郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 柏原城跡(その2) ~秀吉の陣城か~ 

2019-12-08 18:48:19 | 城跡巡り
【閲覧数】2,401件(2016.3.6~2019.10.31)


播磨 柏原城跡(その2) ~秀吉の陣城か~  宍粟市山崎町金谷字石ケ谷 

柏原城跡 国見の森の展望台より ズーム



柏原城跡から東方を望む  中央が国見の森展望台



国見山の背後に位置する

 この城の所在地は宍粟市山崎町金谷字石ケ谷。宍粟市南部の標高約490mにあり、揖保郡新宮町奥小屋(たつの市)との郡境の尾根上に位置している。国見の森の登山コースの途中谷を左にそれたところに、遊鶴寺跡がありその上部から取り付き、谷深い山の急斜面に設けられた登山道を斜めに横切って登り詰めると緩やかな尾根筋に至り、その先に城跡がある。
 城跡は国見山(標高465m)の西方に位置し、国見山より少し高いため、国見山の西斜面一面の杉林の上に山並みが見え、揖保川を眼下に見下ろす国見山の展望台からの景色とは大きく異なる。





▲柏原城跡(Ⅱ郭)




▲堀切


明確な出郭と不十分な主郭背後

 柏原城の形状については中央の主郭と思われる削平地の周りには、幾筋かのなだらかなU字型の堀跡がはっきりと残り、人為的な平地が奥に延びている。
 特筆すべきは堀切と切岸による約15m四方の出郭、出郭と城内をつなぐ土橋、北尾根には複数の掘切があること。そして本郭の背後はあまり手が加えられていないことである。

下界の見えぬ城

 この城跡には過去何回か訪れた。事前の下調べでこの城は長水城の支城と言われそのつもりで見たのだが、なぜこの場所なのかしばらく疑問が残っていた。それは、宇野氏の支配域の最南部の防備・見張りなら国見山の展望台あたりが最適なのだが、そこに城跡はなく、なぜかその背後の高山のほとんど下界が見えない場所にあるからである。

 ここから遠く長水城が見える。長水城とは狼煙(のろし)によって連絡した説もあるが直線コースで約6kmと距離的にも狼煙説には疑問が残る。さらにこの地が郡境にあるということと、この城の大手道は新宮町奥小屋にあると考えられ、そのため結論的にはこの城は長水城の支城ではなく、まったく逆の長水城を見張る敵の城(陣城)ということになる。




▲約6km北方に長水城跡のある長水山が望める (写真中央)




▲城下地区南部(比地保キ)周辺が見える


『播磨鑑』に見える柏原城の所在地の比定

 では誰が何のために築いたのかということになるが、そもそもこの城跡については、『赤松家播備作城記』には記載がなく、『播磨鑑』に「柏原城 城主は早瀬帯刀正義居、同構居 柏原三郎頼宗」とあるのみで築城期や所在地の記載はない。『新宮町史 第五巻 昭和38年発行』には、その所在地は山崎町金谷に比定している。その根拠について城郭研究家の山下晃誉氏は町史編集者の香坂好氏が「金照寺縁起(新宮町牧村)」に「其近辺(筆者註:草尾山幽閣寺)ナル峯ヲ横ニ堀キリ、一夜ノ内ニ新城ノ形ヲ顕シ」に基づいて比定したのではないかと推測している。以後柏原城の所在地は山崎町金谷として日本城郭全集 昭和42年発行」や「兵庫県中世城館・荘園遺跡 昭和57年発行」で紹介された。


一夜にして姿を現した城は秀吉軍の陣城

 山下氏は現在柏原城として周知されている遺構が『播磨鑑』に見える柏原城と同一である根拠はないとし、さらに「金照寺縁起」に記される城郭が柏原城である根拠もないとしている。
 そして、現在の遺構は職豊期の陣城の特色と一致しており、「金照寺縁起」に記される一夜の内に姿を現した城と結論付けている。

秀吉軍の行軍ルートと合戦の足跡

 当時の合戦の行軍ルートを想像してみるのに、秀吉軍は播磨北部の辺境の地宍粟郡の宇野氏が堅固に守る長水城・篠ノ丸城及び周辺の構の攻略のため、行軍を林田川と揖保川沿いの街道を二手に分けている。その両者の街道にはそれぞれ通行の難所が待ち受けている。林田川の狭戸(せばと)(安富町)と揖保川の比地保キ(ひじがほき)(山崎町)である。この柏原城跡から唯一見える下界がその比地保キなのである。長水城を北に望み、南に最大の難所比地保キの見えるこの地に城を築き、出郭をその方角に置いたのは宇野攻めの正面攻撃の布石であったと見ると理解しやすい。

 結果的に秀吉軍の主力は林田川沿いの因幡街道を選んだようである。狭戸と隣接の植木野・三坂には数多くの五輪塔が散在している。それらはその場所で激しい戦闘があったことを物語っている。
 戦後、秀吉が四国の長宗我部元親への手紙で長水城のことを「山峰けわしくして大河城のふもとを巻き候」と表現し、構二カ所と篠ノ丸城を落として宇野勢を長水城に追い込み責め崩す様子をつぶさに伝えている。

新たな歴史ロマン

 では、この柏原城が職豊期の城跡であるとすれば、宇野氏の支城柏原城・構居はどこにあったのかということについては、今後の歴史ロマンとして残されることになったと私は思っている。

参考:『図解 近畿の城郭』「柏原城」山下晃誉氏、「柏原山城」藤原孝三氏

※山崎郷土研究会「山崎郷土会報No.126 (28.2.27より)転載 写真カラー化



コメント
播磨屋さん  (2016年03月08日) 
はじめて宍粟城研で登った山城懐かしく思い出されます。
この柏原城は新宮の方より登ってみたいですね。

返信 タケネット (2016年03月09日 )
そうですね。日がたつのが早く感じられます。
1月に牧の金照寺のことで訪ねたついでに、奥小屋の県道44号線の最終地点から谷川を少しばかり歩いて城山方面を眺めましたが、どこから取り付いたらいいのか見当もつきませんでした。懐の深い山塊なので道案内のできる人が必要ですね。

播磨屋さん (2016年03月09日 ) 
今度、ご一緒しませんか。新宮側から登れば柏原城の意味が分かるような
気がしてなりません。 

返信 タケネット (2016年03月10日)
私もそう思います。その昔上比地から奥小屋に通じる生活道があったといいます。その道が城の大手道なのか確かめたいと思いますね。動ける日を連絡ください。

播磨屋さんより (2016年03月11日)
 わたしの友人の話ですと祖母にあたられる方が新宮の牧から上比地に嫁いできたといいそのとき、山を越えてきたと聞きました。
ひょっとして、その道が柏原城の近くを通る峠道であった可能性は非常に高いように思われます。年度末から年初はバタバタしていまして連休あたりにご一緒できれば嬉しいのですが。


【関連】
柏原城(その1)


◆城郭一覧アドレス




播磨 柏原城(その1) 

2019-12-08 10:13:38 | 城跡巡り
【閲覧数】6,177件(2010.12.16~2019.10.31)



かしはら
柏原城のこと  宍粟市山崎町金谷 


 比地の滝の上部に中世の城跡(柏原城)と寺院跡(長谷山遊鶴寺・はせざんゆうかくじ)の存在を知り、いつか行ってみたいなと思っていた。それが意外と早くその時が訪れた。

 先日、長水山山頂で山歩きを楽しまれていた女性グループと出会い、この城跡・寺跡のことも話題になり、つい最近そこに登り、見晴らしがよかったこと、登山時間も長水山と比べればそれほどのことはないと言われたので、早速この登山を急ぐことにした。


▼柏原城跡  










 この城の所在地は宍粟市山崎町金谷字石ケ谷。宍粟最南部の城であり、西は揖保郡新宮町奥小屋(現たつの市)との境界のある尾根上に位置している。

 国見の森の登山コースの途中左にそれたところに、寺院跡があり、さらに北に登ると城跡にたどり着く。

 ここからの景色は、東の山上に見える国見の森の展望台からのものとは方角は同じなのに大きく異なっている。城跡は、北・東・南部にかけての山々が180度見渡せる標高約500mの絶景の地なのだ。しかし、どうしてここに、城が建てられたのか。宍粟の南部の揖保川沿いの街道の見張りなら現在の国見の森展望台あたりが最適なのだが、この城はその背後に陣取る位置にある。
 北には、長水城のある長水山が見える。直線コースで約5km。


▼柏原城から見た長水城(望遠拡大)





 この柏原城は長水城の支城であったと考えると、何らかの連携を保っていたのだろう。狼煙(のろし)などを使った見張りの城だったのだろうか。この城へは、歩いてきた上比地からの山道では、途中急な山の斜面を通らなければ近づけなく、おそらく古道は、南北に連なる尾根筋が主流で、それとまだ確認はしていないが西の谷筋(新宮町奥小屋地区)方面からの道があったのだろう。いずれのルートにしろ、この城へのコースは難所なのである。

 中央の主郭と思われる削平地の周りには、幾筋かのなだらかなU字型の堀跡がはっきりと残り、人為的な平地が西奥に延びている。






 展望のよい東端には高い見張り台や狼煙台が築かれていたのではないかと想像が膨らむ。そこからは、ほとんど山波しか見えない場所だが、ただ1か所集落の見えるのが城下地区南部と宇原地区北部で新宮町方面からやってくる侵入者は視認できそうだ。

 城の南東、山麓の東向きのに建てられていた大規模な仏教寺院跡がある。長谷山遊鶴寺跡である。いくつもの広い敷地跡とちらばった礎石が規模の大きさを物語っている。

 この寺と山城との関係はどうだったのか。羽柴秀吉軍の攻撃により焼失したとされる寺院と古城、いずれも、今後の調査により新たな発見が期待される歴史ロマン溢れる地であると感じた。


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柏原城 (栗栖里1994 新宮町教育委員会)より





  宍粟郡山崎町金谷と新宮町奥小屋(現在たつの市)の境界の尾根上(標高約490m)に位置する山城で、城主は早瀬帯刀正義と伝える。
 築城年代は明らかではないが、天正8年(1580)の秀吉軍の長水城攻めの時に長水城の宇野氏の家臣、小林・春名氏等の諸将が守っており、秀吉軍の攻撃で落城した。この時、同山中にあった天台宗の遊鶴寺も戦火に遭った。
 遺構としては、郭・堀・土塁等があり、主郭を中心として四方に郭が取り巻くように配置されている。当山城からは、平地に対しては山崎町上比地方面にしか視界がきかないが、高所であるため各地の山城を望むことができたものと思われる。おそらく当山城は狼煙等による通信手段連絡のためや郡境を守るための城ではなかったかと考えられる。
 なお、比高差約400mの高所であるが、明治時代の地図には当山城跡の南の尾根を越えて新宮町と山崎町を結ぶ道が3本も描かれており、往来があったことも窺(うかが)える。



アクセス 遊鶴寺跡と柏原城跡

▼国見の森公園 ハイキングマップ





 国見の森交流館の「国見の森登山口(A地点)」を出発し、防護フェンスを開けて、モノレールの下をくぐりながら進みます。「長谷山遊鶴寺跡入口(E地点)」の表示があるので、それに従って左に曲がり、いくつかの谷止めを横に見ながら杉林の中を歩くと館跡が左右に見え始め、寺院跡(F地点)に到着します。


 

 


 城跡へは、寺跡の上の沢にさらに小道の階段が付けられており、それが林道に続き、左に少し進んだ林道の終点が柏原城の上り口(G地点)です。ここまで約40分。
 ここから、木々に覆われた山の尾と谷あいを進むこと約30分で古城跡に到着します。
 

 

(取材日 2010・12・10)


コメント
ホンモンさんより  2012年05月10日
金谷の奥の大歳神社のそばに「長谷山遊鶴寺」がありますね…
 山上の遊鶴寺が廃寺になるとき、麓に移されたのか、あるいは額だけ降ろされたのか…謂れが知りたいですね??


 


追伸
タケネット  2011年01月13日 

狼煙(のろし)のこと
 NHKの「あさイチ」(1・13)で木曽の宿場町の紹介があり、そこで「妻籠(つまご)を愛する会」の狼煙実験の紹介があった。
それによると
 見晴らしのよい高台で、ドラム缶に生の杉葉を入れて燃やす。もくもくと白い煙が出る。数キロ離れた地点でその煙を確認できれば発煙し、リレーにより次々と伝えていく。色の出る煙もあったようだが、そこまでは、紹介はなかった。狼煙は時速80kmで通信できたという。条件がよければ最速100kmは可能だという。織田信長の殺害された事件(本能寺の変)が、京都から木曾まで半日で異変が知らされたという。

 狼煙の漢字は、狼(おおかみ)が使われている、狼が燃やす物に関係していたのか、日本狼は絶滅動物なので検証できないことになる。

 狼煙は無風状態であれば、天高く煙がたなびくが、季節風が吹き荒れるときは、煙が散って効果がない。風雨等の天候に左右されやすい狼煙は、いつでもどこでも送れるものではないから、情報量は限定的であったのではないかと容易に想像が出来る。色分けまで出来ればかなりの情報が送れるが、一般的ではないので、あらかじめ示し合わした事柄の可否を表す発煙で、せいぜい煙の量や発煙時間などを組み合わして簡単なメッセージを送っていたのかなと思われる。
 戦国の時代、敵方の動向をいち早く察知することが、合戦を優位に運ぶことが出来る。もし、色の出る煙を使いこなしていれば、伝える情報は数倍になるが、実際はどうだったのだろうか。 
 

【関連】
◇柏原城跡(2)~秀吉の陣城か~  


◆城郭一覧アドレス

冠婚葬祭「嫁入り儀式」

2019-12-08 10:01:42 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
冠婚葬祭「嫁入り儀式」   宍粟市波賀町

 
【閲覧数】1,713件(2009.12.25~2019.10.31)


嫁入り儀式  

厳かな嫁入り儀式  近くの住民たちが集まっている。

※昔は、花婿の自宅で夜に披露宴が行われ、親戚縁者地域ぐるみで、宴は深夜まで及んだと聞いている。

「宍粟のあゆみ」より



コメント  
  やすこさんより (2009年12月26日)    
 私の従姉妹が嫁入りした時、近所の若い衆が岩や石を道に置いて妨害(ではなく他所へ行くのを惜しんで)し、後でこれをのけてご祝儀をもらったのを覚えています。戦後直ぐだったかナ。

冠婚葬祭「嫁入り風景」

2019-12-08 09:58:26 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
冠婚葬祭「嫁入り風景」  山崎東和通り

【閲覧数】504件(2009.12.24~2019.10.31)


大正8年(1919) 嫁入り風景  松本たばこ店前 


冠婚葬祭は、重要な儀式。
昔は、嫁入り道具の数でお嫁さんの評判が決まるというほどで、きばって豪華にしていた。だから娘三人持つとひさしが傾くといわれた。


「写真で見る郷土史やまさき」より

地名由来「西山・室」

2019-12-08 09:47:58 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西山・室」  宍粟市千種町


【閲覧数】1,784件(2010.3.3~219.10.31)



■西山(にしやま)
千種川上流域。地名の由来は、千種谷の中心千草の真西にあたる山中にあるため西山と名付けられたという。地内に栗尾城があり、赤松貞範と範資兄弟の出城として構築され、赤松直頼が居城したというが(宍粟郡古城趾)、その所在は確認できない。勢端島谷(せばたしまだに)にたたら跡がある。当地から美作国吉野郡後山(うしろやま)村(岡山県東粟倉村)へ通じる道は、中世から千種鉄を備前の刀匠たちのもとへ運んだ主要道であり、また当地方に吉備文化が入った道でもあった。志引峠(685m)を越えて物資の流通や通婚が江戸時代から昭和初期まで続いた。

【近世】西山村  江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年出羽国山形藩領、宝暦2(1752)~13年上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩となったほかは幕府領。地内紙屋という小字は、隣村室(むろ)の西方寺にある享保14年(1729)建立宝篋印塔に銘を残す紙屋助左衛門にちなむ。助左衛門は紙漉きで巨万の富を築いたという(千種村誌)。当村では和紙の原材料となるコウゾとミツマタによる農外収入があった。
 神社は大仙神社と天満神社。寺は無住の庵寺である高野山真言宗仙光寺と浄土真宗本願寺派教福寺。教福寺境内にある※オハツキイチョウの実は妊婦のお産を軽くするとか、心臓によいといわれる。明治22年千種村の大字となる。

【近代】西山 明治22年~現在の大字。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。初期たたら製鉄が衰退したため、林業・養蚕業・蓄牛に力を入れるようになり、昭和13年には千種村が県下2位の子牛生産頭数となった。同年の当地の牛馬保有頭数は牛72・馬3。換金作物としてタバコ・コンニャク玉を栽培。




■室(むろ) 
千種川上流域。地名の由来に関しては、一説に聖なる山と崇敬された日名倉山麓にある集落で神の住み給う御室(みむろ)にちなんでつけられたと伝える。地内雛倉から奥海に越す峠に六人塚と刀橋がある。
 慶長10年(1605)平福の利神(りかん)城を立派な大城郭に構築した池田由之を池田輝政が謀叛の心あるものとこれを攻め滅ぼし、敗走由之の息女を守る6人の家臣が同地で討死、その家臣を祀った塚が六人塚であるという伝承がある。また、地内中央部に嘉永7年(1854)建立の代官望月新八郎の顕影碑がある。

【近世】室 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年出羽国山形藩領、宝暦2~13年上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩となったほかは幕府領。
 享保6年(1721)御年貢割賦之事では村名の上に鉄山請負の内と肩書が付いている。これは年貢米を鉄山請負の内と肩書きが付いている。これは年貢米を鉄山師の方へ廻したことを意味し、鉄山扶持方為替米という。鉄山師にとっては所相場で安く米が入手でき、百姓にとっても諸経費軽減となり双方の利益になった。

 享保17年(1732)不作による年貢銀納願のため江戸表へ越訴する一件が起きている。文政8年(1825)美作国吉野郡の一揆勢百姓1千人が地内こだにを越えてなだれ込み、当地の百姓も一緒に塩地峠を越え青木(山崎町)まで騒ぎたてた一件がある。

 神社は、天正19年(1591)勧請の日名倉神社。同社の祭神にまつわる話として、日名倉山(日の暮山)頂上に大日留女命が祀られていたが、誰も参りに来ないので神は東へ向かって跳び降りたといわれる。途中の岩で踏ん張ったためその岩に今でも大きな足跡が残っている。また、この神は婿がなく大変嫉妬深いので、当地では家でする結婚式には絶対に祝言の盃を交わさない風習がある。寺院は真言宗秋福山西方寺。明治22年千種村の大字となる。

【近代】室 明治22年~現在の大字。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。



◇今回の発見
・西山から作州後山に通じる道は、千種鉄を備前に運んだ主要道。名高い備前国長船の刀匠に好まれた千種鉄は名刀に生まれかわった。
・城郭構築で謀反の疑いをもたれた平福の利神城主。追っ手に家来全員討死。その霊を祀ったという六人塚が室に残る。息女は輝政のもとへ連行されたという(佐用町史)。
・作州美作国と最も近い千種の西山・室には古くから美作・備前と経済・文化のつながりがあったことを発見。