山川健次郎 その一 (『祖国と青年』平成26年8月号掲載)
文武両道の双璧乃木大将と山川総長
「フロックコートを着た乃木将軍」
(『男爵山川先生傳』)
会津白虎隊出身の山川健次郎は、十七歳でアメリカに留学、エール大学で物理学を学び、日本人として初めて学位を取得した。帰国後は、東京大学教授、理学博士となり、わが国の物理化学の発展に寄与する。巷間で話題となっている理化学研究所の創設(大正六年 . . . 本文を読む
山岡鉄舟 その二(『祖国と青年』平成26年7月号掲載)
晴れていても曇っていても富士山の堂々たる姿は変わる事は無い。
晴てよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変らざりけり
(明治五年十二月「朝廷に奉仕する事」)
山岡鉄舟の残した和歌の中でもっとも有名なのがこの歌である。それは、明治五年に書いた「朝廷に奉仕する事」という文章の最後に記されている。
鉄舟は、徳川慶喜公の使者として西郷隆 . . . 本文を読む
山岡鉄舟 その一(『祖国と青年』平成26年6月号掲載)
天が私を使ってこの事(西郷隆盛との談判)を為さしめたのである。
是れ余が力にあらざるなり。天吾をして此挙に出でしめずんば、安ぞ私人の力、能く茲に至らんや。
(「戊辰の変余が報国の端緒」明治二年八月)
慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、徳川慶喜を討伐すべく東海道・中山道へと軍を進めた。徳川慶喜は、朝廷に対し恭順の意を表 . . . 本文を読む
明治の武士道2「いくさ歌」(『祖国と青年』平成26年5月号掲載)
わが国を汚すものは決して許さず
四百余洲を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃 なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり 正義武断の名 一喝にして世に示す
(「元寇」・明治25年)
明治武士道の精神が良く表されているのは、明治時代に作られ、その後の日本人に愛唱された「軍歌」の歌詞である。
明治二十七年に勃発した日清戦 . . . 本文を読む
明治の武士道1(『祖国と青年』平成26年4月号掲載)
武士道を決して滅ぼしてはならない
武士道ある限り、日本は栄える。それがなくなる時は、日本の滅びる時である。
(内村鑑三「「武士道と基督教」について」昭和3年10月『聖書の研究』)
明治維新は世界史の奇跡だと言われている。それは、身分制度の最上層にあった武士が、国家の将来を考えて、自らの特権を放棄すべく、藩を廃止し(廃藩置県)、身分制度も . . . 本文を読む
維新の歌・佐久良東雄 その二 (『祖国と青年』平成26年3月号掲載)
何回生まれ変わっても、明津神であらせられる天皇陛下に、一心に仕え奉ろうと赤き心を固めている友こそが、私の友であり、私の麗しい友であり、魂の惹かれ合う真の友である。
死変り生かはりつゝ、現神吾が大王に、無比赤心を、一筋に仕へ奉らむと、かためたる友は我が友、東雄がうるはしき友、魂合へる友(『佐久良東雄歌集』より)
東雄の歌の . . . 本文を読む
維新の歌・佐久良東雄 その一(『祖国と青年』平成26年2月号掲載)
春の野に生い出で来て咲く花の様に、この私も、大君の恵みを受けて、武士としての花を咲かせようではないか。
梓弓春野わけつゝ武士の花をさかせむ君のめぐみに
(『佐久良東雄歌集』)
幕末の志士の中で、自らの志と祖国・天皇に対する熱い思いを和歌に詠み込み、多くの人々の魂を揺り動かした第一人者は常陸国生れの志士・佐久良東雄である。 . . . 本文を読む
薩摩武士道 その二(『祖国と青年』平成26年1月号掲載)
平和な時でも、乱れた世の中にあっても、勇断の出来ない人間は役に立たない。
勇断なき人は事を為すこと能はざるなり、治乱共に勇断なき人は用に立たざるなり。(『島津斉彬言行録』巻之五)
幕末期に薩摩がリーダーシップを発揮できたのは、時代の先を読み、それに対応すべく藩を方向付けた名君・第二十八代藩主島津斉彬が居たからに他ならない。斉彬は、その . . . 本文を読む
薩摩武士道 その一(『祖国と青年』平成25年11月号掲載)
鳥に二つの翼があるように、文武両道でなければならない。
やはらぐと怒るをいはば弓と筆鳥に二つの翼とを知れ
(島津日新公いろは歌)
江戸時代は藩ごとに教育が行われ、その優劣が人材の有無につながり、幕末維新期のリーダー藩を生み出した。坂野潤治・大野健一『明治維新 1858‐1881』によると、維新を主導した薩摩・長州・土佐・肥前・越前を . . . 本文を読む
会津武士道 その三(『祖国と青年』平成25年10月号掲載)
絶対的な社会規範の存在
ならぬことはならぬものです。
(「什の掟」)
会津藩と言ったら、この「ならぬものはならぬものです」との厳しい掟が有名である。会津の武家社会には、絶対的な社会規範=掟が存在していた。それは「什の掟」と呼ばれたもので、何と、六歳から九歳までの子供達が毎日唱えていたのである。
会津藩は、地域を区割りしてそれを . . . 本文を読む