地名由来 「河内・西河内」 宍粟市千種町
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■河内(こうち)
千種川の現流域。地名の由来は、三室山からと木地山から流れる川が川井で合流して東南に流れ千種川となるが、その河谷の平地を河内と称したことによる。いつの頃からか東西2つに分かれた。三室山には御室山とも書かれ聖なる山とされ、砂鉄を水撰した井手跡、溶解した炉跡などがある。地内高羅山にも製鉄遺跡、山内で働いていた人々の群墓、鉄山師が建てた供養碑が残る。
【近代】河内村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。東河内村が改称して成立。明治22年千種村の大字となる。
【近代】河内 明治22年~現在の大字名。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。
炭焼・木挽・植林を主とし、養蚕・蓄牛も盛んであった。昭和13年千種村が県下で子牛生産頭数第2位になった時、当地の牛保有数61.そのほかコウゾ・ミツマタなど製紙原料および 黄蓮(オウレン)など薬草を栽培し、自生のノリウツギ(製紙用の原料)、染料用の紅花、薬として用いる黄蘗(おうばく)などを採集して出荷した。
■西河内(にしごうち)
千種川の現流域。地名の由来は、木地山からと三室山から流れる川が川井で合流して東南流し千種川となるが、その川谷の平地を河内と称したことによる。いつ頃からか東西両河内に分かれた。「正保郷帳」「千草の西河内村」と(肩書きが)あるのは、隣郡にも西河内村があったことによる。両河内とも因州~播州の通路で、両州の荷物が牛馬の背により繁多に交流したことに関係する多くの文書が残る。字高保木に自然通風で砂鉄を溶解した 古代の炉跡、天児屋に勘定場・高殿・鍛治大工場等々各職分ごとの整然とした石垣で囲まれた区画があり、日本有数のたたら遺跡といわれる。宍粟郡北部から出る鉄は千草鉄という名で、鎌倉以後刀匠たちの間で、良質の鋼として有名になる。
【近世】西河内村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)からは幕府領。なお、延享元年(1744)~同3年は出羽国山形藩領。慶応4年村方三役が生野役所宛に出した文書には、「当村は極く山中、美作・因幡両国境にて御林山裾にて、田方用水冷え込み、平生稲生立よろしからず、毎年彼岸頃より土用まで雪霜の所故、百姓間合には鉄山に参るもの、引方職に参る者、千草町へ売木仕り候者もこれあり」と生業について述べている。高所で農業の生産性が低く、鉄穴流しや大炭・小炭焼、そのほか鉄山 荷物の運搬などによる作間稼ぎが生計を支えた。また村の共有山林の雑木が鉄山用炭木として売れ、年貢銀や村入用に充足された。地内には天児屋鉄山のほか、一ノ谷・中島・鍋ケ谷・三連谷(仁札谷)など製鉄遺跡がある。
鉄山跡地図
鉄山跡写真
神社は峰王神社、鍋ケ森神社。鍋ケ森神社の渓谷の岩に鍋を思わせる甌穴が数多くあり、この穴にさわると洪水が起こると伝えられ、旱魃の年には村内はもとより、遠く岡山・鳥取方面からも雨乞祈願の参詣者があった。のち大正6年鍋ケ森神社は峰王神社と合祀。ほか金屋子神社・山神社。
明治10年に「当村鉄山稼方活計相立たず」同15年には「当郡内鉄山休山仕り」と記され、同15年~21年までの間にわずかに土着した人たちを除き、製鉄集団は大茅・上斎原(岡山県)のほか生野・明延・神子畑などの鉱山へ移住した。そのため村は経済的に大きな打撃を受けた。
同十八年 戸長から郡長宛の「上申書」によれば地租改正により木炭資材林地の大部分が国有林になったのに伴い杉板・炭など林産物・農産物価が低落し住民が極貧に陥ったと訴えている。明治22年千種村の大字となる。
【近代】西河内 明治22年~現在の大字。はじめ千種村、昭和35年からは千種町の大字。
植林・木挽(こびき)・炭焼など山林業に力を入れ、また養蚕・蓄牛を主要産業とした。ものほかコウゾ・ミツマタなど製紙原料を栽培し、自生のノリウツギ、黄蘗など薬草、紅花などを採集して出荷した。
◇今回の発見
・今回の河内・西河内は鉄山の歴史は古い。たたらの製鉄の終焉は明治13年、製鉄集団は周辺の鉱山へ移住し、村は活気を失った。鉱山で栄えた町は同じような運命をもつ。養父大屋町の明延鉱山は、昭和62年まで続いたが、金属不況で良質の鉱床をもちながらも閉山に追い込まれた。その記憶はまだ新しい。