「三日月」(三日月町)
閲覧数】2,638 件(2010年09月28日~019.10.31)
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
佐用郡三日月町(現佐用町)の地名由来

三日月町(現佐用町)
佐用郡(現佐用町)の東端に位置し、東は揖保郡新宮町(現たつの市新宮町)、西は南光町(現佐用町)、南は赤穂郡上郡町、北は宍粟郡山崎町宍粟市山崎町)に接する。山崎町大沢より発する志文(しぶみ)川が町域の西よりの谷を南流し、中央の田此(たこの)で、新宮町の二柏野(ふたつがいの)に発し北流する角亀(つのかめ)川と合流し、西に向きを変えて南光町に出て千種川に合流する。この角亀川に本郷谷を流れる本郷川が合流する。
昭和61年から南部の上郡町・新宮町の3町にまたがる丘陵上に播磨テクノポリス(科学公園都市)の建設が始まった。三日月町の中央を古代~中世の美作道が通り、古代の中川(なかつがわ)駅、近世の三日月宿があった。江戸時代は佐用郡に属し、16村あった。明治22年町村制施行により佐用郡三日月町村・大広村が成立した。昭和9年三日月村が町制を施行し、昭和30年大広村を合併し、三日月町が成立。(2005.10 佐用町・上月町・南光町・三日月町の4町が合併し、新たに佐用町が発足。)
■三日月(みかづき)
志文川支流と本郷川と角亀川の合流する地域。北条時頼の廻国伝説にかかわり、時頼が3か月当地に滞在したことによると伝える【佐用郡誌】。
□細月村(みかづきむら)
三日月町の中央部東より、角亀川が北西流する谷間に位置し、三日月・茶屋・田此の三集落がある。美作道が通り、近世には三日月宿が置かれた。「播磨風土記」讃容(さよ)郡中川(なかつがわ)里の条にみえる弥加都岐(みかづき)原の遺称地とされる。仁徳天皇の時、奢っていた伯耆の加具漏(かぐろ)と因幡の邑由胡(おゆこ)らに狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を遣わして、一族とともに捕縛させ、連帰らせた。途中水中に漬けて苦しい目に遭わせたところが弥加都岐原だという。
江戸期より明治22年までは、細月村。三ケ月村、三日月村とも書く。年貢米などは揖保川筋の新宮村川岸へ道程三里半、網干浦へ津出しした。
神社は磐筒男(いわつお)神社。寺は慶雲寺、明光寺がある。推定樹齢700年の、目通り11mのムクノキの古木がある (県指定天然記念物) 。明治22年三日月村の大字となる。
□三日月村
明治22年~昭和9年は佐用郡の名自治体名。三日月、乃井野、春哉(はるかな)・志文(しぶみ)・真宗(さのむね)・上本郷(かみほんごう)・下本郷(しもほんごう)の7か村を合併して成立。昭和9年より三日月町の大字。

◇今回の発見
三日月の地名由来は、佐用郡誌の北条時頼(鎌倉期)の滞在説があるが、すでに、風土記でその名称があがっている。奈良時代の播磨風土記の弥加都岐(みかづき)原の伝承では、水漬け(みかづけ)の処罰の話しが上げられている。これは浸水しやすい土地柄を連想させる。