以上15石未満が4戸あったが、文政3年(1820)では家数69の内持高10石以上はなし。嘉永3年(1850)では家数68の内6石以上7石未満が1戸で、それ以外はすべて5石以下(内1石未満と無高は31戸)。次男・三男への分割による耕地の細分化と思われ、他村に見られない特徴である。零細農にもかかわらず牛13頭・馬3頭を所有していた。生業は農業のほか木挽・炭焼・鉄山稼であった。山中のみならず田の合壁、畑や屋敷・谷川などの多くの鉄滓が散在し、古くからの蹈鞴製鉄の跡を残している。
※ことば 石高(こくだか)とは、田畑屋敷の価値を米の生産力に換算して石(せき)単位で表示する。1石(こく)とは、1年に一人が消費する米の量(1食1合を食べるとして 年1石=1,000合 )
享保3年(1718)から同17年の成箇帳(鷹巣区有文書)には、村高に右横に「鉄山請負の内」との肩書きがあり、また宝暦3年年貢皆済目録では米17石5斗が千草屋源右衛門拝借米となっており、鉄山師が山内で働く人々の飯米・扶持米を村で調達し年貢を肩代わりして上納したことを示している。これには百姓側の利便のほかに、鉄山師も所相場で米が安く確保でき、輸送費がかからない利点があった。千草屋は慶安~宝暦年間、郡北の村々の鉄山を経営し、鉄の生産から販売まで独占していた。ちなみに千草屋が寛文6年(1666)上納した運上銀は2鉄山で銀400枚と700枚。
神社は八幡神社、のち明治42年十二社権現を合祀。当地には多くの五輪塔・一石五輪塔がある。天正8年(1580)羽柴秀吉軍に追われた宇野氏一族が美作国竹山城(岡山県大原町)城主新免伊賀守を頼って落延びようとしたとき追撃を食い止めようとした家臣が討死したという。五輪塔は村人がこれを供養したものと伝える。明治22年千種村の大字となる。
【近代】鷹巣 明治22年~現在の大字。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。農業生産率が低い当地は林業・養蚕業・蓄牛に力を入れた。明治38年の「村勢一班」には、キジが多数生息し、年に1、2回外国人が遊猟しているとある。
大正元年土万村大沢から当地への郡道が開通し、荷車が通過するようになり、林産物の出荷が容易になる。昭和13年子牛の生産頭数が美方郡小代村についで県下2位になった時、当地の牛保有数62 。同年宍粟郡畜産組合から1,309頭の子牛を、静岡県への282頭をはじめとして2府13県に移出した。昭和19年・20年兵器生産材として鉄製品が供出された時、当地のたたら跡に放置されていた鉄滓を姫路の広畑製鉄所(現新日鉄広畑工場)へ出荷した。
◇今回の発見
・千種町の南東部の山に囲まれた高所の盆地。周りからでは、盆地があることがわからない。中世の城跡と蹈鞴跡が残る。長水城の落人の多くが小茅野(山崎)を経て、この地で討死にした。多くの五輪塔が古い歴史を物語る。
・鷹巣の長男以外の子供への土地の分割は独自のもの。盆地内の拡張できない限定された耕地の維持・存続を考えてのことだったのだろうか。
・鷹巣には、千種東小学校の前に、八幡神社があり、本殿前に大杉の由来が記されている。それによると樹齢378年の神木が落雷により樹勢が失われ伐採された。逆算するとの寛永7年(1630)江戸の初期(宍粟藩領時)に萌芽し、平成20年までの鷹巣を見守ってきたことになる。
八幡神社と大杉跡