「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

手島堵庵に学ぶ⑦「もし微塵も人我の身びいき出で候えば、これすなわち我慢と申す大悪魔に成りたりと御おそれ、早速に悪魔御退治肝要に御座候。」

2021-11-16 11:18:21 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第七十八回(令和3年11月16日)
手島堵庵に学ぶ⑦
「もし微塵も人我の身びいき出で候えば、これすなわち我慢と申す大悪魔に成りたりと御おそれ、早速に悪魔御退治肝要に御座候。」
                   (手島堵庵『書簡』)

 堵庵が石田梅岩の甥の石田平兵衛に宛てた手紙の一節である。この中に言う「我慢」の意味は、今日使うものとは違い、「自我に執着して起こる慢心」の事を意味している。「もし微塵でも自我に執着する私心から自分本位の心が出て来るならば、これが『我慢』という大悪魔になってしまったのだと畏れ慎んで、早急にこの悪魔を退治する事が必要です。」

 この書簡で堵庵は、近所の人々の忠告に従って、石田家の屋根の破風が身分に過ぎるものなので、早速それを降ろした事について、「大きな慎みであり素晴らしい吉事と思い、たいそう喜んでいます。この事は先祖の方々への孝心の表れであり、さぞ喜ばれているものと思います。その訳は、人間は自分の身を引き下げる事こそが吉祥のしるしだからであります。」「御近所の事を尊敬し大切にされている事はとても大切な事であります。」「これ以後も此度の様に厳密に慎まれ、近所の方々と睦まじく和合される事をお祈りしております。心学の大事と言うのは、この和合こそが第一なのであります。本心には御承知の通り慢心など少しも生まれつき存在してはいないのであります。唯、上を敬い、御先祖御父母に孝養して仕え、一門家内仲良くお努めされるばかりであります。」と述べた後にこの「我慢と申す大悪魔」についての言葉が記されてある。

 「我慢」=「慢心・奢り」こそが人間を駄目にする事は先人達も警告を鳴らし続けている。王陽明は「人生の大病は、ただこれ一の傲字なり。」と。又、わが国には「実るほど頭を垂れる稲穂かな」との警句もある。だが、自分にある程度の自信が付いて来ると、この「傲」「慢」の字が頭をもたげて来る。佐藤一斎によると、男性の五十歳、女性の四十歳がその時期と言う。その時、初心に戻り、「自分は何も知らない、解っていないのだ。」と「謙虚」な姿勢を持ち続ける事が出来るか否かが、その人間の真価を決定する事となる。堵庵が諭すように、「慢心」は「大悪魔」と、肝に銘じて直ぐに退散させねばならない。

 慢心から逃れる工夫の第一が、堵庵の言う「和合」である。

「和をもって貴し」と諭した聖徳太子の十七条憲法の第十条には「心に憤りを抱いたり、それを顔に表したりすることをやめ、人が自分と違ったことをしても、それを怒らないようにせよ。人の心はさまざまでお互いに相譲れないものをもっている。相手がよいと思うことを自分はよくないと思ったり、自分がよいことだと思っても相手がそれをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだ。是非の理をだれが定めることができよう。お互いに賢人でもあり、愚人でもあるのは、端のない鐶(リング)のようなものだ。それゆえ、相手が怒ったら、むしろ自分が過失を犯しているのではないかと反省せよ。自分ひとりが、そのほうが正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、その行うところに従うがよい。」(和樂web編集部現代訳)と記されている。人間は「共に是れ凡夫のみ」なのである。聖徳太子のこの人生姿勢こそが、日本人の和の精神を的確に表している。それは石門心学にも滔々と流れているのである。


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