バイトまで昼寝しておこうと思ったら少々寝過ぎたようだ。夕飯のお誘いの電話が鳴って起きれたようなものでしたが、少々危ないところでございました。あざっす。医大生・たきいです。
バイトまでの道すがら、月が美しい。鬼怒川を渡りながら映える月。君も見ているのだろうか。真ん丸なお月様。
「月がきれいですね」という科白は漱石先生による偉大な訳語であることはあまりにも有名だが、さて、どうして月なのか。夜風に髪を靡かせる君を見ながら聞く、川のせせらぎの美しさをうたったってよいではないか。
手持ち無沙汰に外へでて、ふたりで月を眺めるなんてことがしてみたい。一見するとそれは時間の消耗のようにも見える。月を眺めるという行為自体が、そもそも合理主義に悖るのである。月よりも食べ物。横目にして、ふたりでご飯でも食べにいった方がよっぽどよかろうか。
それでも敢えて、漱石は月を眺めさせたのである。ふたりで時間を過ごすということ。さらには愛を告白するときに、その視線はどこかということである。漱石風にいくならば、月を眺めながら、乃ち相手と視線を交わさずに上を見ていたわけだ。
惚れた女と飯を食うとき、正面に向かい合うのは良くないのだと聞く。正面に座れば、常に視線は相手側に向く。つまりは視線を動かすという行為が視線を逸らすという行為に相当してしまうわけである。逸らすという消極的な態度を相手に伝えるわけにはいかぬ。
したがって、90°体を回した位置に座るか、横に並ぶのがよいのだという。さすれば、視線を動かすという行為が、視線を交わすという肯定的な印象に変わるわけである。たまに交える緊張感がよい。
「月がきれいですね」という科白は、奥ゆかしすぎるかつての日本人らしくはあるが、現代には似つかわしくないという感想が一般的だろうか。それでは気持ちは伝わらず、抱き締めながら愛している、と言えばよかろうと。
いや、漱石先生に限ってかかるコミュ障ぶりを発揮しているわけはない。そもそも文豪がコミュ障なわけがないのである。
ふたりならんで月を見る。この時ふたりの視線は平行線なまま。そこでここから、能動的に視線を交えて愛を告げるべし。積極的な印象とともに気持ちを伝えるわけだ。
今どきそんなの流行んないと嘲笑する現代人は愚かで、漱石先生から学ぶ恋愛テクニックは実に貴重であるようにも思われる。「月がきれいですね」という言葉も、考えてみれば深い。
かく思はるる月夜の下で、君はいまごろ何しているのだろう。
(このところの教科書すら読まぬ読書量の少なさを嘆かずにはいられない人(笑))
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