地名由来「末広・東新宿・久保・島脇」 三日月町(現佐用町)
(2010.10.4~2019.10.31)
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■末広(すえひろ)
千種川支流志文川下流域。地名は当地が多賀登山を擁して明治9年合併した旧3か村(東新宿・久保・島脇)が扇形に広がっていることにちなむという。
■東新宿(ひがししんじゅく)
単に新宿とも称する。千種川支流志文川下流域。乃井野の南西、志文川北岸の河岸平地と後背の山地に立地する。「播磨風土記」の讃容郡中川里(さよぐんなかつがわのさと)や「和名抄」の佐用郡中川郷のうちに否定され、地内に古代美作道の中川駅が置かれていた。元禄10年(1697年)三日月藩主森家が入封の時、はじめ当地の後藤家に滞在したことにより新宿といわれるといい、東を冠するのは同郡内(上月町)に同名村(西新宿)があったため、ただし、元禄年間以前に当村名があったことが知られる。
文安3年(1446)の室町将軍家御教書に「佐用郡中津河新宿」とみえ、中津河新宿の住民らが播磨国荏胡麻商売権を免許されていた大山崎神人の権益を侵して油の販売を行い、度々の停止命令にも従わないので幕府は播磨守護山名持豊に油器の破却を命じている。中世には新宿と称され、市庭があったと思われ、地内に北市ノ上(きたいちのかみ)・南市ノ上の地名が残る。慶長国絵図に「新宿町」「池上」がみえる。池上は市ノ上に比定される。
神社は十二世(じゅうにせ)神社。堂庵は大日堂・定栄庵。当地の後藤家は大庄屋であった。
■久保(くぼ)
千種川支流志文川下流域。東新宿村の南、志文川南岸に位置する。集落の後背山地は急斜面をなし、頂上含んで高原状をなしている。地名は、久保は窪のことでくぼんだ所の意によると思われる。慶長国絵図には窪村とみえる。江戸前期から幕府領とされたのは弦谷(つるたに)鉱山との関係による。多賀登山麓に宮山があり、八幡神社が祀られている。
■島脇(しまのわき)
千種川支流志文川下流域。東新宿村・久保村の西、志文川河岸段丘と後背山地に立地する。南端を美作道が通る。地名は、丸山が志文川に島のように突き出ており、集落がその脇にあることにちなむと思われる。北方の丘陵地に古墳時代の群集墳と地中に堀込んで作った登窯があるが未調査。
◇今回の発見
播磨風土記にある讃容郡中川里の中心が(東)新宿一帯であった。今回の紹介の3村は三日月町の東部に位置し、明治9年合併し末広村と名付けられた。ちょうど扇のような地形からきたという。