地名由来「早瀬・力万」 上月町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■早瀬(はやせ)
佐用川下流域の平地、高倉山の北西。白山満願寺跡に塔の礎石が残り、古墳などの遺跡もある。国道横の一本松は一里塚で、近年2代目の松が枯れ、3代目の松が植えられている。
古代は速瀬郷といい、奈良期から平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国佐用(さよ)郡八郷の1つ。「風土記」に讃容(さよ)郡6里の1つとして「速湍里(はやせのさと)」と見え、地名は川の瀬が速いことに由来するという。この川は佐用川である。また、速湍社の神は広比売命で、散用郡比売命の弟であるという。上月町早瀬が遺称地で、速湍里は現在の上月町の北半に比定され、「和名抄」では速湍里の北部は広岡郷となり、速湍郷は旧西庄村、現在の上月町中部に比定される。その後、中世に当地は見えず、慶長4年(1599)宇喜田秀家は戸川肥後守に早瀬の139石3斗の地を宛行っている。
氏神は白山神社(早瀬神社)である。白山満願寺は天正5年(1577)上月城の戦いの兵火にかかって焼失したといい、塔の心礎のみ残る。現在は白山満願庵がある。明治22年西庄村の大字になり昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から畜産・養蚕を副業として生計を維持し、また婦女子は、わら芯切りを冬季の副業として取り入れ、昭和25年前後まで続いた。昭和11年姫新線が南東部を通る。
■力万(りきまん)
佐用川支流大日山川流域の平地。地名の由来は、利器(兵器・武器)を作ったことによるか。荒神社が西畠と森ノ下に残っており、岡にはオフサノミコトを祀って神社跡があるほか、力万寺があったと伝えられ、山麓に五輪塔などがある。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村したという。
明治22年西庄村、昭和30年からは上月町の大字となる。明治24年西庄村役場を設置。同年西庄尋常小学校を設置。同35年西庄尋常高等小学校となる。
明治30年前後から畜産・養蚕に従事する農家が多くなり、昭和25年頃まで続いた。また、冬季のわら芯切りを婦人の副業として盛んに行った。大正12年電気架設。昭和11年姫新線が南部を通過。
◇今回の発見
・早瀬は風土記や和名抄に出てくる速湍里(はやせのさと)の明確な遺称地。土は上の中なりとあり肥沃な土地を示している。1300年もの間に川の流れや速さも変わっているようだ。
・力万は力仕事をイメージさせる。利器(兵器・武器)が作られた記録があるのだろうか。