郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

引原 ① 湖底に沈んだ村

2019-12-31 15:03:19 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
引原 ① 湖底に沈んだ村

【閲覧数】1,079件(2010.3.30~2019.10.31)



▼雪の中の山里      昭和28年1月 引原にて  


「取材記録集 掘り起こそうわがふるさと (幸福照夫氏 写真提供)」より


▼昭和27年 波賀 引原の村


湖底にしずんだ引原の全景。人それぞれの感慨を秘めて。

(写真・文 「追憶 ふるさと宍粟写真集」より)


※過去には、ダムの水が干上がり、引原小学校の門が見えたことがあった。




引原ダム 


マップ


「播磨国宍粟郡引原村歴史」紹介

2019-12-31 14:51:51 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
「播磨国宍粟郡引原村歴史」について (紹介)

 引原の歴史がダムの底深く、忘却の彼方に消えかかろうとしている。湖底に沈んだ引原村の話を、子や孫に伝えておきたいとの思いで、5年の歳月をかけ、「播磨国宍粟郡引原村歴史~引原村開村1200周年・水没50周年記念~」(2006.4)の力作をまとめあげられたのは、寺本眞悟氏(元引原出身 現宝塚市在住)です。

 図書館の郷土コーナーでこの本を手にした。そこには、豊富な資料や写真で引原住民の記録がいっぱいつまっている。内容は、引原村の歴史から、宍粟郡、播磨国、日本国まで及ぶ。地域と日本の歴史とのつながりが見え、教科書では味わえない親近感を感じさせる郷土の歴史書になっています。

 この本のあとがきの最後に、「ここまで完成し、また新しい資料が見つかった。しかし、この内容は後日、改定時にしたい。」と書かれている。見過ごせば消えてしまう小さな歴史の断片を一つひとつ大事に拾い集められてきた姿には敬服します。

  今後の地域の歴史教育に示唆をあたえる郷土史かなと思う。宍粟に住む子供たちに教え、語り継ぎ、歴史というのは、身近なものだと感じさせることこそが大切ではないかと思った。








 
 このあと、5回にわたって、引原ダム建設に伴い湖底に沈んだ引原村の写真を掲載します。

地名由来「西大畠・小日山」

2019-12-31 09:55:06 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西大畠・小日山」  上月町(現佐用町)


【閲覧数】1,387件(2010.10.20~2019.10.31)

名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■西大畠(にしおおばたけ)
 佐用川支流大日山川の下流域。上月村の西、宇根村・須安村の南に位置し、大畑とも記した。佐用町の大畠村に対して西庄大畠村とも称した。大日山川沿いに西進し、万能峠を越えて美作国に入る道に沿って樫ケ淵(かしがぶち)・越田和(こしだわ)・判官(ほうがん)・稗田(ひえだ)の集落があり、標高300mの南部山地の高位谷地に久木原(しゃきはら)の集落がある。寛文10年(1670)の池田検地の時に、当村から目高・力万・寄延・小日山の4か村が分かれたという。

 越田和の大避(おおざけ)神社は天正2年(1574)に赤穂の坂越(さこし)の同名社を樫ケ淵の下原に勧請したという。村人は美作蓮花寺(れんげじ)の檀徒。判官在所には、昔判官太郎助安が居住したという。元禄年間(1688~1704)から副業に紙すきを行い、大畠紙として近郷で愛用され、三日月藩にも定期的に納入した。文化2年(1805)庄屋吉田源三郎は奉行に願い出て石灰の株を許され、万能峠下の山中の石灰岩を用いて石灰を製造し、肥料・紙すきなどに利用。年額30石、1か月銀1匁上納。1駄4俵で6,000駄を産出。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕に従事するものが多くなり、冬季は製炭業にも従事、また婦女子は冬季にわら芯切りを営み、昭和25年ころまで行われた。紙すきは西洋紙に圧倒され、大正末期には12戸、春秋の生産高は2000束程、木炭出荷8000俵、石灰もふるわなくなった。大正12年電灯架設。昭和11年姫新線が開通。




■小日山(こびやま)
 佐用川支流大日山川流域。地名の由来は、大日山川沿いの日のよく当たる所で大日山より戸数が少ないことによるか。字宮前の平治畠は平治年間の開拓で兵衛という人が居住したという。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村という。

 八代荒神社が氏神であった。薬師を祀っていたという四ツ堂跡がある。昔60歳になるとここに捨てたといい、冥福を祈るための薬師という。嘉永元年(1848)には紙屋11人で年間264束をすく。当村の紙は良質で三日月藩の御用紙として納め、1束あたりの値段も他村より高値で取引されている。
 村人は美作国土居蓮花寺の檀徒。交通の便悪く西大畠まで12町、道幅3尺、川に6か所の飛び所があり、運搬は大日山を経て赤穂郡岩木へ出る方が得策という。寛政12年(1800)の飢饉にはクズの根を掘り、粥(かゆ)1合宛配され、天保12年(1841)の大洪水では平地一帯が川になった。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、年々増加、同38年の養蚕戸数20(全体の6割)。古くからウメが特産物、木炭は雑木200町歩あり、大正10年には1万俵に達した。コンニャク玉の生産量は西庄村第2位だったという。大正12年電灯架設。昭和25年前後まで、畜産・養蚕を副業としていた。




◇今回の発見
・西大畠の地名は分村する前から大きな田畑があったからなのだろう。
・西大畠・小日山の両村とも江戸時代より紙すき業が盛んであった。西大畠の万能峠下で石灰生産が昭和初期まで行われていた。
・小日山に興味深い姨捨伝説が残る。捨てられた場所にお堂跡が残ると。


地名由来「須安・宇根」 

2019-12-31 09:48:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「須安・宇根」   上月町(現佐用町) 

 
【閲覧数】1,356件(2010.10.19~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■須安(すやす)
 佐用川支流大日山(おおびやま)川流域。力万(りきまん)村の西に位置する。南境を大日山川が東流し、同川沿いに美作道が通る。同川が流入する谷川沿いに和田・下谷・尾崎の三集落があり、西の宇根村への道が通じている。
 地名の由来は、開拓前は砂浜(ス)や沼地(ヤ)、州(ス)が広がる川沿いの湿地帯であったことによるか。美作街道は杉坂を越えていたが、織田信長の時に万能峠を越す近道ができたという。古代製鉄遺跡が発見され、蹈鞴(たたら)の炉壁や鉄滓が見られる。

 元禄年間(1688~1704)までに宇根村を分村。氏神の明見宮は明治40年上月八幡宮に合祀。地蔵堂の伝承では、庵主が本尊を背負って山脇村に行き、慈山寺を建立したといい、字赤明寺に赤松という医師が来て寺屋敷と考証したという。明治初年宇根村と合併の話が出たが不成立。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年頃から畜産・養蚕を副業としてきたが、年々隆盛となり、昭和25年前後まで続いた。また、農家の婦女子の冬季の副業として、わら芯切りも盛んであった。大正12年電灯架設。昭和11年姫新線が南部を横断。





■宇根(うね)
 大日山川支流須安川流域。須安の西に位置し、標高200m~300mの山上の谷窟にある庄・別当・姿・米・片倉・坊の6集落よりなる。西は美作国英田郡蓮花寺(れんげじ)村(現岡山県作東町)。
 地名の由来は、北西風・北東風の強く吹く所の意によるか。伝説には往古大石命(天使)が開拓したところといい、耕地が少なく高所から低所へ開いた形跡がある。古くは須安村と記され、元禄年間(1688~1704)までに須安村から分村して成立。
氏神は清地(せいち)神社で、天正6年広峰神社から勧請、明治21年社殿改築、同40年村内8社を合祀。当村の各家は山脇村慈山寺の檀家であったが、のち明治25年美作国蓮花寺に移る。天正6年(1578)毛利軍の上月城攻略の時、吉川元春(きっかわもとはる)が字姿の山上に本営を置いたと伝える。

 明治5年開明小学校設9年廃止。同22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治20年副業として養蚕を始め、大正11年の養蚕戸数28 (村の6割) 。また冬季木炭の生産に従事する者もあり、大正11年2,000俵、竹材100束・木材1,000材を出荷。
 大正9年より里道は村道となり、白石より米・庄を経て蓮花寺に至る道路、白石より別当・坊を経て梅田に至る道路。才が鼻より片倉・姿を経て大垣内に至る道路。本郷境より姿・別当・石が坪を経て蓮花寺に至る道路があった。昭和に入ると畜産・養蚕ともに隆盛を極め、昭和25年前後まで続いた。





◇今回の発見
宇根は岡山県(作東町)と県境にあり、作東町とは古くから寺との結びつきがあり、岡山の言葉や文化の影響もあったと思われる。