地名由来「寄延・目高・仁位」 上月町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■ 寄延(よりのぶ)
千種川支流佐用川流域。地名は、村寄り合い、辻寄り合いの場所に由来するか。
寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。荒神宮を上月村の八幡宮に合祀した。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。
農業を主として生計を維持してきたが、明治30年前後から畜産・養蚕・製炭関係業に従事し、婦女子は冬季わら切りに従事して、生計を維持し、昭和25年前後まで継続。大正12年電灯架設。
■ 目高(めだか)
佐用川支流秋里川の北。寄延村の南西。後山(405.1m)北東の急坂山腹の階段状の地に集落がある。地名の由来は、高い所の意によるか。昔西大畠から移ってきたともいう。天正年間(1573~92)羽柴秀吉が上月城を攻めたとき、愛宕山周辺に大成陣屋があり、上月城の水源地、のろし場や枡形と、これらを守る大築地(土塁)が残る。後山の山頂近くの菖蒲(勝負)谷は上月城の飲用の水源であった。
寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。庄屋は下秋里村庄屋の兼務。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。
明治30年頃から畜産・養蚕を副業として生計をたてるようになり、昭和25年前後まで続いた。産物のコンニャクは京阪神で名高く、大正10年には130駄出荷、1駄34円で売却。山地で道路がなく牛馬の背、人の肩で荷物を運搬していたが、大正8年目高から寄延を経て上月に至る復員6尺・延長620間の道を開削。大正12年電灯架設。
■ 仁位(にい)
佐用川左岸、仁位山の西麓。地名の由来は、急斜面の山麓台地につくられた新しい村の意か。仁位山城跡は、羽柴秀吉が上月城攻略の前衛を置いた所で、山に10を超える壕跡も残る。
仁位・美土路(みどろ)の二集落よりなり、庄屋各一人がいた。天保7年(1836)川荒れ5か年限り御用捨引き、嘉永元年(1848)秋洪水で新田6反余に被害。明治22年西庄村の大字になり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治23年・同25年・大正7年ともに洪水があり、堤防決壊、井堰流出の被害を受けた。大正7年7戸全焼。農業主体の経営であったが、明治30年前後から、畜産・養蚕を副業にした農家経営に移行、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。
◇今回の発見
・興味ある地名が並ぶ。仁位は、新(にい)からとするが、もっと何かありそうに思えるが。
・上月城は、播磨・美作・備前の三国につながる要衝の地にある。そこで繰り広げられた激しい戦いの記録が残る。