地名由来「広山・弦谷・三原」 三日月町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■広山(ひろやま)
志文川と同川支流弦谷川との合流点。細月(みかづき)村の西、乃井野村の南、北から流れてきた志文川が西に向きを変える南岸の氾濫原に立地する。川原・上河原・出口河原の地名がある。天保から嘉永年間(1830~54)に当村服部家が佐用郡内幕府領の大庄屋を勤めた。広さ2反の屋敷跡に残る屋敷神の石の鳥居「御料所佐用、赤穂宍粟三郡83ケ村寄附」と刻されている。
集落の南東後方、標高150mの山頂に戦国期の広山城跡がある。周囲を土塁で囲んだ長方形の主郭は縦約20m、巾15m前後と小さい。
明治22年大広村の大字になり、昭和30年からは三日月町の大字となる。
■弦谷(つるだに)
志文川支流弦谷川下流域。広山村の南、標高200m~300m級の山の間の狭い谷に立地する。地名は、鶴の首のように谷が長いことにちなむと思われる。
銅山があり、廃石置場や精錬滓が各所にみられ、金山東(かねやまひがし)・金子山西平(かなこやまにしひら)・鍛冶ガサコなどの地名が残る。中世から近代初期まで採掘が行われていたとされるが記録などは残されていない。
当村と付近の三原村・広山村・久保村の4か村が江戸前期から幕府領とされたのは、当地に弦谷鉱山があったことによる。天保6年(1835)の大火で35戸が消失、残り1戸。
明治22年大広村の大字となり、昭和30年からは三日月町の大字となる。
■三原(みはら)
千種川支流弦谷川最上流域。弦谷村の南、標高300mの高原台地上にある浅い谷間に立地する。志文川と鞍居(くらい)川の分水界をなす。東は揖保郡下莇原(しもあざわら)(現新宮町)、南は赤穂郡金出(かなじ)村(上郡町)。
三原は、鎌倉期からみえる地名。正応2年(1289)の快円・源有家配分状案に「当(播磨国)〈椙原・三原〉と見え、快円分の所領に含まれている。次いで、永仁5年(1297)当地などの快円から嫡子幸松丸に譲渡されている。
明治22年大広村の大字となり、昭和30年からは三日月町の大字となる。三原は、播磨科学都市公園に隣接している。
◇今回の発見
今回の3つの村と久保をあわせた村は江戸上期から幕府領となった。それは弦谷鉱山があったからといわれる。弦谷の小字には中世からの鉱山に関わる地名が残る。