郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「中島・米田」

2019-12-19 10:38:06 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「中島・米田」  南光町(現佐用町)


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佐用町の平成の合併前のマップ


■中島(なかしま)

千種川と支流志文川の合流点。千種川の西岸に中島・那手(なで)の二集落がある。
高倉山東麓。地名の由来は、両河川の中洲・中の島であることによる。高倉山は西の櫛田、南西の山脇との境界で、美作街道が瓦坂を通っていた。羽柴秀吉が上月城攻めの本営を築いた山としても知られる中島砦があった。

平成2年の発掘調査で志文川左岸の河岸段丘上に縄文時代の竪穴住居が発掘されている。ている。那手集落の北背後の山頂(300m)に中世の中島城跡がある。同城の東側の丘陵上に立地する米田城の詰城といわれる山頂の主郭と数郭からなる小規模な遺構で南尾根筋に畝(うね)状空堀をもつ。
千種川流域の那手・坂田と、志文川から少し離れた如来田とは、地理的条件が大きく異なっている。水害は那手・坂田が多く、米田村と同じく、江戸期から度重なる被害を受けている。また、干害にも苦しんだ。高瀬船の船着場があった。

 明治22年中安村の大字となる。明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入。婦人は冬期の内職にわら芯を切っていた。昭和25年前後まで続いたが、以後副業は成り立たなくなった。大正11年電気架設。昭和38年に豪雪、また昭和38・40・43・45・46・47・49・51年と洪水が続いた。





■米田(よねだ)
下徳久(しもとくさ)村の南、中島村の東、千種川(当地の称は熊見川)その支流志文(しぶみ)川との間に位置する。地名は、五穀豊穣を祈って付けたものか。米田城は熊見城ともいい、寿永年間(1182~1185)の築城とされ、天正5年(1577)羽柴秀吉に攻められて落城した。山頂西側のわずかな郭群と腰部だけを残す。城主は赤松伊豆守則景の弟宇野新太郎為助『佐用郡誌』、あるいは佐用三郎左衛門尉範家『赤松家播備作城記』というが詳細は不明。
 年貢米などは久崎村(上月町、現佐用町上月)川岸道程1里10町、駄賃1匁で運び、赤穂へ津出しした。
 元禄10年(1697年)三日月藩領となる際に小山村を分村。氏神は八幡神社で、宝蔵寺・土井・小山・米田・安川5か村が氏子であり、寺院はない。
 明和元年(1764)、同5年・8年・9年、寛政9年(1797)、弘化4年(1847)と、度重なる水害に遭遇している。加えて干害もあり、藩領下で一揆が発生しており、税は平均6割5分と、苦しい生活を強いられた。
 明治6年中州小学校を当村に設置。同22年中安村の大字となる。





※今回の発見
・高瀬船の船着場のあった中島村。久崎村まで年貢米を津出ししていた米田村。南光町の北部の三河等7村は天領であり、年貢米などは山崎の出石(いだいし)に運ばれ、高瀬船で赤穂へ運ばれた。南部13村は千種川の高瀬船が利用された。
・南光町のいずれの村々も災害の記録が多く残る。それでも、江戸期においてはよほどのことがないかぎり、毎年定められた年貢が課せられ、口にできる食料は生きていくだけの最低限のもの。地域の入会山(村山・野山)での芝草の盗み刈りなどが横行し(芝草は家畜飼料や肥料として大事なもの)のため、村境の争いも絶えなかったようである。

地名の由来「多賀(口多賀・奥多賀)」

2019-12-19 10:14:36 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名の由来「多賀(口多賀・奥多賀)」       南光町(現佐用町)


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佐用町の平成の合併前のマップ



佐用町は宍粟市の西隣の町で、中世の武将赤松氏、宇野氏の歴史に関係性があるため、宍粟市周辺の地として取り上げます。


■口多賀(くちたが)

 多賀の地名は、高所の「たか」に由来するか。
佐用郡(現佐用町)に属し、中島村の南西に位置。多賀谷の川が千種川に合流する地点。千種川右岸の菰田(こもだ)、左岸の門脇・上々(じょうじょう)の三集落がある。元禄年中(1688~1704)に奥多賀村から分立して成立。明治8年(1875)奥多賀村と合併し多賀村となる。
 八幡神社あり、延宝7年(1679)本殿を建立。

 享保14年(1729)・延享元年(1744)洪水、宝暦5年(1755)大風。明治8年の大洪水では櫛田村石井との境界にある河岸ハナグリ岩に水が湛(たた)えられ水位2丈ほどであった。また、寛政8年の大洪水は近来最大のものという(久崎村文書)。






■奥多賀(おくたが)

 口多賀村の東、千種川に合流する多賀川沿いの狭い谷間にある。元禄年中(1688~1704)に口多賀村を分村し、明治8年(1875)口多賀村と合併し多賀村となる。

字坂根(さかね)に室町時代初期造立とみられる雪花姫宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、宇多天皇の息女の墳墓との伝承がある。高倉山東山麓の千種川中流域。多賀橋から見て左側の川の突き出た山には、米田城に関係がある砦跡がある。

明治25年前後から畜産・養蚕を副業とし、さらに男子は冬期山林労務に従事する者があり、婦女子はわら芯切りに従事して家計の一助となし、昭和25年前後まで続いた。


 多賀村(口多賀村・奥多賀村)の災害の記録
明治23年干害を被り、同24年大地震、同25年洪水があり、同26年田植時には降雨がなく、7月に大洪水があり、同29年は麦刈りの時期に雨が多く、7月台風で住宅の損害が大きかった。同32年には6月に大洪水があり、7月は冷え込み、雨が多く、加えて局地的豪雨で千種川が大増水、夏季には雷雨が多く、9月上旬台風による家屋倒壊、尾根破損、樹木の損害が多かった。以後も洪水・干害のない年は少なく、大正13年まで豊作は2回のみ。昭和13年再び大洪水があった。




◇今回の発見

・多賀村の災害の記録は非常に厳しいものがある。
・多賀谷から東へは三日月の大畑・三原へそして、新宮町角亀に至る山道(オハタザカ)があり、南の谷沿いにさがると上郡鍋倉(なべくら)に続き、相生方面へ行ける山道(オクヤマミチ)があった。各村々の裏山には幾筋もの山道があった。