郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「千種・三河」 

2019-12-05 17:31:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「千種・三河」  

【閲覧数】2,497件(2009.12.4~2019.10.31)






千種と三河

■千種:古くは敷草村(しきくさむら)という。千種川の上流域。

 地名の由来は、「風土記」に「草を敷きて神の座となす、故敷草という」とあり、「播磨国風土記新考」(井上 通泰著)に「シキクサをシクサとつづめ更にチクサと訛れるならむ。伊和大神巡行の時、草を敷きて大神の御座とせしならむ。」とある。また大森神社由緒によれば、村の木こりが大山祇命(おおやまづみのみこと)の教えにより玉を得、これを奉祀するため八百草・千草を刈り集めて神座を作ったことにより千草と名付けたという。

【中世】千草村 鎌倉期~戦国期に見える村名。播磨国宍粟郡のうち。千草村は、本来九条家領であったが、本家職をもつ九条忠家から東福寺の塔頭光明峰寺に寄進され、寺用不足・修理料にあてられていた。また当村は宍粟郡内ではあるが佐用荘に含まれ、「播磨国佐用荘内東庄・西庄・本位田(ほんいでん)・新位田(にいでん)・豊福村・江河村・赤松村・千草村・土万村」とも見える。

【近世】千草村 江戸期~明治22年の町名。宍粟郡のうち。明治以降は千草村と称した。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)山崎藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年(1746)出羽国山形藩領、宝暦2年(1752)~13年(1763)上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩領となったほかは幕府領。

千草村は、早くから町を形成していたと思われ、宝永5年(17089片岡醇徳著の「播州宍粟郡誌」によれば、当町は商農が並び、あたりには村も多く、因幡・美作へ近く、鉄山もあって交易でにぎわい、酒屋が6軒あったという。

【近代】千種村 明治22年~昭和34年の宍粟郡の自治体名。千草(ちくさ)・西河内(にしこうち)・河内(こうち)・河呂(こうろ)・岩野辺(いわのべ)・黒土(くろつち)・鷹巣(たかのす)・七野(ひつの)・下河野(けごの)・西山(にしやま)・室(むろ)の11か村が合併して成立。旧村名を継承した11大字を継承。

【近代】千種町 昭和35年~現在の宍粟郡の自治体名。※既出




■三河村:古くは御川と書く。千種川中流域。地名の由来は、伝承によれば、船越と河崎の境、久保田の地の北の自然の堤防を、大山咋命(おおやまくいのかみ)が切り離し川を南流させたといい、この川を神が作ったため御川と呼ぶという。

【中世】三川村 南北朝期~戦国期にみえる村名。播州国宍粟郡のうち。南北朝期に当村などは赤松氏の所領となっている。なお、当地は宍粟郡であるが、中世には佐用荘(さよのしょう)に含まれた。

【近世】三河村 江戸期の村名。宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領。元和元年(1615)山崎藩領。慶安2年(1649)からは幕府領。延宝年間(1673~1681)までに上三河村、中三河村、下三河村に分村。

【近代】三河村 明治22年~昭和30年の宍粟郡の自治体名。船越・河崎・上三河・中三河・下三河・西三河・西下野・漆野の7か村が合併して成立、旧村名を継承した7大字を編成。

昭和30年〜平成17年 中安村・徳久村・三河村が合併し「南光町」が成立
平成17年 佐用郡内の4町南光町・佐用町・上月町・南光町合併し佐用町となる。



◇今回の発見
 (1)千種は古代の鉄のルーツ、江戸期以降は、たたらの里として知られているが、一方これほどまでに所轄、管轄が変わったとは、驚きである。江戸期にさえ何度藩がえがあったのか、辞典の写しと和暦西暦対照表を片手に西暦年数の書き込みに苦労。
(2)地名の由来の記述から、2神の逸話の話で但馬、今回は三河村により西隣の町、佐用町に及ぶ。現在の三河村は、佐用郡南光町を経て平成の合併により佐用郡佐用町○○となり、南光の名は住所から消えた。この佐用町は風土記の播磨国賛容郡(さよのこおり)六里の一つ「賛容里(さよのさと)」である。

播磨 安積氏と城跡・居館跡

2019-12-05 10:22:41 | 城跡巡り
【閲覧数】5,733件(2017.9.7~2019.10.31)



播磨 安積氏の城跡・居館跡  宍粟市一宮町安積

 安積氏の城跡・居館跡館跡は因幡街道と但馬街道の交差する要衝であった宍粟市一宮町安積にある。その位置は引原川と揖保川が合流する揖保川西岸にあり、小さな森となっている場所(字下加門)に、かつては(下図面中央)堀や土塁で囲まれた構(居館跡)があった。

 その北西の愛宕山が瑞泉寺城跡である。その山裾には瑞泉寺廃寺跡があり、その場所は居館跡であったと考えられている。さらに北方には岩谷山(733m)が聳え、その手前の尾根筋上のピーク(555m)は古城山と言われ、尾根筋上に数段の曲輪跡と堀切跡が残る山城跡がある。


東安積村地番字別図 安積地区蔵




安積氏ゆかりの地 全景

 


安積保を支配した御家人安積氏

 安積氏は鎌倉時代、安積保に下司・公文職ならびに三方西郷(宍粟市波賀町)公文職、飾東郡姫道村(姫路城のあるところ)の田畠の知行を任ぜられた御家人であった。

 はじめ安積太郎兵衛大尉守氏(出羽守盛氏)は足利尊氏に属し、六波羅攻めの合戦に忠節を尽くしていたが、赤松則村(円心)が播磨国守護に任ぜられるとその被官となり代々安積保を支配していた。


赤松家に被官し最後まで仕える

 嘉吉元年(1441)主家赤松満祐が第六代将軍足利義教を謀殺するという嘉吉の乱※を起こした。その将軍暗殺に手を下した強者が安積監物行秀であった。その乱により赤松家及びその一族は幕府軍の追討により滅亡するも、応仁の乱後に旧領の播磨を奪回し守護家として復活したのに伴い安積氏も復活し、以後置塩城(姫路市夢前町)を本拠とする守護赤松家に最後まで仕えた。



宇野氏との対立

 戦国末期になると赤松総領家は衰退し、出雲の尼子氏が播磨に侵攻したがそれを食い止めることができなかった。その頃篠ノ丸・長水城主宇野氏は赤松惣領家から離反し、尼子氏とは争わず手を組み勢力の温存・拡大に努めていた。そのため赤松家被官の安積氏と宇野氏はこの頃から対立していたようである。

  弘治年間(1555~57)前後に宇野村頼の子政頼が赤松惣領家赤松晴政と戦ったことが最近に明らかにされた。天文16年(1547)(推定)の大井祝(はふり)陳情案(伊和神社文書)には「安積城退散の時、殿様御帰陣之時、御太刀一腰進上候」とある。これは社家の大井祝が宇野氏の奉行衆に願い出た文書の記述で、安積城退散の時に殿(宇野村頼)が太刀一腰を伊和神社に進上(奉納)している。安積城退散の年月は不明だが安積氏は宇野村頼に城を追われたことがわかる。

 天正8年(1580)羽柴秀吉の長水城攻めには、安積氏は田路氏とともに置塩城主赤松則房に従って秀吉軍に属し、天正10年(1582)安積将監は宍粟郡河東(一宮町)本知分100石を安堵された。



安積一族のその後

 安積家の古文書は地元宍粟市本拠地の安積家の外に三家に残されており、それらの古文書から一族のその後が判ってくる。
 その出所は林田藩領の揖東郡吉美町(姫路市大津区)と加西郡西剣坂村(加西市西剣坂町)そして盤城国(いわきのくに)田村郡三春町(福島県田村郡三春町)である。
 地元の安積家は播磨姫路藩の初代藩主池田輝政から富土野鉱山(一宮町)の生産の差配を命じられ、以後安積構村をはじめ郡内の七ケ村の代官となっている。
 県外の盤城・福島の「安積文書」安積小太郎氏所蔵から、播磨を離れた一人は後に陸奥・会津藩士になったことが判った。そのことは赤松家最後の当主赤松則房に仕えて阿波・徳島に移り、主家滅亡のあと浪人となり文書を携えて陸奥にわたり会津藩に被官したことを伺わせる。
戦国の世が終わり、安積氏一族は播磨と陸奥でそれぞれの道を歩んでいる。



▲ 池田輝政判物※


※ふとの山諸座共申付上者、運上之儀、毎月不可有違候、若背法度族於在之者、急度可成敗者也、

慶長六年 八月四日 照政(花押)  彦兵衛 又左衛門



参考:『兵庫県史 資料編中世三』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』(宍粟市教育委員会)、『播磨北部の生業と武士』(兵庫県立博物館)、『角川日本地名大辞典』



※山崎郷土会報(NO.129)より転載 写真カラー化


※参考 赤松及び宇野氏系図


コメント:
播磨屋 2017.9.9

拝見しました。
安積氏の歴史、おもしろいですね。
中世から近世、そして現代へ家の歴史を紡ぐということの途方もない時間に思い至らせたことです。
江戸時代のものであろう古地図も初めてみました。安積氏の館跡が残っていればと思うのですが近代から現代に至る時代の荒波の前にはあっけなく潰え去るしかなかったのでしょう。
 せめて今にのこる歴史遺構を後世に伝えたいと願うのですが、いまの文化財行政の貧しさに思いをいたすとそれも、心許ないことに思われ、暗澹とすることです。

タケネット 返信 2017.9.9
 今回の取材で安積氏は、鎌倉期から現在までの気の遠くなるような長い期間を生き抜いて、すごいと感じています。
 長い歴史の中で、特に室町・南北朝期や戦国時代は、日本の文化や歴史を形造った時代であったのに、もう一つわかりづらいのですが、その時代を知る史料が残されています。
 歴史教育は郷土の歴史からと常々思っていますが、郷土にはいいものが残っています。歴史遺構の保存については、以前伊水小学校背後の宇野構跡が取り壊され、非常に残念に思いました。
 行政もさることながら、古きよきものを残そうとする住民意識は教育や地域の中で時間をかけ育まれるものなので、なんともはがゆいものです。


関連
安積城跡,瑞泉寺城跡 

◆城郭一覧アドレス

播磨の城跡「安積城」

2019-12-05 09:38:04 | 城跡巡り
安積城跡 宍粟市一宮町安積


【閲覧数】4,342件(2010.11.22~2019.10.31)
    

  



安積城跡

 安積城(あづみじょう)は、宍粟50名山の一つ岩谷山(732.6m)の登山ルート途中にある「古城山(こじょうやま)」ともいわれ、頂上に555m標高の表示が立てられている。
 山頂までに掘切り跡といくつかの郭と思われる削平地(さくへいち)が見られます。途中地籍図根三角点から木々の裂け目を通して揖保川と引原川の合流地点付近の安積橋からその下流域の閏賀橋さらに、その向こうに伊和神社社叢が見えます。頂上付近からの眺望はよくないが、西方面には波賀町日見谷あたりが、東方面には、深河谷と思われる集落が木々の隙間から確認できます。

 因幡街道筋と三方方面の街道筋が一望できる要所に位置する中世の城跡です。安積保の公文職をもつ安積一族が14世紀から16世紀末にかけて居城し、後期は赤松氏の重臣としての働きがあったようです。

 



▼安積城(古城山)の位置




▼古城山頂上



▼頂上からの風景





▼古城山の中腹からの展望







アクセス

 一宮町の安積橋をわたり、伊和高校の横の信号を右折し安積八幡神社に向かい、鳥居をくぐりぬけると広場に出ます。広い敷地の安積木材加工センターが左手に見えます。道の向こうの山麓につづく林道入り口に岩谷山登山口の表示があり、そこから中安積配水池前を通り10分ほど歩くと、次の案内板がありそれに従い、左の杉林に入って行きます。

 



 そこを抜けると、次の案内板があります。これからが本番。急斜面では道がわからなく、木々の目印(赤テープ)のみが進む方向の道しるべになります。うすぐらい人工林の急斜面に足をとられないよう注意しながら登り切ると明るい尾根沿いの道が現れ、その先にやっと古城山(こじょうやま)に到着。ここまで約1時間。岩谷山は、目の前にあるが、名山ガイドによるとここからあと1時間を要すとあります。


※安積の小字を調べていると、古城山(こじょうやま)は小字に残る地名だとわかりました。岩谷山を「いわたにやま」は小字では「いわややま」とあり、読みの違いが気になります。