地名由来「河呂」 宍粟市千種町
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■河呂(こうろ)
千種川上流域。古くは川呂と書いた(正保郷帳)。地名の由来は、往古川が伏流し大小の岩石がごろごろとした石河原が続いていたことによるという。板馬(いたばみ)山(後山1344.6m)には役行者が開山したといわれる48の行場(ぎょうば)があり、位多場御山とも書き、行者山・後山ともいう。この渓谷には鑢(たたら)場跡があり、鉄滓が十数m堰堤(せきてい)のように層をなしている所がある。字宝谷(ほうだに)の小字鍛冶屋敷には十数件の鍛冶屋があったと伝える。字山田に農村歌舞伎舞台がある。当地の西側に千草富士ともいわれる笛石(ふえいし)山がそびえる。
▼農村歌舞伎舞台
▼板馬見修験行場
天正8年(1580)5月長水城が落城し、秀吉軍に追われ当地に落ちてきた宇野政頼の一族が、三男の美作竹山城(岡山県大原町)城主新免宗貫(宗定とも記す)を頼って落ち延びようとしたが、洪水のため渡河することができず、宗貫の家臣が救援に来たことを知らせるこの山からの合図の笛を、前面にも敵が来たと誤認、秀吉軍の中を切抜け千草の大寺で自刃した。以後この山を笛石山と呼ぶと伝える。
【近世】河呂村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年(1746)出羽国山形藩領。村人は米・麦作など農業のほか、炭焼・鉄山稼に従事。
享保17年(1732)凶作による年貢銀納願のため千草谷11カ村が江戸表へ越訴した。外に一揆や騒動はなかった。
神社は、大森神社。もと千草町大森神社を氏神としたが、文政8年(1825)火災後の再建にあたり、社殿の位置についての紛争を生じ氏子が分かれ、嘉永3年(1850)現在地に社殿を造営した。
平瀬一族が建立した平瀬神社がある。平瀬氏は長水城主宇野氏の家臣で、鉄山奉行を勤めたと思われる。天正8年(1580)宇野氏滅亡に伴って当村に土着、鉄山を経営し、元和2年(1616)から寛永17年(1640)まで千草谷11カ村の大庄屋を勤めた。寛永10年頃に長男に家督などを譲った家長が山崎城下へ出て千草屋を開き、宍粟郡内の鉄山を請け負って千草屋源右衛門を襲名した。寛文10年(1670)頃から郡内鉄山のほとんどを独占経営、宝暦6年(1756)に倒産するまで因幡・美作でも経営を行った鉄山師として活躍。
寺院は、真言宗教雲山観音寺。同寺は役行者の開基といわれ千年観音・蔵王権現を祀り、もと教雲山下手院と号したが天正5年(1577)観音寺となる。明治22年千種町の大字となる。
【近代】河呂 明治22年~現在の大字名。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。明治40年・大正2年に発電所を設置する計画が村会に諮問されたが林業を主とする当地において、木材の搬出を容易にするための筏流しに支障をきたすという理由で否決された。大正12年千草川支流黒土川に発電所が置かれ一部に電灯がついた。当時全村照明用に使用した石油は年間100石(18kl)・金額8,000余円。筏業組合もつくられ、郡や村費の補助を受けて再三障害岩石の切り取り作業も行われたが、当時の技術ではおおきな岩盤・岩石の除去は困難で筏流しは実現しなかった。
同14年発電所(現関西電力千種発電所)設立。主な生業は農業・林業(材木・薪炭・植林)・養蚕業・畜牛で、昭和13年の子牛生産頭数番付によると、東の横綱美方郡小代村、西の横綱が千種村と見える。また、郡内でも 千種村が最高の子牛を出荷している。当時千種村全村の牛保有頭数は674、馬20、うち当地は牛68、馬3。
◇今回の発見
・別名「千草富士」と呼ばれる「笛吹山」。山の名は、宇野氏一族の落城にまつわる、もの悲しい伝説のひとつから。
・なぜ、二つの神社が並立してあるのか。河呂大森神社は千草大森神社と参道を100m隔てているだけ。もとは一緒の神社だったが、分社は、火事の後の氏子の紛争という歴史があったことがわかった。
・明治後期、村に電気を導入する計画がもちあがった。しかし、水力発電建設のために、筏流しに支障をきたすということで、村議は否決したという。かつて、宍粟市に鉄道の導入の話が、持ち上がったときに、運送業関係者を中心とした大反対のため、立ち消えてしまったという歴史的経緯が思い起こされた。