(↑ 記事内容には関係ありません。)
2022年6月15日付東京新聞朝刊の論説委員のコラム「視点 私はこう見る」に載った記事を紹介します。
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「阿武町誤送金事件 自己責任論の二重基準」 田原 牧(論説委員 兼 編集委員)
いまだにモヤモヤ感が拭えない。やや旧聞に属するが、山口県阿武町が新型コロナ対策の給付金4,630万円を町民の若い男に誤って送金した騒動のことである。
返金を拒んでいた男は逮捕され、送金額の9割超も回収できた。町長もミスを謝罪し、自らや関係職員の処分を表明し、一件落着という雰囲気だ。それでもなのだ。
誤送金の公金と知りながら「ギャンブルに使った」と開き直れる人物の性格にはとてもついていけないが、事件の発端は町職員のミスにある。
心の中のモヤモヤの糸をたどると、ここ20年以上、社会を縛っている一つの言葉にたどり着いた。「自己責任」である。自己責任にうるさい社会なのに今回、「ミスをした町の自己責任」と語られることはほぼなかった。それがどうにも引っ掛かるのだ。
自己責任論の横行と新自由主義の台頭は軌を一にしている。当初、株式投資では自己責任原則を重視し、投資家の保護は最小限にとどめるといった文脈で語られた。
しかし、2000年代初頭のイラクでの人質事件で、意味が変わってくる。地元の武装勢力に拘束されたボランティアの日本人青年たちをたたく狙いで使われた。言い換えれば「自業自得」である。
やがて、それは非正規雇用などによるワーキングプアたたきにつながった。「貧困は当人の努力が足りないせい」「誤った選択が原因」と突き放す道具となった。生活保護の申請を拒む自治体の「水際作戦」の理屈もこれである。
国民が持つ当然の権利を制限する凶器に化けたのだ。理由はどうあれ、誰であれ、海外にいる自国民の保護は政府の仕事(義務)である。生活保護もお願いではなく、生存のための権利であり、申請をためらう理由は全くない。
結局、政府や自治体が負っている義務を免れるため、自己責任論は乱用されたということだ。困ったことに、少なからずの国民はそれを内面化した。16年に発生した相模原障害者施設殺傷事件の犯人は典型だ。彼は障害者福祉に税金を使うことへの疑問を隠そうとしなかった。
そうした中、今回の騒動が起きた。普段、自己責任論を振り回す「お上」が、自らのミスが招いた損失にはその刃(やいば)を向けようとしなかった。
ずるくないか。二重基準ってやつですか。モヤモヤの根はこれだった。捕まった男も自己責任論を強いられて育った世代の一人だ。「このカネは役所の自己責任でしょ」と思ったのかもしれない。
しかし、である。町に全ての責任を負わせたいとは思わない。むしろ、逆だ。生身の人間である限り、誰もがミスから逃れられない。自己責任論は社会から寛容さを奪ったが、それを元に戻したい。
失敗やミスをお互いさまと引き受ける。そうした空気が醸成される転機になれば、騒動もムダではなかったと思える。
(※文中の太字化と段落分けはブログ管理人によります。また、横書きで読みやすいように、漢数字を算用数字に置き換えています。)
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この事件が起き、経緯を見守る中で、私も田原氏のようにずっとモヤモヤしていました。お金を使い込んだ男性の行為は論外としても、ミスの発端となった町の責任を問う論調がメディアにほとんど見られなかったことに、同じように違和感を抱いていたからです。役所のチェック体制が機能しておらず、担当職員のミスを発見できずに事件が起きたことへの追及がなかったことも、残念でした。でも、田原氏のように、その違和感の正体、本質を突き詰めて考えることまではしていませんでした。
この文章を読み、「そうだ、そうだ、私のモヤモヤの正体もこれだったんだ!」と思い当たりました。そして、一番同意、共感したのがここです。「困ったことに、少なからずの国民はそれを内面化した」という部分です。憲法で保障されている基本的人権が蔑ろにされているにも拘わらず、自己責任論を濫用する側の論理がいつのまにか頭に刷り込まれ、同調する人が増えたように感じているからです。自分で自分の首を絞めていることに気づいていないように見えるからです。
その現象は、コロナ下で出されるようになった緊急事態宣言を多くの国民がすんなりと受け入れたことにも表れたと、私は感じています。くだんの宣言が憲法で保障されているさまざまな人権を制限するものであるのに、「宣言で国民の行動を抑えないと、コロナ感染拡大も抑えられない」と考えた国民が多かったということでしょうが、それは、自らを律することを選ばず、権力に律することを委ねてしまったということですよね。「医療逼迫を避けるために宣言を出す」という詭弁に近い文言にも、抵抗感を抱かなかった国民が多かったということなのでしょう。医療逼迫は政府の失策が原因だったと私は考えています(元を辿れば、政府自民党が10年間にわたって感染症対策への予算を削ってきたことと、新型コロナを感染症二類に分類したからだと私は考えております)が、すっかりその詭弁に騙され、強い人権制限である宣言を多くの人が肯定的に受け入れてしまった…。このことは、来月の参院選後に政府が目指すであろう憲法改訂(絶対「改正」とは言いたくない!)を容易に許してしまうことにつながりかねません。政府の目論む緊急事態条項の憲法への付設は、緊急時に総理大臣への権力を集中させ、国民を容易に従わせることを可能にします。何が緊急時かを決めるのも政府です、国民ではありません。権力を縛る目的を持った憲法を、国民自らを縛る凶器へと変えてしまうことになると言っても過言ではないというのに…。
権力者が繰り返し発する文言、聞こえのよい文言を聞くうちに、その濫用に気づかず、ひいては国民自らがその論理を内面化させてしまうことの恐ろしさを、少しでも多くの人が考えてほしいと思う私です(^^ゞ
冗長な文章を最後までお読みくださり、ありがとうございましたm(__)m
「人材」という、国民を労働力や道具としか見ていない”上から目線”の言葉も、すっかり国民に内面化してしまった言葉だと思う&「憲法改正」も為政者が濫用して国民に内面化させようとしている言葉だと思うtakuetsu@管理人でした(^^;
言ったのは誰だか分からないけど全員でも問題無さそう。
記事にあるように色々と矛盾だらけ。
矛盾な事をするエライ人達は
漫才の「早く止めてくれよ」みたいに
「早く突っ込んでくれよ、制度変えるから」とやっている、
そんなわけないですね。
> 冗長な文章を最後までお読みくださり、…
3行にまとめてください(^^;;;;;
責任は取るものではなく感じるもの? そういうことを平気で言える図々しさが羨ましい(^^; そういう図々しさを兼ね備えた人がエラクなれるのかな(^^ゞ
>「早く突っ込んでくれよ、制度変えるから」とやっている、
そんなわけないですね。
そんなわけあるかも、ですよね。
私のある友人が言っていました。悪法も法律、現状に合わなければ合うように法を変えればよいと。
表現が違うだけで、「早く突っ込んで……」と同じことのような(^^;
国民が突っ込まなければ国民が受け入れていると我田引水する人たちですから、やはり黙っていてはダメですよね。声の上げ方が問題ですが…。
> 3行にまとめてください(^^;;;;;
最難関課題でございます。まずは10行くらいから???(^^ゞ