郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

野口雨情等来崎 ①

2019-12-20 22:54:15 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
野口雨情等来崎 ①


【閲覧数】1,564件(2011.3.15~2019.10.31)



昭和7年9月 野口雨情・中山晋平 民謡の作詞・作曲のため来崎 菊水にて 

 




写真 野口雨情(50歳 中央の和服)・中山晋平(45歳 左の白の背広)


◇◇◇◇◇◇

山崎民謡のはじまり

昭和7年9月10日(1932)発刊の「山崎新聞」





◇待望の山崎小唄成る◇

山崎商工会、料理屋組合、芸舞妓共同事務所等の主唱による「山崎小唄」は民謡作家野口雨情氏によりて作詞され、中山晋平氏の手により作曲、8月完成。
 中山氏は大阪の振付師、島田豊氏を伴い来崎し、芸妓連に振付の練習を開始し、該歌詞は、「山崎小唄」と「宍粟民謡」とに別れ居り左の如く10月5日・6日頃同町旭座において華々しく発表演奏会を開催する予定である。

 と掲載されている。山崎町に民謡の一頁が築かれた時代である。(2カ月後の昭和7年10月5・6日、旭座にて待望の演奏会が開催された。)


〇野口雨情さんと山崎

 雨情さんが来崎されたのは昭和7年の初秋、50歳のとき。作曲家の中山晋平さんと二人連だった。当時全国的に民謡づくりブームになっており、商工会の幹部安井金三郎さん、前野啓二さんらが中心となってこの町にふさわしい民謡づくりを計画、安井さんの親戚で大阪市会議員であった菅野出身の庄健一さんの世話もあって、雨情さんを招いた。
 商工会幹部の案内で、町内の最上山や揖保川辺をはじめ、安富町の千年家、鹿ケ壷、一宮町の伊和神社、波賀町の赤西、音水渓谷、南光町の瑠璃寺など近在の名所をタクシーで巡回して見聞、一週間がかりで作詞されたという。

「むかし懐かしい山崎の民謡を唄い語り継ぐ」2001年(平成13年2月)編集山崎町文化協会・邦楽邦舞研究会 より


▼民謡をまとめた冊子





 

地名由来「土井・宝蔵寺」 

2019-12-20 12:10:27 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「土井・宝蔵寺」  南光町(現佐用町)


【閲覧数】1,179件(2010.9.22~2019.10.31)
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)







■土井(どい)

 千種川支流志文川右岸。地名の由来は、中世の豪族や武士が屋敷の周囲に築いた土塁を土井というが、佐用郡では小集落を土居というため、いずれかによると思われる。北方の山麓に古墳時代後期の群集墳6基。古代・中世の美作道が通り、中世には街道を見下ろす北側山頂に長田山(おさだやま)城が築かれていたという。廃寺の伝承と経塚もある。

 美作街道筋の村。明和年間(1764~72)に3回、寛政8年(1796)・天保7年(1836)・弘化4年(1847)と江戸期にたびたびの水害があり、天明7年(1787)・天保4年(1833)・同8年(1837)の飢饉では、クズの根(※)を掘って食したという。明治22年中安村の大字となる。

 明治35年頃から畜産・養蚕を副業として、米麦に匹敵する所得を得る。婦女子はわら芯切りで家計を補って昭和25年前後まで続いた。明治23・25・32年、大正5・7年と大洪水に見舞われる。大正12年電気架設。昭和10年姫津東線が中央部平地を開通。昭和38年・40年に大豪雪。同51年には近年稀な大洪水になり、水田の7割近くに土砂が流入する大被害を受けた。




■宝蔵寺(ほうぞうじ)

 千種川支流志文川下流左岸の山麓。地名は地内にあった宝蔵寺(廃寺)によると考えられる。寺跡と思われる地が確認できる。南北朝時代、赤松氏ゆかりの宝蔵寺があったと伝える。

 明和元年(1764)・寛政8年(1897)・天保7年(1836)大洪水で田畑は大被害を受け、同8年(1837)飢饉で農民が苦しんだ。明治22年中安村の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕を副業として生計を維持し、女子はわら芯切りで家計を助け、昭和25年まで続いた。大正12年電気架設。昭和38年・40年に大豪雪、同38年51年大洪水に見舞われる。昭和30年から南光町の大字となる。




◇今回の発見
・天保の大飢饉時にはクズの根を食すという記録が残る。天保4年(1833)は低温・多雨で全国的大飢饉となり、東北一帯は収穫皆無。信濃・越後・四国が3分の1、近畿・中国・九州が半作ないし3分の1で、このような状態が数年続いたという。
・宝蔵寺という中世の寺と思われる名称が地名として残っているのは興味深い。

※クズ(葛)の根:クズは、マメ科のつる性の多年草。根を用いて食品の葛粉や漢方薬が作られる。秋の七草の一つ。

地名由来 「小山・安川」

2019-12-20 12:02:42 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「小山・安川」          南光町(現佐用町)



【閲覧数】1,493件(2010.9.16~2019.10.31)



■小山(こやま)

 米田の東、千種川と志文川の間の丘陵地に立地する。地名の由来は、北の山の尾根先端あたりの小さい谷間を開拓したことによる。南に米田城跡があり、現在は城山会館が建っている。

 正保(1644~48)以後に米田村から分立して成立。年貢米などは久崎村川岸へ道程1里13町、駄賃1匁で運び、赤穂へ津出しした。古代~中世のトオリガタワと呼ばれる美作道は土井村から当村東部の標高161mの山の向かいの谷間を通って下徳久へ抜けていたとされ、当時の道標が残る。千種・志文の両河川と離れた高い土地に集落があるので、洪水の被害は比較的少ないが、飢饉の年は耕地が少なく、近村同様に苦しんだ。明治22年中安村の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕を副業とした。大正末期から昭和初期が全盛で、昭和25年前後まで続いた。大正12年電気架設。昭和10年姫津東線開通、千種川を隔てて、播磨徳久駅が設置され、交通が便利になった。






■安川(やすかわ)

 小山村の南、志文川左岸の緩傾斜地と、後背の標高400m級の山地の麓に立地する。地名は、川に面した土地で、沼地や川州を開拓して田畑にした所の意か。急峻な山麓の堆積土層の畑地は桑園として利用され、近代においては安川の養蚕は盛大であった。

 氏神は米田村八幡神社で、寺院はない。志文川水面より比較的高所にあるので、水害による被害は僅少であったが、宝暦5年(1755)の干害では作付不能田が多く、同年8月暴風雨で倒壊家屋があった。文久3年(1863)は凶作で百姓騒動が起こった(佐用町史)。明治22年中安村の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、婦女子は冬期の副業にわら芯切りをして生計を補い、昭和25年前後まで副業が続いた。大正12年電気架設。昭和30年からは南光町の大字となる。




◇ 今回の発見
南北に長い南光町の峠道や山道といえば、主に東西をむすぶ道で、数は30以上もあったようです。1950年以降は車が普及し、新道ができ、古道の多くは消失し、忘れ去られようとしている。