郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

「わら細工」

2019-12-04 23:01:02 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
「わら細工」

【閲覧数】806件(2009.12.17~2019.10.31)



俵(たわら)編み(昭和23年 山崎町)


今は紙袋だが、昔は米を入れる袋である俵を農繁期に編んでいた。


わら靴づくり(昭和50年代 一宮町)



雪の深い宍粟の北部では、わら靴はかかせない日用品、古老に頼んでの作り方の再現風景


「写真で見る郷土史やまさき」より


「炭焼き」  

2019-12-04 22:52:51 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
「炭焼き」  宍粟市一宮町 三方村

【閲覧数】1,703件(2009.11.26~2019.10.31) 



炭焼き 






戦前戦後 森林資源の豊富な宍粟では、県下でも有数の木炭の生産地であった。しかし、昭和35年頃を境に、安価な石炭、石油等の普及により急激に生産が減少していった。


「宍粟1952」「宍粟のあゆみ」より

地名由来 「鹿伏・戸倉・道谷」

2019-12-04 07:13:01 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「鹿伏・戸倉・道谷」 宍粟市波賀町

【閲覧数】1,503件(2010.2.24~2019.10.31) 


奥谷地区内

■鹿伏(しかぶし) 
揖保川の支流引原川上流域。地名はシカが多数生息し、シカの寝床のなっていたことによる。

【近世】鹿伏村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、文政6年(1823)上野館林藩領、天保元年(1830)幕府領となり幕末に至る。神社は、高倉神社。

【近代】鹿伏 明治22年~現在の大字名。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。





■戸倉(とぐら)
揖保川の支流引原川上流域。かつて地内の大森神社は氷ノ山に祀られていたが、参拝に不便であるからと、舂米(つくよね)村(現鳥取県若桜町)・出合村(現関宮町)と当地の3か村の氏子は便利な所に移そうと考え、時間を決めて参拝して神体を各村へ持ち帰ることとした。しかし、他村の人たちが早く神体を持ち帰り、戸倉村の住民が参った時には、戸と倉しか残っていなかったので、これを持ち帰り祀ったという。地名もこのことにちなむという。現在行政上は「とくら」という。

【近世】戸倉村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。江戸期は土倉とも書いた。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、文政6年(1823)上野館林藩領、天保元年(1830)幕府領となり幕末に至る。明治22年奥谷村の大字となる。

【近代】戸倉 明治22年~現在の大字名。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■道谷(どうだに)
引原川の支流道谷川流域。地名は、養父郡に通じる道、公文に通じる道、氷ノ山に通じる道と主要な道路が集まっている谷であることにちなむ。

【近世】道谷村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、文政6年(1823)上野館林藩領、天保元年(1830)幕府領となり幕末に至る。
 神社は、阿於意(あおい)神社。同社はもと当村の南東権現山(藤無山1,139m)に祀っていたが、参詣が困難なため現在地に移転したという。明治22年奥谷村の大字となる。

【近代】道谷 明治22年~現在の大字名。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和58年4月道谷小学校で山村留学制度を開始。




◇今回の発見:
・鹿伏の名は、一度聞いたら忘れられない。昔その道を通った山伏もシカの多さに驚いたことだろう。
・道谷の地名に「道」がついたのは、道谷が因幡・三方・養父に通じる地であることによるという。

地名由来 「音水・引原」

2019-12-04 07:04:34 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「音水・引原」    宍粟市波賀町

【閲覧数】2,986件(2010.2.23~2019.10.31) 


奥谷地区内

■音水(おんずい)
三宝山南東方、引原川の支流音水川流域。地名は、谷川の流れを挟んだ両側に山々がそびえ立ち、渓流の音が高いことにちなむ。

【近代】音水鉄山村  年未詳~大正6年の奥谷村の大字名。蹈鞴製鉄の従事者が集住するいわゆる山内集落で、現在も残る金山(かなやま)神社(カナイゴサンとも称される)を中心に六十数戸の集落があったという。操業時期は墓碑銘などから江戸時代にさかのぼるが、明治期に入って山林が国有林化され衰退した(波賀町誌)。

 年未詳の御領分諸座方請分(下村家文書)に、寛文13年(1673)から延宝4年(1676)まで竜野屋 弥左衛門が「引原中音水炭山発鍛冶三分」を請負ったとある。また「銀九十匁 引原内 日ノ原山畑 音水木地挽九郎兵衛請る」と記され、音水に木地屋が存在していたことが知られる。なお現波賀町北部には江戸時代に多くの木地屋が居住していた【波賀町誌】。大正6年音水となる。

【近代】音水 大正6年から現在の大字名。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。
 



■引原(ひきはら) □近代 一部が日ノ原になる
揖保川の支流引原川流域。地名は当地一帯にはブユ(ブト)が多く、漢字では蟆と書き、蟆は「ひく」とも読むことから、ブユの多い野原が転じて引原なる。

【中世】蟾原荘 平安末期に見える荘園名。播磨国宍粟郡のうち。宝永5年(1708)「宍粟郡誌」にみえる引原荘にあたり、揖保川の源流の1つ、引原川の上流一帯。現在の波賀町北部を占める地域に成立した荘園。保元3年12月3日の官宣旨に、石清水八幡宮の宿院、極楽寺領として、「播磨国 蟾原庄・松原荘・赤穂荘」と見える。この文書によれば、代々の別当・院主が恣意に妻子眷属へ荘園を譲渡したため、所領が八幡宮の支配から離れていく傾向が強くなった。これに歯止めをかけるべく、法印勝清が官宣旨を乞うたようである(石清水文書)。元歴2年正月9日付けの源頼朝下文には、八幡宮領の荘園一つとして魚吹蟾原別官を挙げ、「右、同伴庄々者八幡宮寺住吉古神領也。而近年之間、依平家追討、守護武士等、或猥抑留御年貢、或宛催兵粮米」とある(同前)。官宣旨おいても八幡宮領であった魚吹別館と一括されているが、当荘でも武士による※蚕食が行われていたものであろう。南隣の伯可荘も11世紀はじめまでに石清水八幡宮領になっていたが、上記の官宣旨や頼朝下文にはみられない。両荘の関連については未詳。その後の伝領についても明らかではない。なお、文正元年10月5日と見え(八坂神社文書)、引原はあるいは引原荘(蟾原荘)を指すものと思われるが、不詳。
※蚕食(さんしょく):蚕が桑の葉を食すように、他の領域を片端からだんだんと侵していくこと。

【近世】引原村 江戸期から明治22年の村名。宍粟郡のうち。江戸期は曳原村とも書いた。幕府領。神社は、八幡神社・大森神社。寺院は、高野山真言宗長源寺。明治6年同寺内内に引原小学校開校。




【近代】引原 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和17年一部が「日ノ原」となる。奥谷村の最大の集落であったが、昭和33年引原ダムの竣工に伴い一部が湖底に沈む。水没移転家屋74戸で、主に竜野市周辺に移住した。ダムの総事業費は18億円。引原ダムは洪水調節、発電、工業用水、および灌漑用水 確保の4つの目的を持った多目的ダムである。
「すすむ世のためとて あはれさざ波の 底に消えぬる引原の里」という当時の知事阪本勝の歌碑が湖岸に建てられている。






◇今回の発見
・波賀町北部の山岳地帯には木地師が多く住み着いていた。ロクロを巧に駆使して、腕・盆・鉢などを作った。豊かな山河が、生業を支えていたようだ。
・今から半世紀前、引原ダム(音水湖)の湖底に集落74戸が消えた。その後創作された「湖底の笛」(S61.8)の哀愁漂う歌の音(ね)が人々の記憶を呼びさます。