郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

遊びと学校

2019-12-29 13:57:40 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
遊びと学校 
【閲覧数】811 件(2010.2.1~2019.10.31)


昭和30年 千種南小学校鷹巣分校


学校は学年を超えた楽しい遊び場であった。


(写真・文 「追憶 ふるさと宍粟写真集」より)


※今は、学年を超えた遊びは見かけない。というか、子供の数自体が激減してしまった。

地名由来「寄延・目高・仁位」 

2019-12-29 13:48:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「寄延・目高・仁位」   上月町(現佐用町)

【閲覧数】2,357件(2010.10.13~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■ 寄延(よりのぶ)
千種川支流佐用川流域。地名は、村寄り合い、辻寄り合いの場所に由来するか。
寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。荒神宮を上月村の八幡宮に合祀した。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。

農業を主として生計を維持してきたが、明治30年前後から畜産・養蚕・製炭関係業に従事し、婦女子は冬季わら切りに従事して、生計を維持し、昭和25年前後まで継続。大正12年電灯架設。



■ 目高(めだか)
佐用川支流秋里川の北。寄延村の南西。後山(405.1m)北東の急坂山腹の階段状の地に集落がある。地名の由来は、高い所の意によるか。昔西大畠から移ってきたともいう。天正年間(1573~92)羽柴秀吉が上月城を攻めたとき、愛宕山周辺に大成陣屋があり、上月城の水源地、のろし場や枡形と、これらを守る大築地(土塁)が残る。後山の山頂近くの菖蒲(勝負)谷は上月城の飲用の水源であった。

寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。庄屋は下秋里村庄屋の兼務。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。
明治30年頃から畜産・養蚕を副業として生計をたてるようになり、昭和25年前後まで続いた。産物のコンニャクは京阪神で名高く、大正10年には130駄出荷、1駄34円で売却。山地で道路がなく牛馬の背、人の肩で荷物を運搬していたが、大正8年目高から寄延を経て上月に至る復員6尺・延長620間の道を開削。大正12年電灯架設。



■ 仁位(にい)
佐用川左岸、仁位山の西麓。地名の由来は、急斜面の山麓台地につくられた新しい村の意か。仁位山城跡は、羽柴秀吉が上月城攻略の前衛を置いた所で、山に10を超える壕跡も残る。

仁位・美土路(みどろ)の二集落よりなり、庄屋各一人がいた。天保7年(1836)川荒れ5か年限り御用捨引き、嘉永元年(1848)秋洪水で新田6反余に被害。明治22年西庄村の大字になり、昭和30年からは上月町の大字となる。

明治23年・同25年・大正7年ともに洪水があり、堤防決壊、井堰流出の被害を受けた。大正7年7戸全焼。農業主体の経営であったが、明治30年前後から、畜産・養蚕を副業にした農家経営に移行、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。




◇今回の発見
・興味ある地名が並ぶ。仁位は、新(にい)からとするが、もっと何かありそうに思えるが。
・上月城は、播磨・美作・備前の三国につながる要衝の地にある。そこで繰り広げられた激しい戦いの記録が残る。

地名由来「上月」

2019-12-29 13:35:00 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「上月」      上月町(現佐用町)

【閲覧】(2010.10.12~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





《上月町について》

 中央を千種川とその支流佐用川が流れ、佐用川には谷々から秋里(あきざと)川、大日山(おおびやま)川・幕山(まくやま)川が流入する。標高80m~400mの間に立地し、約8割が林野である。主産物は、かつては米・麦・繭・木炭などであったが、現在は工業団地が造成され十数社が創業し、また姫路・竜野・相生方面への通勤兼業農家が大半である。中央部を東西にJR姫新線が通り、上月駅がある。国道179号線がJR線にはほぼ並走する。南北方向に国道373号線がとおり、町中央で179号線と交差している。上郡町と鳥取県智頭町を結ぶ智頭急行が東南部を通り久崎駅がある。

 江戸時代、現町域に34村あり、抜位(ぬくい)・小赤松(こあかまつ)・大酒(おおざけ)の3村は赤穂郡に、その他は佐用郡に属した。明治22年町村制施行により佐用郡幕山村・西庄(にししょう)村・久崎村が成立。昭和15年久崎村が町制を施行。昭和30年久崎村に赤穂郡赤松村の大酒・小赤松および旭内抜位地区(現大字大釜)が合併。同年幕山村と西庄村が合併し上月町となる。昭和33年上月町に久崎町が合併して、上月町となる。そして、平成の合併(平成17年)により、佐用町となる。



■上月(こうづき)
 上月町の中央部。千種川支流作用川右岸に位置し、西から同川に流入する大日山川両岸の河谷平野と段丘に立地する。上上月・中上月・下上月の3集落からなる。中世は佐用(さよ)荘のうち。地名の「こうづ」は川岸の崖山、「き」は城・村を示すと思われる。  

 古代~中世の美作道は慶長期(1596~1615)頃佐用(さよ)村から佐用川沿いを南下して当村を経て大畠(おおばたけ)村の万能(まんの)峠越に変更、整備された。天保11年(1840)7月11日まで31日間旱天。元和元年(1615)から当地と赤穂の間を高瀬船が運行、米、薪炭、木材、板を赤穂で降ろし、塩を積んで帰る。ただし、夏季は就航しない。明治22年西庄村、昭和30年からは上月町の大字。
 八幡神社は豊前宇佐宮を勧請したと伝え、代々の上月城主の氏神として崇められたという。字真野(まの)に貞治4年(1365)4月16日の年紀をもち、「化(施)主道成敬白」と記された宝篋印塔がある。

 明治23年・24年と続けて洪水あり。明治30年ころから畜産・養蚕を営み、農家経済の主流となり、昭和25年頃まで続いた。大正12年電気架設。昭和11年姫新線開通。国道改修により人口増加、商店が軒を重ねるようになる。







◇今回の発見
中世の上月城跡の城下にJR姫新線の上月駅・上月町役場(現上月支所)がある。古代~中世の美作道は、上月から西の万能峠を通り作東町へ抜ける道として整備されたという。