野口雨情等来崎 ①
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昭和7年9月 野口雨情・中山晋平 民謡の作詞・作曲のため来崎 菊水にて
写真 野口雨情(50歳 中央の和服)・中山晋平(45歳 左の白の背広)
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山崎民謡のはじまり
昭和7年9月10日(1932)発刊の「山崎新聞」
◇待望の山崎小唄成る◇
山崎商工会、料理屋組合、芸舞妓共同事務所等の主唱による「山崎小唄」は民謡作家野口雨情氏によりて作詞され、中山晋平氏の手により作曲、8月完成。
中山氏は大阪の振付師、島田豊氏を伴い来崎し、芸妓連に振付の練習を開始し、該歌詞は、「山崎小唄」と「宍粟民謡」とに別れ居り左の如く10月5日・6日頃同町旭座において華々しく発表演奏会を開催する予定である。
と掲載されている。山崎町に民謡の一頁が築かれた時代である。(2カ月後の昭和7年10月5・6日、旭座にて待望の演奏会が開催された。)
〇野口雨情さんと山崎
雨情さんが来崎されたのは昭和7年の初秋、50歳のとき。作曲家の中山晋平さんと二人連だった。当時全国的に民謡づくりブームになっており、商工会の幹部安井金三郎さん、前野啓二さんらが中心となってこの町にふさわしい民謡づくりを計画、安井さんの親戚で大阪市会議員であった菅野出身の庄健一さんの世話もあって、雨情さんを招いた。
商工会幹部の案内で、町内の最上山や揖保川辺をはじめ、安富町の千年家、鹿ケ壷、一宮町の伊和神社、波賀町の赤西、音水渓谷、南光町の瑠璃寺など近在の名所をタクシーで巡回して見聞、一週間がかりで作詞されたという。
「むかし懐かしい山崎の民謡を唄い語り継ぐ」2001年(平成13年2月)編集山崎町文化協会・邦楽邦舞研究会 より
▼民謡をまとめた冊子