郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「河呂」

2019-12-07 09:58:47 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「河呂」  宍粟市千種町


【閲覧数】2,596件(2010.3.1~2019.10.31) 



■河呂(こうろ)
千種川上流域。古くは川呂と書いた(正保郷帳)。地名の由来は、往古川が伏流し大小の岩石がごろごろとした石河原が続いていたことによるという。板馬(いたばみ)山(後山1344.6m)には役行者が開山したといわれる48の行場(ぎょうば)があり、位多場御山とも書き、行者山・後山ともいう。この渓谷には鑢(たたら)場跡があり、鉄滓が十数m堰堤(せきてい)のように層をなしている所がある。字宝谷(ほうだに)の小字鍛冶屋敷には十数件の鍛冶屋があったと伝える。字山田に農村歌舞伎舞台がある。当地の西側に千草富士ともいわれる笛石(ふえいし)山がそびえる。

▼農村歌舞伎舞台


▼板馬見修験行場


 天正8年(1580)5月長水城が落城し、秀吉軍に追われ当地に落ちてきた宇野政頼の一族が、三男の美作竹山城(岡山県大原町)城主新免宗貫(宗定とも記す)を頼って落ち延びようとしたが、洪水のため渡河することができず、宗貫の家臣が救援に来たことを知らせるこの山からの合図の笛を、前面にも敵が来たと誤認、秀吉軍の中を切抜け千草の大寺で自刃した。以後この山を笛石山と呼ぶと伝える。

【近世】河呂村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年(1746)出羽国山形藩領。村人は米・麦作など農業のほか、炭焼・鉄山稼に従事。
 享保17年(1732)凶作による年貢銀納願のため千草谷11カ村が江戸表へ越訴した。外に一揆や騒動はなかった。

 神社は、大森神社。もと千草町大森神社を氏神としたが、文政8年(1825)火災後の再建にあたり、社殿の位置についての紛争を生じ氏子が分かれ、嘉永3年(1850)現在地に社殿を造営した。

 平瀬一族が建立した平瀬神社がある。平瀬氏は長水城主宇野氏の家臣で、鉄山奉行を勤めたと思われる。天正8年(1580)宇野氏滅亡に伴って当村に土着、鉄山を経営し、元和2年(1616)から寛永17年(1640)まで千草谷11カ村の大庄屋を勤めた。寛永10年頃に長男に家督などを譲った家長が山崎城下へ出て千草屋を開き、宍粟郡内の鉄山を請け負って千草屋源右衛門を襲名した。寛文10年(1670)頃から郡内鉄山のほとんどを独占経営、宝暦6年(1756)に倒産するまで因幡・美作でも経営を行った鉄山師として活躍。

 寺院は、真言宗教雲山観音寺。同寺は役行者の開基といわれ千年観音・蔵王権現を祀り、もと教雲山下手院と号したが天正5年(1577)観音寺となる。明治22年千種町の大字となる。

【近代】河呂 明治22年~現在の大字名。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。明治40年・大正2年に発電所を設置する計画が村会に諮問されたが林業を主とする当地において、木材の搬出を容易にするための筏流しに支障をきたすという理由で否決された。大正12年千草川支流黒土川に発電所が置かれ一部に電灯がついた。当時全村照明用に使用した石油は年間100石(18kl)・金額8,000余円。筏業組合もつくられ、郡や村費の補助を受けて再三障害岩石の切り取り作業も行われたが、当時の技術ではおおきな岩盤・岩石の除去は困難で筏流しは実現しなかった。

 同14年発電所(現関西電力千種発電所)設立。主な生業は農業・林業(材木・薪炭・植林)・養蚕業・畜牛で、昭和13年の子牛生産頭数番付によると、東の横綱美方郡小代村、西の横綱が千種村と見える。また、郡内でも 千種村が最高の子牛を出荷している。当時千種村全村の牛保有頭数は674、馬20、うち当地は牛68、馬3。


◇今回の発見
・別名「千草富士」と呼ばれる「笛吹山」。山の名は、宇野氏一族の落城にまつわる、もの悲しい伝説のひとつから。
・なぜ、二つの神社が並立してあるのか。河呂大森神社は千草大森神社と参道を100m隔てているだけ。もとは一緒の神社だったが、分社は、火事の後の氏子の紛争という歴史があったことがわかった。
・明治後期、村に電気を導入する計画がもちあがった。しかし、水力発電建設のために、筏流しに支障をきたすということで、村議は否決したという。かつて、宍粟市に鉄道の導入の話が、持ち上がったときに、運送業関係者を中心とした大反対のため、立ち消えてしまったという歴史的経緯が思い起こされた。

地名由来「岩野辺」

2019-12-07 09:46:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「岩野辺」   宍粟市千種町

【閲覧数】2,592件(2010.2.26~2019.10.31)


■岩野辺(いわのべ)
千草川の支流岩野辺川流域。古くは、岩鍋といった。地元では、「いわなべ」「ゆわなべ」ともいう。地名の由来は、金屋子神社祭文に高天ケ原より神が降臨し、民の安全と五穀豊穣を願い傍らの盤石(いわ)で鍋を作ったことから当地が岩鍋と呼ばれ、神はそれより白鷺に乗って野義の奥悲田(現島根県広瀬町)に行き、自ら村下となり鉄を吹いたと記される。地内の山々にはいたるところに鉄穴(かんな)流しや鑢場などの製鉄遺跡があり、特に荒尾には鉄山師の建てた供養碑や高殿・大銅場・鍛治小屋・勘定場(元小屋)・砂鉄小屋・炭小屋・山内小屋など各職分ことに石垣で囲まれた遺跡が残る。

 地内新宮の8年(1580)5月、羽柴秀吉に追われた長水城主宇野政頼が当地に落ち延びた時、四男光兼が左眼を射られながら父を護って奮戦し、ようやくこの池の傍らで矢を抜き取り傷を洗った。その由縁で今もこの池のドジョウの左眼が赤いと伝える。


【近世】岩野辺村 江戸期から明治22年の村名。岩埜辺とも記される(旧高旧領取調帳)。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600 )姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年出羽国山形藩領、宝暦2年(1752)~13年(1763)上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩領となったほかは幕府領。

 宝暦年間(1751~64)内海の蹈鞴操業が始まり、近辺の平岩・九折(つづらお)山・溝口などで鉄穴流しが行われた。村人は作間稼ぎに鉄穴流しや炭焼・鉄山 荷物の運搬などに従事し生計の足しにした。また製鉄用炭木に村山や百姓持ちの山の木が売れ、天明年間(1781~89)には年毎に銀15匁の運上を納めており、さらに砂鉄を採集し鉄山もとへ売って年貢銀や村入用に充てている。

 千草谷11カ村のうち最大の村。他の10カ村の年貢米・鉄山荷物などは、下河野(けごの)の砂子から塩地峠(450m)を超え大沢村万合(現山崎町)を経て出石河岸(現山崎町)まで出したが、当村は村内内海から岩上峠(814m)を越え、伊沢谷(現山崎町)出石河岸に出していた(前野家文書)。

▼二つの峠


 享保17年(1732)凶作による年貢銀納入願いのため江戸表へ越訴する一件が起きているが、年貢減免を嘆願するのではなく、銀納願いとなっている点は鉄山と村との経済的な関係を示しているといえる。

 神社は、二宮神社。その境内に紀州新宮熊野速玉(はやたま)神社からの勧請した岩野神社がある。境内に農村舞台もある。寺院は真言宗石原山福海(ふっかい)寺。

 明治15年鉄山が終焉。鉄山労働者のほとんどが同21年までに、まだたたら製鉄が続いていた大茅(おおがや)・上斉原(現岡山県)の鉄山、生野・明延などの鉱山へ移住。同22年千種村の大字となる。

【近代】岩野辺 明治22年~現在の大字名。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。明治15年村は林業・養蚕業・畜産に力を入れ、昭和13年の子牛生産頭数番付によれば、千種村の牛保有頭数674のうち当地が150頭で村内一の保有数である。同年郡組合から出した子牛1,309頭は遠く静岡県への282頭を筆頭に2府13県に移出しており、うち当地の占める比重は大きかった。どう19年・20年の戦時物資欠乏時に兵器生産の鉄材にするため、鑢場の近辺へ山積みにして放棄されていた鉄滓を、毎日トラックに2台姫路の広畑製鉄所(現新日本製鉄)は出した。


◇今回の発見
・享保の飢饉で、年貢の減免でなく、物納(米)のかわりに貨幣(銀)での納入願いを姫路の役所(ちくさ11カ村は姫路藩預かり地になっていた。)に訴えても、らちがあかず、江戸へ越訴(おっそ)した。その制裁は、罪人扱い。町史を読みながら、お上の非情な処置に、憤りを感じた。いくらご法度・財政事情があるにせよ、飢饉窮乏の折ですら、農民から絞れるだけ絞るという悪辣さ。ちくさは、江戸時代(260年間)に打毀し事件1件以外、一揆や暴動などは一度も起こしていない優良村であったにもかかわらず。
・千草谷の最大の村、岩野辺。米や鉄の運搬路は内海から岩上峠(814m)を越え伊沢谷へ。千種から山崎への物資輸送は岩上峠と塩地峠のどちらかの難所が待ち受ける。
・戦時中の物資動員にお寺の梵鐘の供出があったことは聞いていたが、たたらの鉄滓(かなくそ)まで利用されたとは。