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播磨 柏原城跡(その2) ~秀吉の陣城か~ 宍粟市山崎町金谷字石ケ谷
柏原城跡 国見の森の展望台より ズーム
柏原城跡から東方を望む 中央が国見の森展望台
国見山の背後に位置する
この城の所在地は宍粟市山崎町金谷字石ケ谷。宍粟市南部の標高約490mにあり、揖保郡新宮町奥小屋(たつの市)との郡境の尾根上に位置している。国見の森の登山コースの途中谷を左にそれたところに、遊鶴寺跡がありその上部から取り付き、谷深い山の急斜面に設けられた登山道を斜めに横切って登り詰めると緩やかな尾根筋に至り、その先に城跡がある。
城跡は国見山(標高465m)の西方に位置し、国見山より少し高いため、国見山の西斜面一面の杉林の上に山並みが見え、揖保川を眼下に見下ろす国見山の展望台からの景色とは大きく異なる。
▲柏原城跡(Ⅱ郭)
▲堀切
明確な出郭と不十分な主郭背後
柏原城の形状については中央の主郭と思われる削平地の周りには、幾筋かのなだらかなU字型の堀跡がはっきりと残り、人為的な平地が奥に延びている。
特筆すべきは堀切と切岸による約15m四方の出郭、出郭と城内をつなぐ土橋、北尾根には複数の掘切があること。そして本郭の背後はあまり手が加えられていないことである。
下界の見えぬ城
この城跡には過去何回か訪れた。事前の下調べでこの城は長水城の支城と言われそのつもりで見たのだが、なぜこの場所なのかしばらく疑問が残っていた。それは、宇野氏の支配域の最南部の防備・見張りなら国見山の展望台あたりが最適なのだが、そこに城跡はなく、なぜかその背後の高山のほとんど下界が見えない場所にあるからである。
ここから遠く長水城が見える。長水城とは狼煙(のろし)によって連絡した説もあるが直線コースで約6kmと距離的にも狼煙説には疑問が残る。さらにこの地が郡境にあるということと、この城の大手道は新宮町奥小屋にあると考えられ、そのため結論的にはこの城は長水城の支城ではなく、まったく逆の長水城を見張る敵の城(陣城)ということになる。
▲約6km北方に長水城跡のある長水山が望める (写真中央)
▲城下地区南部(比地保キ)周辺が見える
『播磨鑑』に見える柏原城の所在地の比定
では誰が何のために築いたのかということになるが、そもそもこの城跡については、『赤松家播備作城記』には記載がなく、『播磨鑑』に「柏原城 城主は早瀬帯刀正義居、同構居 柏原三郎頼宗」とあるのみで築城期や所在地の記載はない。『新宮町史 第五巻 昭和38年発行』には、その所在地は山崎町金谷に比定している。その根拠について城郭研究家の山下晃誉氏は町史編集者の香坂好氏が「金照寺縁起(新宮町牧村)」に「其近辺(筆者註:草尾山幽閣寺)ナル峯ヲ横ニ堀キリ、一夜ノ内ニ新城ノ形ヲ顕シ」に基づいて比定したのではないかと推測している。以後柏原城の所在地は山崎町金谷として日本城郭全集 昭和42年発行」や「兵庫県中世城館・荘園遺跡 昭和57年発行」で紹介された。
一夜にして姿を現した城は秀吉軍の陣城
山下氏は現在柏原城として周知されている遺構が『播磨鑑』に見える柏原城と同一である根拠はないとし、さらに「金照寺縁起」に記される城郭が柏原城である根拠もないとしている。
そして、現在の遺構は職豊期の陣城の特色と一致しており、「金照寺縁起」に記される一夜の内に姿を現した城と結論付けている。
秀吉軍の行軍ルートと合戦の足跡
当時の合戦の行軍ルートを想像してみるのに、秀吉軍は播磨北部の辺境の地宍粟郡の宇野氏が堅固に守る長水城・篠ノ丸城及び周辺の構の攻略のため、行軍を林田川と揖保川沿いの街道を二手に分けている。その両者の街道にはそれぞれ通行の難所が待ち受けている。林田川の狭戸(せばと)(安富町)と揖保川の比地保キ(ひじがほき)(山崎町)である。この柏原城跡から唯一見える下界がその比地保キなのである。長水城を北に望み、南に最大の難所比地保キの見えるこの地に城を築き、出郭をその方角に置いたのは宇野攻めの正面攻撃の布石であったと見ると理解しやすい。
結果的に秀吉軍の主力は林田川沿いの因幡街道を選んだようである。狭戸と隣接の植木野・三坂には数多くの五輪塔が散在している。それらはその場所で激しい戦闘があったことを物語っている。
戦後、秀吉が四国の長宗我部元親への手紙で長水城のことを「山峰けわしくして大河城のふもとを巻き候」と表現し、構二カ所と篠ノ丸城を落として宇野勢を長水城に追い込み責め崩す様子をつぶさに伝えている。
新たな歴史ロマン
では、この柏原城が職豊期の城跡であるとすれば、宇野氏の支城柏原城・構居はどこにあったのかということについては、今後の歴史ロマンとして残されることになったと私は思っている。
参考:『図解 近畿の城郭』「柏原城」山下晃誉氏、「柏原山城」藤原孝三氏
※山崎郷土研究会「山崎郷土会報No.126 (28.2.27より)転載 写真カラー化
コメント
播磨屋さん (2016年03月08日)
はじめて宍粟城研で登った山城懐かしく思い出されます。
この柏原城は新宮の方より登ってみたいですね。
返信 タケネット (2016年03月09日 )
そうですね。日がたつのが早く感じられます。
1月に牧の金照寺のことで訪ねたついでに、奥小屋の県道44号線の最終地点から谷川を少しばかり歩いて城山方面を眺めましたが、どこから取り付いたらいいのか見当もつきませんでした。懐の深い山塊なので道案内のできる人が必要ですね。
播磨屋さん (2016年03月09日 )
今度、ご一緒しませんか。新宮側から登れば柏原城の意味が分かるような
気がしてなりません。
気がしてなりません。
返信 タケネット (2016年03月10日)
私もそう思います。その昔上比地から奥小屋に通じる生活道があったといいます。その道が城の大手道なのか確かめたいと思いますね。動ける日を連絡ください。
播磨屋さんより (2016年03月11日)
わたしの友人の話ですと祖母にあたられる方が新宮の牧から上比地に嫁いできたといいそのとき、山を越えてきたと聞きました。
ひょっとして、その道が柏原城の近くを通る峠道であった可能性は非常に高いように思われます。年度末から年初はバタバタしていまして連休あたりにご一緒できれば嬉しいのですが。
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